怒る声は、近すぎる
翌朝、制作部のホワイトボードには、まだ昨日の文字が残っていた。
朝比奈澪 次案件候補確認。
白瀬玲奈 取材日程確定。
その下に、赤いマーカーで一行が足されている。
朝比奈澪 オーディション日程調整中。
調整中。
まだ決まっていない。
でも、もう動いている。
俺はその文字を見たまま、しばらく立っていた。
「佐伯くん」
背後から水野さんの声がした。
「はい」
「またホワイトボード」
「見てただけです」
「見方が重い」
「文字が重いんです」
「文字のせいにするな」
水野さんは紙コップのコーヒーを持って、俺の横に立った。
「朝比奈さんのオーディション、来週になりそう」
「早いですね」
「早い」
「まだ台本読んだばかりですよね」
「だから、読んでるんだろ」
「そうですけど」
「佐伯くん」
「はい」
「今日はその件に関わるな」
「まだ何もしてません」
「何かしたい顔だった」
「顔、本当に嫌ですね」
「出るからな」
水野さんはホワイトボードを見た。
「今日は次回予告の最終確認と、玲奈ちゃんの取材素材の差し替え。朝比奈さんの件は矢崎さん側」
「はい」
「メールも開くな」
「制作部宛なら」
「俺が見る」
「何なら見ていいんですか」
「予告」
「朝比奈さんは入ってないやつですよね」
「そう」
「安全ですね」
「安全じゃない。君が勝手にいないものを見るから」
何も返せなかった。
水野さんは俺を見て、少しだけ口元を歪める。
「いない人間を見るのが一番危ない」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
俺は机に座る。
パソコンを開く。
未読メール。
十一件。
その中に、件名があった。
【朝比奈澪|オーディション日程候補】
開くな。
開くな。
仕事だ。
開くな。
仕事ではない。
少なくとも、俺の仕事ではない。
指は、件名の上にあった。
クリックしない。
しないまま、カーソルを少しずらす。
白瀬玲奈の予告素材のメールを開いた。
【白瀬玲奈|次回予告ショート動画_確認】
再生ボタンがある。
俺は、一度だけ深く息を吸って、クリックした。
◇
予告動画は、十五秒だった。
桐谷廉の横顔。
雨の窓。
白瀬玲奈の声。
「言えなかったことって、消えると思ってた」
声がいい。
当たり前のように、いい。
低すぎず、高すぎず、感情を押しつけない。
でも、ちゃんと届く。
白瀬玲奈の表情は、昨日の写真よりさらに削れていた。
迷っているようで、迷いすぎていない。
泣きそうではない。
でも、泣かないと決めている顔でもない。
うまい。
崩れすぎない。
崩れなさすぎない。
崩れ方を、選んでいる。
映像が切り替わる。
桐谷廉の台詞。
タイトル。
配信告知。
朝比奈澪はいない。
どこにもいない。
十五秒の中に、一瞬もいない。
それは正しい。
正しいのに、画面の端に彼女のいない空白を探してしまう。
俺は動画を止めた。
もう一度再生する。
仕事として。
白瀬玲奈の声。
「言えなかったことって、消えると思ってた」
その声は、きれいに残る。
残るように作られている。
朝比奈澪の「元気でね」とは違う。
事故ではない。
偶然ではない。
迷っている顔も、迷い方も、全部ちゃんと選ばれている。
だから怖い。
「佐伯くん」
水野さんが声をかけた。
「はい」
「何回目」
「二回目です」
「三回までは仕事」
「四回目からは?」
「気持ち悪いですか」
「だいたい」
水野さんは俺のモニターを覗き込む。
ちょうど白瀬玲奈が目を伏せるところだった。
「いいね」
「はい」
「玲奈ちゃん、ちゃんと直してきた」
「直したというより、削った感じです」
「うん」
「上手いですね」
「上手いよ」
水野さんは、少しだけ黙った。
「でも、本人はたぶん焦ってる」
「まだですか」
「まだ焦ってる」
「何に」
「朝比奈さんに、じゃない」
「はい」
「自分が昨日までの自分に見えることに」
俺は画面を見る。
昨日までの自分。
それを捨てる速度まで、白瀬玲奈は上手い。
「上手い人も大変ですね」
「上手い人は、上手いまま変わらないといけないからな」
水野さんは、俺の机に紙を置いた。
「予告、音と字幕チェック。十五時まで」
「はい」
「朝比奈さんのメールは開くな」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
「もう顔の話やめませんか」
「やめない」
水野さんは戻っていった。
俺は予告動画をもう一度見た。
三回目。
仕事。
四回目は、再生しなかった。
◇
昼前、澪からメッセージが来た。
『台本を読みました』
俺はスマホを見た。
水野さんはいない。
会議室にいる。
だからといって、読んでいい理由にはならない。
でも、画面は開いていた。
『はい』
『怒るところ、やっぱりできません』
短い。
硬い。
『声が出ない?』
送る。
既読。
『声は出ます』
少し間。
『声だけ怒っています』
俺は画面を見る。
声だけ怒っている。
気持ちは追いついていない。
それを自分で分かっている。
『それは、先生に聞いた方がいいです』
打つ。
消す。
違う。
逃げすぎだ。
『台本の相手は、兄でしたよね』
送る。
既読。
『はい』
『相手役はいますか』
『今日は一人で読んでます』
『一人で怒るのは難しいです』
送ってから、また余計なことを言った気がした。
既読。
少し間。
『じゃあ、誰かがいたら怒れますか』
俺は返信できなかった。
誰か。
近い人。
怒ってもいなくならない人。
怒る相手。
『分かりません』
送る。
『またですか』
『またです』
『でも、今日は少し分かってほしかったです』
痛い。
俺はスマホを握る。
『すみません』
『謝らなくていいです』
既読の下に、次の文が来ない。
昼の制作部は、電話の声とキーボードの音で薄くざわついている。
そのざわつきの中で、澪の沈黙だけが濃かった。
やがて、短い文が届いた。
『佐伯さんに怒ってみてもいいですか』
指が止まった。
画面の文字が、妙に近い。
『今ですか』
送る。
『はい』
『メッセージで?』
『はい』
駄目だ。
たぶん。
でも、何が駄目なのか、すぐには言葉にならなかった。
『練習なら、先生か矢崎さんに』
打つ。
消す。
また逃げている。
でも、これは逃げでいい。
逃げるべき場所がある。
『俺相手に練習するのは、違うと思います』
送った。
既読。
長い沈黙。
『違いますか』
『はい』
『どうして』
どうして。
説明すればするほど、混ざる。
でも、言わないと残酷になる。
『俺に怒る理由が、台本ではなくなるからです』
送る。
既読。
入力中。
消える。
また出る。
『少し、もう台本じゃないです』
息が詰まる。
制作部の音が遠くなる。
『それでも、今はやめた方がいいです』
送った。
既読。
すぐに返事。
『逃げましたね』
いつもの言葉。
でも、今日は少し違った。
責めるというより、確認に近かった。
『はい』
送る。
少し間。
『私も逃げます』
続けて。
『今日は、まだ怒りません』
俺は、しばらく画面を見つめた。
まだ。
怒らないのではなく、まだ怒らない。
それだけで、何かが進んでいる。
『はい』
送信。
やり取りはそこで止まった。
◇
午後、予告動画の字幕チェックをしていると、白瀬玲奈のマネージャーから修正戻しが来た。
水野さんが俺を呼ぶ。
「佐伯くん」
「はい」
「玲奈ちゃん、またコメント一箇所直したいって」
「またですか」
「また」
「どこを」
水野さんは画面をこちらに向けた。
修正前。
言えなかったことが、少しだけ画面の中に残った気がしています。
修正後。
言わなかったことが、少しだけ画面の中に残った気がしています。
言えなかった。
言わなかった。
たった一文字ではない。
意味が、かなり違う。
「自分で?」
「本人から」
水野さんが言う。
「玲奈ちゃん、そこにこだわったらしい」
「言えなかった、だと弱く見えるからですか」
「それもあるだろうな」
「言わなかった、なら選んだことになる」
「そう」
白瀬玲奈は、自分の沈黙まで選び直している。
沈黙を背負わされるのではなく、沈黙を選ぶ側に回る。
早い。
怖い。
「通すんですか」
「通す」
「いいんですか」
「本人が背負えるなら」
「背負えるんですか」
「白瀬玲奈なら、たぶん」
水野さんはモニターを戻した。
「朝比奈さんにはまだ無理だな」
「はい」
「でも、いつか言い出すかもしれない」
「何を」
「言えなかったんじゃなくて、言わなかったんです、って」
その言葉は、妙に重かった。
朝比奈澪がそれを言う日。
想像できるようで、できない。
今の彼女は、まだ「言えない」と「言わない」の間で、膝をついている。
白瀬玲奈は、その境界線を歩いている。
ヒールの音も立てずに。
「佐伯くん」
「はい」
「顔」
「またですか」
「また」
「どんな顔ですか」
「見たい顔」
否定できなかった。
「白瀬玲奈も、朝比奈澪も、どっちも見たい顔」
水野さんは淡々と言った。
「混ぜるなよ」
「はい」
「混ぜると、どっちにも失礼だからな」
失礼。
その言葉は、意外に刺さった。
◇
夕方、澪からまたメッセージが来た。
『さっきの、すみません』
俺はスマホを見た。
『怒る練習のことですか』
『はい』
『大丈夫です』
『大丈夫ではなかったと思います』
正しい。
また正しい。
『少し困りました』
送る。
既読。
『はい』
それだけ。
しばらく何も来ない。
俺は予告動画の字幕データを保存した。
白瀬玲奈の台詞。
言えなかったことって、消えると思ってた。
字幕では「言えなかったこと」。
本人コメントでは「言わなかったこと」。
同じ人間の中で、言葉が少しずつ位置を変えている。
スマホが震える。
『台本の怒るところ、もう一回読みました』
『はい』
『怒る声を出そうとすると、ひどい声になります』
『はい』
『普通に読むと、怒ってないです』
『はい』
『どうしたらいいか、分かりません』
俺は返信欄に指を置いた。
分からない。
それでいい。
でも、それだけでは足りない時もある。
『怒ろうとしない方がいいかもしれません』
送ってから、指が冷えた。
言った。
言ってしまった。
既読。
長い沈黙。
『じゃあ、何をすればいいですか』
俺は画面を見る。
ここから先は、危ない。
演出になる。
指導になる。
俺の線になる。
でも、澪は今、たぶん本当に困っている。
困っている人間に、何も言わないこともまた、逃げかもしれない。
『相手にいなくならないでほしいと思って読んでください』
送った。
既読。
すぐには返ってこない。
俺はスマホを伏せる。
机の上で、指が白くなっていた。
数分後。
震えた。
『それ、怒りですか』
俺は画面を見る。
『分かりません』
送る。
『でも、少し近い気がします』
続けて。
『読んでみます』
俺は、すぐに返信しなかった。
返信してはいけない気がした。
でも、既読はついている。
もう、言葉は届いた。
◇
水野さんに呼ばれたのは、その十分後だった。
「佐伯くん」
「はい」
「ちょっと」
声が低かった。
俺はスマホを伏せて、立ち上がる。
第二会議室。
誰もいない。
水野さんは扉を閉めた。
「朝比奈さんに何か送った?」
心臓が一度、強く打った。
「なぜですか」
「矢崎さんから連絡が来た」
「何て」
「今、本人が台本を読んで、少し変わったって」
水野さんの目が冷たい。
「で、君に何か聞いたっぽいと」
逃げられない。
「少しだけ」
「何を」
「怒ろうとしない方がいいかもしれません、と」
水野さんは黙った。
「それから」
「相手にいなくならないでほしいと思って読んでください、と」
言い終えた瞬間、自分の言葉が会議室の白い壁に貼りついた気がした。
かなり、まずい。
水野さんは、しばらく何も言わなかった。
沈黙が長い。
怒鳴られた方が楽だった。
「佐伯くん」
「はい」
「それは、演出だ」
「はい」
「君の仕事じゃない」
「はい」
「しかも他所のオーディションだ」
「はい」
「最悪だな」
「はい」
何も返せない。
返す資格がない。
「ただ」
水野さんは、そこで一度言葉を切った。
「たぶん、悪くない」
俺は顔を上げた。
「悪くない?」
「内容はな」
水野さんの声は冷たいままだった。
「でも、悪くないことと、やっていいことは別だ」
前にも聞いた。
いいものになることと、今やっていいことは別。
「はい」
「君は、線を越えた」
「はい」
「しかも、かなり静かに越えた」
その方が悪い気がした。
勢いではなく。
衝動でもなく。
ちゃんと考えて、越えた。
「すみません」
「謝罪は俺にじゃない」
「朝比奈さんにですか」
「違う」
水野さんは即答した。
「自分の立場にだ」
意味がすぐには分からなかった。
「君が自分の立場を軽く扱うと、朝比奈さんも君の言葉を軽く扱えなくなる」
「はい」
「雑用なら雑用として守れる距離がある。制作なら制作として守れる手順がある。君はそこを曖昧にした」
「はい」
「曖昧な人間の言葉が、一番残る」
刺さった。
深く。
「今日はもう連絡するな」
「はい」
「向こうから来ても」
「はい」
「既読もつけるな」
「はい」
「スマホを俺に預ける?」
「……そこまでは」
「した方がよさそうな顔だぞ」
「します」
言ってしまった。
水野さんが少しだけ眉を上げる。
「本気?」
「はい」
俺はスマホを取り出し、机の上に置いた。
画面を伏せて。
水野さんはそれを見た。
「パスコードは聞かない」
「はい」
「見ない」
「はい」
「ただ、預かる」
「お願いします」
水野さんはスマホを手に取った。
軽い機械。
でも、自分の喉を預けたみたいな気がした。
「佐伯くん」
「はい」
「今日の君は、かなり気持ち悪かった」
「はい」
「でも、少しだけましだった」
俺は水野さんを見た。
「どこがですか」
「自分で預けたところ」
それだけ言って、水野さんは会議室を出ていった。
◇
スマホがないと、制作部の音が妙に大きかった。
コピー機。
電話。
誰かの足音。
キーボード。
笑い声。
水野さんの席の引き出しに、俺のスマホが入っている。
その中に、たぶん澪からのメッセージが来ている。
来ていないかもしれない。
来ているかもしれない。
考えないように、予告動画の字幕を確認する。
白瀬玲奈の声。
「言えなかったことって、消えると思ってた」
消えない。
何も消えない。
送った言葉も。
送らなかった言葉も。
預けたスマホも。
全部、どこかに残る。
十九時過ぎ。
水野さんが俺の席に来た。
「返す」
スマホを机に置く。
「ありがとうございます」
「未読、一件」
喉が鳴った。
「見てませんよね」
「見てない」
「はい」
「たぶん朝比奈さん」
「はい」
「今日は返すな」
「はい」
「でも、見るかどうかは自分で決めろ」
水野さんはそう言って、自分の席に戻った。
俺はスマホを見る。
画面を表にする。
通知。
朝比奈澪。
『読めました』
それだけ。
時刻は十七時二十九分。
俺が水野さんにスマホを預けた少し後。
俺は返信欄を開かなかった。
既読にも、まだしていない。
画面の上で、通知だけが光っている。
読めました。
怒れた、ではない。
できた、でもない。
読めました。
それだけ。
俺はスマホを伏せた。
◇
帰りの電車で、俺はスマホを開かなかった。
通知は、まだ未読のままだった。
朝比奈澪。
読めました。
その二つだけが、画面を見なくても分かる。
電車の窓に、自分の顔が映る。
少し疲れている。
少し気持ち悪い。
たぶん、水野さんの言う通り。
俺は今日、線を越えた。
静かに。
かなり静かに。
その静けさが、一番まずかった。
白瀬玲奈は「言えなかった」を「言わなかった」に直した。
朝比奈澪は、怒ろうとするのをやめて、何かを読めた。
俺は、送るべきではない言葉を送った。
電車が揺れる。
ポケットの中で、スマホの角が指に当たる。
親指は動かなかった。
検索窓でもない。
再生ボタンでもない。
途中で途切れた言葉の続きでもない。
今日は、開かない画面の重さだけが、手の中に残っていた。




