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一 時の流れ
如月が過ぎ、弥生に入った。
春が来た。
梅の花が咲き、鶯が鳴く。
庭先には若草が芽吹き始め、風が少しずつ柔らかくなっていく。
甘く淡い香りが漂う。
しかし、藤原真薫の心は、春の訪れを喜ぶ余裕などなかった。
緊張していた。
いや、緊迫していた。
藤原道顕との、最後の戦いが近づいている。
それを、真薫ははっきりと感じていた。
肌が粟立つような予感。
嵐の前の、静けさ。
式部省で文机に向かっていても、筆先が震える。
文字が、まっすぐに書けない。
真薫は、何度も深く息を吐いた。
(いつか、必ず)
そう誓ってきた日々。
その「いつか」が、今、目の前に迫っている。
弥生が過ぎ、卯月。
桜が散り、若葉が萌え、世界が緑に染まっていく。
そして、皐月。
橘の花の、甘く爽やかな香りが宮中に満ちる。
弘徽殿中宮顕子の出産が、近づいていた。
宮中全体が、息を詰めて待っている。
男子か、女子か。
その答えが、すべてを決める。




