五 真薫と兼遠
式部省。
昼下がりの庁舎は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
睦月はとにかく儀式が多い。
文官の人事考課、礼式、及び選叙、行賞を司る式部省だ。
忙しさは常のこと。
だが今は――
新年の忙しさは一段落したはずだが、祝賀の余韻よりも、ざわめきの方が濃い。
「真薫くん」
名を呼ばれ、真薫は顔を上げた。
藤原兼遠が、いつになく真剣な表情で立っている。
「少し、時間はあるかな」
「はい」
真薫は、すぐに立ち上がった。
二人は、人の少ない渡殿を進み、奥まった場所にある文殿に入った。
壁代に隔てられ、外の音が遠のいた気がした。
兼遠は、しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるのではない。
覚悟を、整えているのだと真薫は感じた。
「道顕様が、焦り始めている」
ようやく発せられた声は、低かった。
真薫は、何も言わずに頷いた。
「中宮顕子様のご様子は順調だ。だが――」
兼遠は、真薫をまっすぐに見た。
「性別は、生まれてみるまでわからない」
それだけで、十分だった。
「もし、女子だった場合」
言葉を続けながらも、兼遠の眉間には深い皺が刻まれている。
「道顕様は、必ず何かをするだろう。あの方は、状況を待つ人間ではない」
真薫は、喉の奥がひりつくのを感じた。
「顕子様が男子を産めば、それで収まる。だが――」
兼遠は、一拍置いた。
「麗景殿女御――潔子様がいる」
その名を出すだけで、空気が重くなる。
「帝の寵愛を受けている。しかも、源氏だ」
兼遠は、苦々しげに息を吐いた。
「もし潔子様が懐妊し、それが男子であったなら……盤面は一気に変わる」
真薫は、ゆっくりと頷いた。
「だからこそ、道顕様は焦っている」
「はい」
真薫は、はっきりと答えた。
「今はまだ、動いてはいません。しかし……」
その先を、言わなくても理解できる。
「準備は、している」
兼遠の声が、わずかに低くなる。
「だから、気をつけろ」
そう言って、兼遠は真薫の肩を掴んだ。
その手は、強かった。
だが、かすかに震えている。
「私は、長く耐えてきた」
兼遠は、真薫から目を逸らさずに言った。
「もう、十八年だ。見ないふりをし、聞かないふりをし、耐えてきた」
何でもないような顔をしようとして。
兼遠はできないでいた。
声が低く、震える。
兼遠は、かつて同じ年頃だった自分を思い出していた。
だからこそ、言葉を選ばずにはいられない。
「……君には、同じ道を歩ませたくはない」
真薫は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「いよいよ、大きな動きがあるかもしれない」
兼遠は、静かに言った。
「その時のために、準備だけはしておくんだ」
真薫は、深く頭を下げた。
「承知しました」
それだけで、十分だった。
中宮顕子の腹の子が、男子か女子か。
その答えが出る日は、確実に近づいている。
そしてそれは、真薫自身の運命をも巻き込んでくる。
真薫は、部屋を出ながら、はっきりと感じていた。
祝賀の日々は、終わりつつあるのだと。




