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氷妃を殺した暗殺者

作者:佐倉硯
氷妃と呼ばれる王妃(ひと)が居た。

さながら絹のように滑らかに輝く金の髪。澄み渡る海のような青色の瞳。蝶が甘い蜜をたっぷりと含む可憐な花と間違えてしまうほど柔らかな唇。雪の世界に溶けてしまいそうなほど白い肌。異性であれば一度は貪りたくなるプロポーション。
その姿は誰もが振り返るほど見目麗しいものであったが、王妃の心は氷のようだと揶揄される。

彼女が微笑めば見る者すべてが背筋を凍らせ、可憐な唇からこぼれる言葉は冷たく尖った氷そのもの。賢帝と謳われた心穏やかな皇帝には到底似つかわしくない正反対の王妃を、人々は皮肉に氷妃と呼ぶ。
賢帝――アレクトラ・ウガリアには王妃以外に十もの側室が居た。

大国を総べる者の側室としては決して多くない。アレクトラは側室を平等に愛し、けれど正妃であるミリアだけは決して皇帝の寵を受けることがなかった。
賢帝ゆえに王妃が周囲にどのような評価を得ているかを理解していたし、互いに政略結婚という割り切りを持って娶った姫君のため、そこに愛などありはしない。むしろあるのは憎悪のみであると形づけても過言ではないほど、アレクトラはミリアを憎んでさえいた。
彼らを取り巻く大臣や貴族達は皆口々に言う。

――賢帝と呼ばれた御身であろうとも、好意を持てぬ存在があっても仕方がない事。

誰もが氷妃――ミリアを嫌い、その事実と関係を理解した上で黙認していたのだ。

暗闇に包まれた寝室で動く影があった。

金色の髪をベッドの上に散らばらせ、ミリアはその美しく澄んだ青い瞳で自分に向けられた殺意を見つめる。

与えられたベッドの温もりに身じろぎしようともできなかったのが目覚めの合図だった。
長い睫毛が並ぶ瞼をゆっくりと開けば、自分の腹部に跨る影に一瞬驚きはしたものの。すぐにその姿を見て息を呑む。

暗闇に瞳孔が慣れ始めたころ、ミリアの瞳がとらえたのは自分を押さえつける黒い存在。
飾り気もない真っ黒なローブを頭からすっぽりとかぶり、表情も見えぬその人物は自分を見下ろしたまま、銀色に輝く短剣を振り上げて、今にも自分の胸にそれを突き立てようと目論んでいる様子。

ああーー自分は殺されるのだ。

咄嗟に自分の状況を把握したミリアは、その震える心を思わず唇に乗せる。自分でもどのような表情を浮かべたかは定かでなかったが、明らかに自分を見下ろす暗殺者に動揺の色が浮かんだ。

「――なぜ笑う」

暗殺者がミリアに問う。

まさか自分の行為に疑問を投げかけられるとは思わず、ミリアは組み敷かれた状態のままフフフッと笑った。

「私は――貴方を心からお待ちしておりました」

素直に言えば、自分はこんな風に思っていたのかとさらに自覚してふふふっと口元からこぼれる笑みを止められない。
ローブに隠れた顔をうかがい知ることはできなかった。月光が窓辺から囁く程度に入ってくる。その光さえ、自分に跨るその人の背に後光を差しているようにも見えて、その人が自分にとっては神様のようにも思える。

いつも冷笑ではない――これほど心穏やかに微笑むことができたのはいつ振りだろう。

これほどまでに待ち望んでいた機会がようやく訪れた事に、ミリアは高鳴る鼓動を押さえることができないでいる。

「私を殺しに来たのでしょう? さぁ、私の心臓はこちら。出来れば苦しみたくはないので一突きで事切れるよう、全力で貫いてくださいませ」

不思議と自由の利く両手を、抵抗には使わずにシーツの上から自身の心臓の位置を教えるために宛がう。

「さぁ」

と繰り返し殺される事を望んで静かに瞼を閉じるが、いつまで経っても自分の心音は止まることがない。

けれど自分の上にある重みが消えることもなかったことに、ミリアはそっと瞼を持ち上げて先ほどと同じ様子で固まったままのその人を見つめた。

「暗殺者様……?」

思わず声をかけると、その影は小さく体を揺らして反応する。振り上げたままの短剣がゆっくりとミリアの喉仏に近づいていく。

「なぜ抵抗しない」

繰り返される疑問に、ミリアはふふっと笑う。

「する必要がござません」
「理由を言え」
「この国にとって、もはや私は不要の存在ですから」

自身の瞳がどれだけ悲しみに揺れたか、ミリアは気づいていない。
それでも自分がつむぎ出した言葉は紛れもない真実であることを、暗殺者である目の前の人も理解しているはずだ。ふと、ミリアは目の前に居る暗殺者を凝視する。どれだけ夜目に慣れようとも、けっしてその深く被られたローブの隙間からは彼の人がどういう表情を浮かべているのかはわからない。
そういえば、とミリアは思い返したように暗殺者に言った。

「貴方の雇い主はどなたかしら? 誰でもよいけれど、貴方が私を殺しても処罰されないように手筈を整えてくださっていればよいのだけれど」

己が殺された後の心配をするミリアを前に、彼の人はとうとうミリアにも分かるほど動揺した。

「王家の暗殺は大罪だ。それを許される等とは思っていない」

冷静を装うよう暗殺者が淡々と告げた事に対し、ミリアは「そう」と些か納得がいっていないような言葉を口にする。

「貴方が覚悟を持って私を殺しに来てくれたのであれば礼を言わねばなりませんね。貴方の雇い主に対し、寛大な措置を求めたと、誰かが私の意思を理解してくれればよいのだけれど」

なおも直面する死に恐れる事なくミリアが告げれば、暗殺者は苛立ちを覚えてミリアの喉元に短剣をきつく突き付けた。

「黙れ氷妃。この期に及んで誰が貴様の言葉に耳を傾けると言うか」

酷く冷たい物言いだったが、それも当然かとミリアはすんなり受け入れる。

「そうね。そうかもしれないわ。ごめんなさい。いらぬ世話だったわね」

冷たい言葉に対してまたもや予想外の反応を見せたミリアに、暗殺者は短剣を引いた。

「お前は――己が殺されそうになっているのを理解しているはずだ。なぜそこまでして受け入れようとする。なぜ逃げない」
「必要である事です」
「必要?」
「そう、必要。私の死を持ってこの国はようやく完成するのですから」

ミリアの淡々とした口調に彼の人が息をのんだのが分かった。
ミリアはそんな暗殺者に思わず笑みを漏らす。自分を組み敷いたまま、決して劣勢にはなっていないその人に対して静かに尋ねる。

「あなたはなぜ私の言葉に耳を傾けてくださるの?」
「……些細な気まぐれだ。死人に口なしとはよく言う。己の手にかける氷妃の――最期の情けくらい聞いてやろうとな」

優勢で有り続けようとする暗殺者の言葉に、ミリアは少しの間呆けるも、すぐに持ち直したように「ああ」と納得して見せた。

「……そうね、聞いていただけるのであれば。このままでいいから聞いて欲しいわ。ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない」
「その隙に抵抗を見せるようならば殺す」
「それで結構よ。ふふっ」
「何がおかしい」
「いいえ。こうやって誰かと話すのは本当に久しぶりなの。殺されるとわかっていてもやはり人と話せるというのは嬉しいものね」

嬉しそうに弾む声は、まるで危機感がない。むしろ心躍る恋の始まりを喜ぶ可憐な乙女のようにさえ映るミリアに、暗殺者は沈黙で紡がれる言葉を待った。

「この国の皇帝陛下は賢帝と呼ばれるにふさわしい度量を持つお方なの」

静かな暗闇に落ちた言葉の始まりはそれだった。

「私はそんなお方に同盟国としての友好の証として嫁いだわ。それはもう、一目出会った時からお優しい陛下に心魅かれ、お慕いしたわ。けれど陛下には一つだけ欠点があったの」
「欠点?」
「人を疑うことをご存知でない純粋さよ」

想いを馳せるようにミリアの青い目が細く遠くを見つめた。

「陛下のお立場を利用しようとする輩に対しても、あのお方は平等だったわ。全ての民に対等な心配りをされるのは素晴らしい事だけれど、全ての民の願いをかなえる事は叶わない」

そう――あの人は優しすぎた。と、ミリアは零れるように呟いて。

「すべての願いを聞き入れようとされる陛下は、その優しさに付け込まれているという事をご理解されていなかった。むしろ平等に叶えられぬ事に対し、酷くお心を痛めていらっしゃった」

どこまでも優しく、そして同時に脆い人。愛しい存在が心病んでいく姿を見ていたくないのは道理であるから。

「あの人がこの国にとって《善》であるならば、私は《悪》になろうと決めた。陛下を利用しようとする輩には冷たい言葉を浴びせ非難した。陛下自身を顧みぬ輩には冷笑を向けた」
「側室は?」

今まで沈黙を守り続けてきた彼の人が怒を含んだ言葉を紡いだ。

「側室?」

とミリアが尋ねれば、暗殺者は初めて声を荒げてミリアを罵倒する。

「子を身ごもった側室に冷水を浴びせ、子を流したろう!」

酷く冷たい言葉に対し、ミリアは動揺しないまま「ああ」と理解する。

「陛下の寵をその身のみにと欲を張った側室の事ね」
「何?!」
「あれは彼女の狂言ですわ」
「狂言だと!?」

未だ怒りの収まらぬ暗殺者に対し、ミリアは悪びれる様子もなく「ええ」と言った。

「懐妊したと嘘を吐いたのよあの子」
「嘘だ!」
「いいえ、本当。陛下の優しさを己のみに向けてほしいと願った彼女のエゴ。日を追うにも一向に膨らまない腹を見て、いささか疑問を抱いた私が問えば、彼女は泣き崩れて私に助けを求めたわ。すべてはまやかしであり狂言であると」
「まさか――」

ふるりと小さく彼の人が首を横に振る。
信じられないと言った様子で自分の心の中を体で表した暗殺者に対し、ミリアは悲しげに瞳を揺るがせた。

「例えまだ見ぬ腹子であったとしても王族。王族殺しは大罪。貴方もご存じのはずよ……私のせいにしてよい、と言ったの。殺されても仕方がないのは後宮の中で私のみ。だからあの側室は私のせいで子を流したと言った。けれど私を咎めないで欲しいとも。あの側室なりの罪滅ぼしであったと思うけれど、残酷な事をしてくれたと思うわ」

ふふふっと思い返したようにミリアは笑う。自分に降りかかった不幸に対し、まるでそれがただ懐かしい思い出だと言いたげな様子で。

「――なぜ、言わなかったのだ?」

本当の事を――と続くべき言葉はなくとも理解はできた。震える暗殺者の声に、ミリアはふふっと慈しむように笑む。

「陛下は賢帝でなくてはいけない方。悪はすべて私が」
「なぜ」

繰り返される疑問に対し、ミリアはしばらく沈黙を作る。

ただ用意できるのはただ一言。

それを本人に伝えられずに殺される事だけが心残りであり、けれど決して伝えるつもりのない想い。

出来る事ならば。

この想いを秘めたまま。

溢れる想いを口にしないまま死にたかった。

「私にはこの方法でしか……あの方を――アレクトラ様を愛する事が出来なかったのよ」

ツッと生ぬるい液体が青い瞳から両耳へと流れ落ちた。

優しいあの人の心を煩わせるのは、一人でいい。

後にも先にも氷妃と揶揄された過去になるべき存在だけでいい。

あの方の評価を落とすような真似は出来ない為、自害選べない。

自身を知る人間が危害を加える事などもってのほか。
ずっと、ずっと待ち続けていた。

彼の人を――自分を殺めてくれるこの暗殺者を。

誰でもなく、自分を知らぬ未知の存在を。

そうしてようやくこの国は完成する。

賢帝と呼ばれた陛下に総べられ。

平等に愛される美しい姫君達に囲まれ。

末永く反映していくこの国の為。

全ては愛する人の為――。

静かに瞬きを繰り返し、ふわりと笑みを浮かべる。

「聞いてくれてありがとう、心優しい暗殺者様。今日ここで聴いた事はその胸に留めてくださいませ」

ようやく自分の役目が終えられたと。

愛する人に愛される事がない辛い日々を。

それでも添い続けた優しい幸せを。

心穏やかに瞼を閉じれば、あとはこの胸に留まる痛みを貫く刃を待ち望むのみ。

キンッと金属がぶつかる音がした。

有りもしないその不可解な音に、いつまでもこの身に走るはずの痛みを感じず、ミリアは不可解ながらもゆっくりと瞼を上げる。

「……暗殺者様?」

視界に入ってきたのは、暗殺者が短剣を鞘に納めた姿だった。驚きの表情を浮かべるミリアに暗殺者はその短剣をベッドの外へと投げ捨てる。

「……暗殺者様……? なぜ?」

戸惑うミリアの姿を、ローブの中から暗殺者は見下ろしている。

「……殺さないのですか?」

殺してほしいと願っているのに、なぜ――?

ミリアが疑問を口にするより先に、暗殺者の体がふらりと揺れる。

「っ!!」

両手を抑え込まれた途端、ミリアは大きく目を見開いた。

目の前が先ほどよりも真っ暗になったかと思えば、唇に這う温もりに驚愕する。

「んっ……やぅ……」

唇の端から零れる抵抗もむなしく、暗殺者の唇に呑み込まれていく恐怖。

小さく離れた唇から「何を……」と、今まで見せたことのない恐怖がこぼれた事に、暗殺者は満足めいた声で。

「別の方法で氷妃(・・)を殺す事にしたまで」

自分の手を抑えた両手に力がこもった事に、ミリアはすぐさま悟る。

「ひっ……嫌っ……そんなっ……やめっ……」

殺されそうになっても冷静を貫いた氷妃の姿はもはやどこにもなかった。

全てを理解するまでもなく、今から身に起こる現実に心を震わせる乙女が一人存在するだけだ。

「泣き叫ぼうとも無駄だ。どうやってここまで侵入したと思っている。まさか()に居る連中が無事であると思っていての事か。笑止」
「やっ……っ! 嫌っ! 殺してっ!! 殺してっ!!」

必死に抵抗するもむなしく、いやいやと首を大きく横に振るミリアの頬は、すでに恐怖の涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。ただ殺せと願う無垢な女性に対し、暗殺者はククッと笑う。

喉が枯れるような叫びもむなしく、暗殺者のザラリとした舌がミリアの首筋を舐めた――。

「陛下ぁっ!! 陛下っ!! っアレクトラ様ぁっ! 助けっ――!!」
「氷妃を顧みぬ男に助けを乞うか?」
「いやああっ!!! ヤダっ!! やめてっ!!」
「無駄だ」
「っいやあああああああああ!!!」

こうして悲鳴と快楽は夜更けに沈んでいく――。

 ◇◆◇

氷妃と呼ばれたミリアが床に伏せてから十日ほどが過ぎた。

表向きではミリアのワガママによって国務を放棄しているとまことしやかに噂されている事を、皇帝であるアレクトラの耳にも届いている。

十日前に何者かが侵入し、ミリアを辱めたという事実は一部の者しか知りえない。

心を壊したミリアはただひたすら涙を流して床に伏しているという。王妃付きの侍女達は動揺を隠せない。あの凛と澄ました気高き王妃が初めて見せた涙はあまりにも悲痛だ。

夫である皇帝に伽をするより先にシーツを赤く染めた存在が別にあればなおの事だろう。

壊れた王妃を直接気遣う者は誰もいない。むしろ自業自得だと思う存在の方が圧倒的に多いだろう。

もはやそこに氷妃の姿はない。

ただ迫害された一人の女性が悲しみに暮れて涙を流している姿があるのみだ。

「王妃様」

ノックを繰り返しても返答しない部屋の主にしびれを切らせ、侍女が遠慮がちに顔をのぞかせる。

ベッドの上でクッションに顔を埋めたまま反応を示さない主に対し、侍女は戸惑うも冷静を保ちながら静かに告げた。

「陛下がお見えです」

ただその一言にミリアの体がビクリと震えた。
顔を上げる事なくぎゅっと自分を守るようにクッションを抱きかかえるその姿は、世界のすべてに怯えているようにも見える。

人の気配が静かが顔をあげないミリアに歩み寄ってくるのが何となくわかった。

「ミリア」

久しく呼ばれなかった声に、それでも喜びを覚えてしまう悲しさ。

それでも顔を向けることができない自分の失態に、ミリアはクッションに顔を伏せたまま振り返る事などできはしない。

「……離縁を」

何か言いたげな雰囲気を醸し出す背後の気配に、ミリアは先手とばかりに小さくこぼした。

「……このままお話しする事をお許しください陛下」
「……」

決して顔向けできぬ自分の失態。

一体どうして愛しい人に顔が向けられようか。

何も言わぬアレクトラの沈黙を是と受けたミリアは、そのままの格好でもう一度告げた。

「陛下に顔向けできぬ事態となってしまったのは私の非にございます……どうか離縁を……汚れた体で陛下のお傍にはいられますまい」

涙声ではあったが、いつもと変わらぬ凛とした発言は彼女が氷妃であったことを思わせる。

未だ反応を示さぬ愛しい人の存在に心が締め付けられそうなほど痛い。

異なる形にはなったものの、ようやく希望通りに事が進む事に対し、悲しい中にも安堵する自分に自嘲するミリア。

これでいいのだと自分に言い聞かせながらも、溢れそうになる涙を堪えるのは必死で。

「……面を上げよ」

凛としたアレクトラの声がミリアの耳に届いた。それは夫でもなければ愛しい人でもない、皇帝としての命令。

先ほどの沈黙は是ではなかったのかと戸惑いの色がミリアの心に渦巻く。

ゆるゆるとクッションに顔を押し付けながら首を横に振るミリアの姿に、背後から小さなため息が漏れる。いくら陛下の命令であろうとも、顔向けは一生できない。無理だと思えば思うほどまた胸が苦しくなって顔がゆがむ。

こんな、こんな――愛しい人を身近に感じられる久々な時がこんな姿なんて。

羞恥と嫌悪。悲しみが入り混じって堪えていた嗚咽が漏れる。

「……ミリア。今一度」

静かな足音が自分に一歩近づいた気配。ビクリと体を震わせ、硬直させることしかできない愚かな体。

ミリアの反応を見てとったか、その気配はそれ以上近づかないまま。

「……そうやって、また死を願うか? 一人で死んでいくことを望むか?」

穏やかな問いかけに、ミリアは耳を疑う。涙で潤んだ目を大きく見開き、今一度その問いかけを脳内で反芻させる。

ありえない――そう思っていても、確かめられずにはいられない。

ゆっくりと涙にぬれた顔を上げて振り返れば、そこに立っていたのはあの夜自分を辱めた黒いローブを纏った人だった。

「なん……で……?」

明るい部屋で初めて見るその姿はあまりにも滑稽に見えた。

目元まで覆う黒いローブの隙間から、自嘲するようなため息交じりの笑みを浮かべた唇が視界に入る。
目を見開き絶句するミリアの姿に満足したのか、ゆっくりとした動作でその人は頭上を覆ったローブを取り払う。

パサリと布が擦れる音と共に現れたのは、ミリアと同じく金色の髪を持つこの国を総べる男の姿で。

「この声で少しは信じるか?」

唐突に変わった声音。

あの時、自分の心を聞いてくれた暗殺者の声。わなわなと震えだすミリアの唇を見つめ、その人はフッと慈しむような笑みを浮かべた。

「どう、して……へい、か……?」

既に思考を凌駕した真実を突き付けられ、ミリアは動かぬ思考のまま言葉を絞り出す。

一歩だけ前に進んだ黒いローブ姿のアレクトラに、ミリアは視線をそらすことができなかった。

「あの日――どうしてもミリアを許せなかった。ただ、脅すだけのつもりだった。命を狙われさえすれば、お前は恐れ慄き、この国から去るものだと安易な考えで」

まるで贖罪のように。

アレクトラの声音でつむぎ出されるのは、ミリアと暗殺者しか知りえないあの夜出来事。

「誰にも頼めぬのなら、自らその喉に短剣を宛がうと決めた私に。お前は初めて笑った」

そう言うとまた一歩、静かに距離を縮めるアレクトラの姿にミリアはビクッと体を硬直させる。

怯えた――というより、知られてしまったという恐怖。それでもアレクトラから見たミリアは己の存在に怯えたように映っただろう。

「ミリア」

静かに愛しい人が自分の名を呼ぶ。

「ミリア」

それは乞うように。

「ミリア」

それは慈しむように。

「ミリア」

それは悲しむように。

皆まで言わずともすべてを悟ったミリアを、アレクトラの両腕が抱きしめた。

「――今はまだ謝らない。謝る時ではないと思っている」

耳元で囁かれる温もりに、ミリアは目を見開いたまま。

「例の側室に説明を求めた。ミリアの言う通りだった……」

ぐっと近づいた温もりを信じることはできなくて。

「……へい、か……」
「私を賢帝と呼ぶな……お前ひとりを信用できず、何が賢帝だ」
「あ……の……」
「お前の《悪》を持って国が成り立つというならば、それを知ろうとしなかった私は愚帝である」
「ちがっ……」
「お前を利用した」

はっとミリアが息をのむ。

他人を利用するなど狡賢い事など一切してこなかったこの人が、いったい何を言うのだと。

「お前を辱めた事が、私の《悪》だ」

ぎゅっとアレクトラの腕に力がこもる。

途端に締め上げられた体が、はぁっと呼吸を求める。

羞恥。ただそれだけ。

「共に《悪》へ堕ちよう。私に《悪》を教えておくれ。そうしてようやく――俺はミリアに許しを乞おう。一生をかけて償おう。俺を本当の賢帝にしてくれ――ミリア。もう一度、お前を愛する機会を与えてはくれないか?」

止めどもなくあふれ出す涙は、黒いローブに染みを作っていく。
言葉にならない感情がポツリ、ポツリと頬を伝う。力なく何度も頷けば。

ゆっくりと離れたアレクトラの顔を間近に見ることとなって。

慈悲深いエメラルドの瞳が小さく笑む。

ミリア(愛しい人)

認められた存在にどちらからともなく唇が触れた。

溢れんばかりの感情の中にミリアは想う。

あの時――この人の暗殺は成功していたのだ、と。

間違いなく《氷妃》と呼ばれた自分を殺してくれた愛しい《暗殺者》であったと。





昔々あるところに、それはそれは仲睦まじい皇帝と王妃がいた。

皇帝は優しさの中に強かな《悪》を持ち。

王妃は冷たさの中に柔らかな《善》を持っていたという。

皇帝に唯一愛された王妃は、いつしか親しみを持って《華妃》と謳われるようになったという――。






2013.7.8執筆了

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