二 戻らぬ記憶
その日の朝。
左大臣源基隆邸で、萩野が目を覚ました。
「……ここは……」
萩野の声は涸れていて、か細かった。
喉がからからに渇いていた。
ひとつ、咳をする。
今はただ、水が欲しかった。
女房たちが、気配に気付き、局を覗く。
「萩野殿!」
「目を覚ましました!」
源基隆が、すぐに駆けつけた。
「萩野」
「基隆様……?」
萩野は、混乱していた。
「私は……何を……」
「大丈夫だ」
基隆は、優しく言った。
「お前は、長く臥せっていたのだ。しかし、今、目を覚ました。――よかった」
萩野は、ゆっくりと記憶を辿った。
長く、とても長く眠っていた気がする。
「あの夜……何か、黒い影を見た気がします」
それから、怖い夢を見ていた。
それから……。
萩野は額を押さえた。
眉間に深くしわが寄る。
浮かぶのは困惑の表情だ。
「それから……? 何も、覚えておりません」
基隆は、頷いた。
「わかった。今は、休め」
基隆は、すぐさま潔子に文を送った。
麗景殿。
潔子は、文を受け取った。
女房が、読み上げる。
——萩野が目を覚ました。
潔子は、それを聞いて、喜びにうち震えた。
「萩野……!」
涙がぽろぽろと頬を伝っていく。
「目を覚ましてくれたのね」
潔子は、泣き崩れた。
「よかった……本当に、よかった……」
しかし……。
「会いたい」
潔子は、呟いた。
「萩野に、会いたい。でも……」
潔子は、宮中にいる。
簡単には外に出られない。
「――会えない」
今すぐにでも、飛んで行きたいくらいなのに。
それでも、萩野が目を覚ましたことで、少しだけ心が軽くなった。
「萩野……」
潔子は、文を胸に抱いた。
「目を覚ましてくれて、よかった……」




