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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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15/16

届かない声ほど、近くに残る

 翌朝、制作部に着くと、机の上に紙の束が置かれていた。


 ロケ資料。


 取材スケジュール。


 配信記事の差し替え案。


 そして、一番上に、付箋。


『佐伯くん、九時半から会議室。水野』


 短い。


 いつもの字。


 俺は鞄を置き、パソコンを立ち上げる前にホワイトボードを見た。


 白瀬玲奈 取材日程確定。


 朝比奈澪 ボイトレ継続。


 朝比奈澪 次案件候補確認。


 そこで、視線が止まった。


 次案件候補確認。


 昨日、水野さんが言っていた。


 次のオーディション。


 うちの案件ではない可能性が高い。


 だから、君は関われない。


 その文字が、もうホワイトボードに乗っている。


 朝になると、なんでも仕事になる。


 泣いたことも。


 声を直すことも。


 誰かの画面に一瞬残ったことも。


 次の案件候補確認。


 たった八文字で、昨日までの傷が次の予定に変わる。


「佐伯くん」


 水野さんの声がした。


「はい」


「九時半」


「見ました」


「逃げるなよ」


「逃げません」


「逃げたい顔だけど」


「だいたいそうです」


「今日は朝比奈さんの話じゃない」


 俺は少しだけ息を吐いた。


 それを見て、水野さんが目を細める。


「安心するな」


「しました」


「するな」


「無理です」


「じゃあ、したまま来い」


 雑だ。


 でも、水野さんらしい。


「何の会議ですか」


「白瀬玲奈の取材と、次回予告まわり」


「俺が必要ですか」


「記録係」


「便利ですね、記録係」


「便利に使ってる」


 水野さんは自分の席へ戻る。


 俺は机に座り、パソコンを開いた。


 メールの未読。


 十七件。


 その中に、矢崎さんからの共有があった。


【朝比奈澪|次案件候補について】


 開くな。


 開くな。


 仕事だ。


 開くな。


 仕事だ。


 指は、もう件名の上にある。


 クリックする前に、背後から声がした。


「佐伯くん」


「はい」


「それ、開くな」


 水野さんは見ていない。


 見ていないのに、言った。


「まだ開いてません」


「開こうとしてた」


「仕事です」


「君の仕事じゃない」


「制作部宛です」


「俺が見る」


「全部ですか」


「全部」


「俺、何なら見ていいんですか」


「今日は白瀬玲奈」


「人間じゃないですか」


「人間だけど、君が混ざりにくい方」


「混ざりにくい」


「混ざらないとは言ってない」


 水野さんはマグカップを持ち上げた。


「九時半まで、別件のロケ資料」


「はい」


「朝比奈さんの件名に触るな」


「はい」


「検索もするな」


「何をですか」


「次案件 朝比奈澪」


 また、先に言われた。


「しません」


「たぶん?」


「しません。たぶん」


「よし」


 よし、ではない。


     ◇


 九時半。


 第二会議室には、水野さん、宣伝部のスタッフ二人、広報担当、それから俺がいた。


 白瀬玲奈本人はいない。


 それだけで、少し空気が違った。


 本人がいない場所で、本人の見え方が決められていく。


 この数日で、もう何度も見た光景だった。


 机の上には、白瀬玲奈の新しい宣材写真。


 取材記事のラフ。


 昨日直した本人コメント。


 次回予告のサムネイル候補。


 どれも整っている。


 整いすぎていて、紙の上に置かれた時点でもう商品だった。


「玲奈さんの取材タイトル案ですが」


 宣伝部のスタッフが資料を配る。


 俺の前にも一枚置かれる。


 そこには、三つの案があった。


 白瀬玲奈が語る、“言えなかったこと”の温度。


 完成された女優が見せた、沈黙の揺らぎ。


 上手さの奥にある、迷い。


 水野さんが紙を見て、すぐに言った。


「二つ目、やめよう」


「沈黙の揺らぎ、ですか」


「うん。朝比奈さんと混ざる」


 俺は記録を打つ手を止めそうになった。


 混ざる。


 その言葉が、今度は白瀬玲奈の方に向けられている。


「澪ちゃんの方が『言葉になる前』とか『声が残る』で動いているので、玲奈さんの方は別軸にした方がいいですか」


「そう。玲奈ちゃんに沈黙を背負わせると、逆に安くなる」


 水野さんは紙を机に置く。


「彼女は喋れる人間だから」


「喋れる人間」


「その喋れる人間が、何を言わなかったか。そっちの方がいい」


 宣伝部のスタッフが頷く。


「では、一案目寄りですかね」


「ただ、“温度”は少し便利すぎる」


「便利、ですか」


「何にでも使える言葉は、何にも刺さらない」


 水野さんは、俺を見ていない。


 でも、俺は見られている気がした。


 便利な言葉。


 使いやすい箱。


 注文。


 全部が、別の人間にも向いている。


「タイトル案、少し具体に寄せます」


「うん。玲奈ちゃん本人の言葉も拾って。『味方かどうか決められたくない』とか」


「それ、使っていいんですか」


「本人確認は必要。でも、方向としてはそこ」


 宣伝部がメモを取る。


 俺も記録を打つ。


 白瀬玲奈は、味方かどうか決められたくない。


 朝比奈澪は、まだ自分の声を自分のものにしたい。


 二人とも、見られる場所で抵抗している。


 抵抗の仕方が、まったく違う。


 会議は淡々と進む。


 白瀬玲奈の写真。


 白瀬玲奈の言葉。


 白瀬玲奈の見せ方。


 その全部が、白い机の上で少しずつ整えられていく。


 俺は記録を打ち続けた。


 指は動く。


 仕事はできる。


 それが、少しだけ嫌だった。


     ◇


 会議の終盤、広報担当が一枚の資料を出した。


「それと、次回予告のショート動画ですが、玲奈さん版と桐谷さん版で二本切ります」


「朝比奈さんは入る?」


 水野さんが聞いた。


 俺は顔を上げない。


 記録画面だけを見る。


「現状、入っていません」


「理由は」


「本編では反応がありましたが、予告の訴求としては玲奈さんと桐谷さんの関係性を押した方が安定するので」


「安定」


「はい」


 水野さんは少し黙った。


 会議室の空調の音がする。


「それでいいと思う」


 そう言った。


 俺はキーボードの上で指を止めた。


 入らない。


 朝比奈澪は、次回予告には入らない。


 残った声。


 反応があった二言。


 でも、宣伝の中心には入らない。


 それは正しい。


 彼女は主役ではない。


 元同級生役。


 短い出演。


 短いかどうかは、見た人が決める。


 でも、宣伝では決められる。


「ただ」


 水野さんが続けた。


「朝比奈さんの反応は、別で拾っておいて。事務所が次に使うかもしれない」


「はい。反応メモは更新しておきます」


「悪い反応も抜くなよ」


 広報担当が顔を上げる。


「悪い反応も、ですか」


「本人に全部見せろって意味じゃない。大人が判断する時に、都合のいい反応だけ見てると事故る」


 事故。


 澪の言葉を思い出す。


 昨日の声を、ただの事故にしたくないです。


 別の場所で、大人たちは事故を避けようとしている。


 同じ単語なのに、温度が違う。


「了解しました」


 広報担当がメモを取る。


 水野さんは俺を見た。


「佐伯くん」


「はい」


「今の記録、残して」


「はい」


「あとで俺にだけ送って」


「全体共有ではなく?」


「うん。全体共有には載せない」


「なぜですか」


「面倒だから」


「雑ですね」


「人間相手だからな」


 また、それ。


 でも今日は少し違って聞こえた。


 面倒だから、守れるものもある。


 面倒だから、壊れるものもある。


 その違いは、まだ分からない。


     ◇


 会議が終わると、水野さんは俺に紙の束を渡した。


「これ、玲奈ちゃんの取材用にスキャンして共有」


「はい」


「朝比奈さんのメールは開くな」


「まだ覚えてたんですか」


「君が忘れてないからな」


「俺が?」


「忘れた顔をしてない」


 顔は本当に不便だった。


 俺は紙の束を持って複合機へ向かう。


 スキャン。


 白い光が紙の上を走る。


 白瀬玲奈の写真。


 白瀬玲奈のコメント。


 白瀬玲奈の修正案。


 綺麗な紙が、綺麗なデータになる。


 その間に、スマホが震えた。


 ポケットの中。


 俺は取り出さない。


 震えは一度だけだった。


 澪かもしれない。


 水野さんかもしれない。


 矢崎さんかもしれない。


 ただの通知かもしれない。


 複合機の読み取り音が止まる。


 俺はデータを確認して、共有フォルダに入れた。


 それから、スマホを見る。


 澪だった。


『今日、事務所です』


 短い。


 俺は複合機の前で立ち止まる。


『次の件ですか』


 送る。


 既読。


『たぶん』


 たぶん。


 彼女の「たぶん」は、前より少し増えた。


 怖い時。


 まだ自分のものになっていない時。


 それでも進む時。


『怖いですか』


 打つ。


 送る前に消す。


 何度同じことを聞くつもりだ。


 でも、別の言葉が出ない。


 結局、少し変えて打った。


『行けそうですか』


 既読。


 少し間。


『行きます』


 いつもの返事。


 でも、今日はそれだけでは終わらなかった。


『行けるかどうかは、まだ分かりません』


 俺は画面を見る。


 行きます。


 行けるかどうかは分からない。


 その二つが並んでいる。


『それでいいと思います』


 送った。


 既読。


『それ、四割ですか』


『五割くらいです』


『上がりました』


『今日だけです』


『じゃあ、今日だけ信用します』


 少しだけ、息が抜ける。


 複合機の横で、俺はスマホを伏せた。


 そこへ、水野さんの声。


「佐伯くん」


 振り向く。


 少し離れた場所に、水野さんが立っている。


「何してる」


「スキャンです」


「スマホ見ながら?」


「通知が」


「朝比奈さん?」


「はい」


「来たら考えろ、とは言った」


「はい」


「考えた?」


「少し」


「足りない顔だな」


「すみません」


「謝るな。考えろ」


 水野さんは、俺の手元の紙束を見た。


「白瀬玲奈の資料を持ったまま、朝比奈さんと連絡するな」


 刺さった。


 俺は紙束を見る。


 白瀬玲奈の写真。


 朝比奈澪のメッセージ。


 同じ手で持っている。


「混ざる」


 水野さんが言った。


「はい」


「物理的にもな」


「はい」


 俺は白瀬玲奈の資料を先に共有フォルダへ戻した。


 スマホはポケットへしまった。


 水野さんはそれを確認して、何も言わずに戻っていった。


     ◇


 昼過ぎ、矢崎さんからのメールを水野さんが開いた。


 俺は開いていない。


 でも、水野さんが俺を呼んだ。


「佐伯くん」


「はい」


「来て」


 また、嫌な予感がした。


 第二会議室。


 水野さんはノートパソコンを開いたまま、画面をこちらに向けない。


「朝比奈さんの次案件」


「はい」


「小さな配信ドラマのオーディション候補」


「はい」


「役は、主人公の妹」


「妹」


「台詞は多い。感情の起伏もある。泣くシーンもある」


 泣くシーン。


 俺の中で、何かが嫌な音を立てる。


「受けるんですか」


「まだ候補。事務所が本人に確認中」


「早すぎませんか」


「早い」


「じゃあ」


「でも、遅いと消える」


 水野さんは画面を閉じた。


「そういう仕事だ」


「水野さんは、どう思いますか」


「早いと思う」


「はい」


「でも、悪くないとも思う」


「どっちですか」


「どっちも」


 最近、そればかりだ。


 良いことと悪いことが、同じ顔で来る。


「朝比奈さん、受けますかね」


「受けるだろ」


「どうして」


「怖いです。でも、行きます。って言うタイプだから」


 水野さんが、澪の口調を真似るように言った。


 似ていなかった。


 でも、たぶん合っていた。


「君はどう思う」


 聞かれた。


 俺はすぐには答えられなかった。


 受けてほしい。


 見たい。


 でも、早い。


 壊れるかもしれない。


 でも、受けなければ消えるかもしれない。


 消える方が怖いのか。


 壊れる方が怖いのか。


 それとも、俺が見られない場所で変わることが怖いのか。


「分かりません」


 俺は言った。


 水野さんは頷いた。


「よし」


「よしですか」


「分かったふりよりはいい」


「でも、何もできません」


「できないね」


「ひどいですね」


「事実だからな」


 水野さんは、閉じたパソコンに手を置いた。


「ただ、もし本人から聞かれたら、受けろともやめろとも言うな」


「はい」


「君は見たいだけだから」


 正面から言われると、腹の奥が冷える。


「はい」


「見たい人間が、行くかどうかを決めるな」


「はい」


「でも、見たいこと自体は、たぶん悪ではない」


 俺は水野さんを見た。


 珍しい言い方だった。


「悪ではないんですか」


「悪になる時がある、くらい」


「便利ですね」


「便利に生きないと大人はもたない」


 水野さんはそう言って、立ち上がった。


「本人から来たら考えろ。今度はちゃんと」


     ◇


 澪から連絡が来たのは、十五時過ぎだった。


『次のオーディションの話を聞きました』


 俺は机にいた。


 白瀬玲奈の取材資料は、もう手元にない。


 朝比奈澪のメールも開いていない。


 画面には、別件のロケ資料だけ。


 それを確認してから、スマホを取った。


『はい』


『知ってましたか』


『少しだけ』


『また水野さんですか』


『はい』


『そうですか』


 この「そうですか」が、今日は少しだけ硬かった。


『嫌ですか』


 送る。


 既読。


 長い沈黙。


『嫌です』


 正直だった。


『でも、知らないままよりはいいです』


『はい』


『役、妹らしいです』


『聞きました』


『台詞、多いらしいです』


『聞きました』


『泣くシーンもあるらしいです』


『聞きました』


 既読。


 沈黙。


『佐伯さんは、どう思いますか』


 来た。


 水野さんの言葉が、すぐに頭の中で鳴る。


 受けろともやめろとも言うな。


 君は見たいだけだから。


 見たい人間が、行くかどうかを決めるな。


 俺は返信欄に指を置いた。


 受けた方がいい。


 まだ早い。


 見たい。


 怖い。


 やめてほしい。


 行ってほしい。


 全部、駄目だ。


『分かりません』


 送る。


 既読。


 少し間。


『今日、それ多いですね』


『多いです』


『逃げていますか』


『少し』


『でも、本当に分からないですか』


 俺は画面を見た。


 逃げ道を塞ぐのが、少し上手くなっている。


『本当に分かりません』


 送る。


 既読。


 長い沈黙。


『私は、怖いです』


『はい』


『妹役って、たぶん普通に喋らないといけません』


『はい』


『普通が一番難しいです』


 その通りだった。


 沈黙。


 歪み。


 変な声。


 そういうものが「残る」と言われたあとで、普通に喋る。


 それは、たぶん一番難しい。


『でも、普通ができないまま、変な声だけ残るのも怖いです』


 俺はスマホを持つ手に力を入れた。


『受けますか』


 送ってから、少し後悔した。


 また、答えを急がせている。


 既読。


 長い沈黙。


『まだ決めてません』


 珍しかった。


 澪が、行きます、と即答しない。


『そうですか』


『はい』


『決めてないのに、少しだけ台本を読みました』


『どうでしたか』


『妹が、兄に怒るシーンがありました』


『はい』


『怒れませんでした』


 俺は画面を見る。


『声が?』


『声もです』


 少し間。


『気持ちもです』


 怒れない。


 彼女らしい。


 でも、そこに留まっていい段階ではもうない。


『怒るのは苦手ですか』


『苦手です』


『どうして』


 既読。


 入力中。


 消える。


 また出る。


『怒ったら、相手がいなくなる気がします』


 その一文は、妙に幼かった。


 そして、妙に深かった。


 俺は返せなかった。


『でも、妹役は怒ってました』


 続けて来る。


『兄に、ちゃんと怒ってました』


『はい』


『怒れる人は、近い人なんですね』


 俺は、しばらく画面を見ていた。


 怒れる人は、近い人。


 それを澪が言う。


 静かに。


 自分の中にないものを、役の中で見つけるように。


『そうかもしれません』


 送る。


『佐伯さんは、怒れますか』


 急に来る。


 俺は苦笑しそうになった。


『水野さんにはたまに』


『それは怒ってるんですか』


『たぶん、違います』


『じゃあ、誰に怒れますか』


 誰に。


 自分に。


 昔の大人に。


 画面に。


 検索窓に。


 再生ボタンに。


 それから、たぶん。


『あまり得意ではありません』


 送る。


 既読。


『じゃあ、同じですね』


 少し前なら、そう言われて、少しだけ救われたかもしれない。


 今は、少し怖かった。


 同じ場所に立つな。


 同じ地獄を、名前にするな。


『同じにしない方がいいです』


 送る。


 既読。


 少し間。


『はい』


 それだけ。


 突き放しすぎたかもしれない。


 でも、必要だった。


 たぶん。


『でも、少しだけ分かるところはあります』


 澪から来た。


『それくらいにしておきます』


 俺は息を吐いた。


『それくらいがいいと思います』


『五割ですか』


『五割です』


『今日は高いですね』


『たぶん、今日だけです』


『じゃあ、今日だけ信用します』


 同じやり取り。


 でも、昨日とは少し違う。


 同じ場所に落ちないための、薄い線のように見えた。


     ◇


 夕方、白瀬玲奈の取材素材が公式に更新された。


 水野さんが俺に共有を飛ばす。


 見ろ、とは書かれていない。


 でも、仕事として確認する必要がある。


 俺は開く。


 白瀬玲奈の新しい写真。


 そして、更新された見出し。


 白瀬玲奈が語る、「言えなかったこと」の残し方。


 残し方。


 その単語に、指が止まる。


 宣伝部は上手い。


 白瀬玲奈も上手い。


 残る、ではなく、残し方。


 偶然ではなく、技術。


 傷ではなく、選択。


 白瀬玲奈に合っている。


 怖いくらいに。


 写真の玲奈は、少しだけ目を伏せていた。


 迷っているように見える。


 でも、きっと迷っているように見せることを選んでいる。


 上手い人間ほど、崩れ方を選べる。


 俺はその画面を閉じた。


 スマホを見る。


 澪から新着はない。


 それでいい。


 来ない方がいい。


 でも、今日は来ないことが少しだけ気になった。


 次のオーディション。


 妹役。


 怒るシーン。


 普通に喋る。


 怒れる人は、近い人。


 彼女は今、どこに立っているのか。


 俺のいない場所で。


 俺の声が届かない場所で。


 彼女は、怒る練習をしているのかもしれない。


 想像した瞬間、嫌なほど見たくなった。


 俺は椅子から立ち上がる。


 コピー機へ向かう。


 何かを印刷する用事はなかった。


 でも、立っていないと、検索しそうだった。


     ◇


 夜、帰り支度をしていると、水野さんに呼ばれた。


「佐伯くん」


「はい」


「朝比奈さん、オーディション受けるって」


 思ったより、早かった。


 俺は鞄のファスナーを閉める手を止めた。


「本人が決めたんですか」


「本人が」


「そうですか」


「矢崎さんいわく、台本をもう一回読んで、決めたらしい」


「はい」


「怖いです。でも行きます、ではなかったそうだ」


 俺は顔を上げた。


「何て」


「怒れるようになりたいです、って」


 制作部の音が、少し遠くなる。


 コピー機。


 電話。


 誰かの笑い声。


 全部が、薄い膜の向こうへ行く。


 怒れるようになりたい。


 妹役。


 兄に怒るシーン。


 怒れる人は、近い人。


 その線が、澪の中で繋がった。


 俺の知らないところで。


「佐伯くん」


「はい」


「嬉しそうにするなよ」


「してません」


「してる」


「してません」


「してる。今日いちばん気持ち悪い」


「それ、毎回更新されますね」


「君が更新するからな」


 水野さんは、鞄を持った俺を見た。


「次のオーディション、うちの現場じゃない」


「はい」


「君は関われない」


「はい」


「でも、結果はたぶん入ってくる」


「はい」


「その間、君は何もできない」


「はい」


「検索するなよ」


「たぶん、します」


 言ってしまった。


 水野さんが眉を上げる。


「正直だな」


「すみません」


「謝るな。制限しろ」


「一日一回ですか」


「三日に一回」


「厳しいですね」


「君は三日で一回くらいがちょうどいい」


「死にそうです」


「死なない」


 水野さんは少しだけ笑った。


「あと、本人に聞くな」


「何を」


「オーディションの練習。台詞。怒るシーン。全部」


「向こうから来たら」


「その時は、その時に考えろ」


「便利ですね」


「便利に使え」


 水野さんは自分の机に戻る。


 俺は鞄を持つ。


 スマホは震えていない。


 今の話を澪は送ってこない。


 怒れるようになりたいです。


 それを、彼女は俺ではなく、矢崎さんに言った。


 それでいい。


 それがいい。


 少しだけ、胸の奥が乾いた。


     ◇


 駅へ向かう途中、スマホが震えた。


 澪だった。


『受けることにしました』


 俺は人の流れの端に寄った。


『聞きました』


 送る。


 既読。


『また水野さんですか』


『はい』


『早いですね』


『早いです』


『嫌でしたか』


 俺は画面を見る。


『少し』


 送る。


 既読。


 長い沈黙。


『私も、少し嫌でした』


『何がですか』


『佐伯さんが先に知っていることです』


 その言葉は、静かだった。


 でも、刺さった。


『すみません』


『謝ることではないです』


 少し間。


『でも、少し嫌です』


『はい』


『次は、私から言いたいです』


 俺は返信欄に指を置く。


 それでいい。


 言ってください。


 待っています。


 全部、少し違う。


『はい』


 送る。


 既読。


『怒れるようになりたいです』


 来た。


 水野さんから聞いた言葉。


 でも、本人から来ると違う。


『はい』


『怒るのは、嫌いです』


『はい』


『でも、怒れないままだと、近くに行けない気がしました』


 近くに行けない。


 怒れる人は、近い人。


 朝の澪と、今の澪が、同じ線の上にいる。


『そうかもしれません』


 送る。


『佐伯さんは、怒らないですよね』


『あまり』


『怒ってもいいです』


 俺は立ち止まった。


 人が俺を避けて流れていく。


『誰に』


 送る。


 既読。


『私に』


 息が詰まった。


『なぜ』


『たぶん、必要なら』


 必要なら。


 俺の言葉が、少し変わって返ってきた。


 必要だから喋る。


 必要なら怒る。


 その先に何があるのか、まだわからない。


『今は必要ありません』


 送る。


 既読。


『はい』


 少し間。


『でも、いつか必要なら』


 そこで文は途切れた。


 次は来ない。


 俺はスマホを見つめる。


 その未完成の文のまま、画面が暗くなった。


 俺は返信しなかった。


     ◇


 電車の窓に、自分の顔が映っている。


 その奥に、流れていく街の光。


 白瀬玲奈は、自分の崩れ方を選ぶ。


 朝比奈澪は、怒れるようになりたいと言う。


 俺は、どちらにも触れられない。


 触れない方がいい。


 触れないまま、見ている。


 それが一番悪いのかもしれない。


 スマホはポケットの中で静かだった。


 親指が、角をなぞる。


 検索窓でもない。


 再生ボタンでもない。


 誰かの声が戻ってくる場所でもない。


 今日は、途中で途切れた言葉の続きを、探していた。

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