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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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14/16

上手い人間ほど、崩れ方を選べる

 翌朝、制作部のホワイトボードには、新しい予定が増えていた。


 朝比奈澪 ボイトレ継続。


 白瀬玲奈 取材素材確認。


 同じ青いマーカーで書かれている。


 同じ番組の、同じ放送後対応。


 でも、並んだ二つの名前は、まったく別の場所に立っているように見えた。


 朝比奈澪。


 直す声。


 白瀬玲奈。


 崩す顔。


 俺はその二行を見て、少しだけ足を止めた。


「佐伯くん」


 背後から水野さんの声がした。


「はい」


「ホワイトボードに恋するな」


「してません」


「してる顔だった」


「名前が並んでただけです」


「名前は危ないからな」


 水野さんは、自分のマグカップを持ったまま、ホワイトボードを見た。


「朝比奈さんの資料、昨日送った?」


「はい」


「混ぜた?」


「混ぜてません」


「本当に?」


「本当に」


「気持ち悪いな」


「混ぜてないのにですか」


「混ぜてない顔じゃない」


「じゃあどんな顔ですか」


「混ぜたかった顔」


 返せなかった。


 水野さんは、満足そうでもなく、ただ確認を終えた人間の顔で頷いた。


「今日は玲奈ちゃんの方を手伝って」


「白瀬さんですか」


「うん。取材素材。宣材の新しい方と、本人コメントの差し替え案」


「俺が見ていいんですか」


「見るだけならな」


「触っていいんですか」


「触る内容による」


「怖いですね」


「仕事だからな」


 水野さんは、ホワイトボードの白瀬玲奈の名前を軽く指で叩いた。


「彼女は彼女で動いてる」


「昨日、聞こえました」


「聞こえたんじゃなくて聞いたんだろ」


「閉じられない耳なので」


「便利な耳は、そのうち切られるぞ」


「物騒ですね」


「制作現場だぞ」


 水野さんはそう言って、自分の席へ戻っていった。


 俺は机に座る。


 共有フォルダを開く。


【白瀬玲奈|取材素材確認】


 クリックする。


 フォルダの中には、写真が六枚。


 宣材写真の新旧比較。


 インタビュー用プロフィール。


 本人コメント案。


 事務所確認戻し。


 ファイル名が、きれいに揃っている。


 朝比奈澪のフォルダとは違う。


 白瀬玲奈のフォルダは、迷いが少ない。


 どのファイルも、最初から誰かに見られるために整っている。


 俺は一枚目の写真を開いた。


 新しい宣材写真。


 白い背景。


 柔らかい光。


 少しだけ笑っている。


 でも、目は笑いきっていない。


 以前の宣材写真より、ほんの少しだけ影がある。


 明るい。


 綺麗。


 怖い。


 その三つが、同じ顔の中で破綻せずに並んでいる。


 上手い。


 上手い人間は、崩れた顔まで上手い。


 俺は写真を閉じる。


 次に、本人コメント案を開いた。


 昨夜の放送について。


 役として、主人公の過去に触れるシーンでした。


 言葉にしない感情を、今の関係にも響かせられたらと思って演じました。


 短い出演でしたが、物語の温度が少しでも変わっていたら嬉しいです。


 きれいだった。


 きれいすぎるほど、きれいだった。


 誰に見られるかをわかっている文章。


 どこまで深く見せて、どこから先を隠すかを知っている文章。


 朝比奈澪のコメント動画とは、まったく違う。


 あちらは、自分の一拍を残すために震えていた。


 こちらは、残る一文を最初から選んでいる。


 俺は画面を見つめた。


 うまい。


 うますぎる。


 それは安心ではなく、少しだけ不穏だった。


     ◇


 白瀬玲奈が制作会社に来たのは、昼前だった。


 本人確認のため。


 オンラインでも済むはずだったが、近くで別件の撮影があるらしい。


 そのついでに、本人が直接見たいと言った。


 制作部の空気が、少しだけ変わる。


 朝比奈澪が来た時の、妙な緊張とは違う。


 白瀬玲奈が来る時、現場は少しだけ整う。


 机の上の紙が寄せられる。


 椅子が一つ空けられる。


 誰かがマグカップを片づける。


 誰かが髪を触る。


 誰も、それを「整えています」とは言わない。


 でも、整う。


 白瀬玲奈は、それをさせる側の人間だった。


「お疲れ様です」


 声がした。


 入口に、白瀬玲奈が立っていた。


 マネージャーらしき女性が隣にいる。


 玲奈は黒いニットに、薄いグレーのロングコート。


 派手ではない。


 でも、画面から出てきた人間のように、そこに立っていた。


 制作部の蛍光灯さえ、少しだけ彼女に合わせて見える。


 白瀬玲奈は水野さんに挨拶し、スタッフに軽く頭を下げる。


 その動作に、余分な力がない。


 何度も見られてきた人間の、見られ慣れた身体。


 朝比奈澪の姿勢が、白紙の前に立つ筆なら。


 白瀬玲奈の姿勢は、最初から額装された写真だった。


 水野さんが俺を呼ぶ。


「佐伯くん、資料」


「はい」


 俺はプリントした確認資料を持って、会議スペースへ向かった。


 白瀬玲奈がこちらを見る。


 一瞬だけ。


 目が合った。


「お疲れ様です」


 彼女が言う。


「お疲れ様です」


 俺も返す。


 白瀬玲奈は、俺の顔を見て、少しだけ首を傾げた。


「佐伯さん、でしたよね」


「はい」


「この前、カメラの横にいた」


 覚えている。


 それだけで、胃の奥が少しだけ冷える。


「雑用です」


 俺が言うと、白瀬玲奈は笑った。


 声を立てずに。


「水野さんの現場の雑用って、だいたい雑用じゃないですよね」


「俺は雑用です」


「そう言う人ほど、変なところを見てる」


 水野さんが資料を受け取りながら、横から言った。


「玲奈ちゃん、そいつに余計な餌をやらないで」


「餌」


「調子に乗るから」


「乗りますか?」


 白瀬玲奈が俺を見る。


「乗りません」


「乗りそう」


「乗らないです」


「じゃあ、少しだけ」


「玲奈ちゃん」


 水野さんの声が低くなる。


 白瀬玲奈は肩をすくめた。


 慣れている。


 この程度の制止も、会話の一部として処理できる。


 上手い。


 俺は資料を机に置いて、一歩下がった。


「佐伯くん、残って」


 水野さんが言った。


「いいんですか」


「記録係」


「記録なら別の人でも」


「君でいい」


 白瀬玲奈が、少しだけ俺を見た。


 その目に、興味があった。


 嫌な種類ではない。


 でも、安心できる種類でもない。


     ◇


 会議は短いはずだった。


 宣材写真の確認。


 本人コメントの調整。


 取材記事に載せる一文の差し替え。


 それだけ。


 白瀬玲奈は、資料に目を通すのが早かった。


 読む速度が速いというより、見るべき場所を知っている。


 写真を一枚ずつ確認する。


 表情。


 目線。


 口元。


 影。


 服の皺。


 背景の抜け。


 マネージャーが説明するより先に、玲奈が小さく指を置く。


「これ、口角が少し強いです」


「強い?」


 宣伝部のスタッフが聞く。


「優しすぎます。今回の役だと、もう少し迷ってる顔の方がいいです」


「迷ってる顔」


「はい。見てる人に、味方かどうか決められたくないので」


 宣伝部のスタッフがメモを取る。


 水野さんは黙っている。


 俺も記録を打つ。


 味方かどうか決められたくない。


 白瀬玲奈は、自分がどう見られるかを知っている。


 そして、どう見られすぎると損をするかも知っている。


「本人コメントの方はどう?」


 水野さんが聞く。


 白瀬玲奈は、紙を一枚めくった。


「この『言葉にしない感情』は、少し説明っぽいです」


「言葉にしない感情」


「はい。きれいだけど、便利すぎる」


 便利。


 その言葉で、水野さんが少しだけ笑った。


「どうしたい?」


「『言えなかったこと』くらいにしたいです」


「シンプルだね」


「その方が残ると思うので」


 残る。


 俺の指が、キーボードの上で止まる。


 白瀬玲奈は気づいた。


 たぶん。


 彼女は俺の手元を一瞬だけ見て、すぐに資料へ視線を戻した。


「あと、『短い出演でしたが』は削りたいです」


 宣伝部のスタッフが顔を上げる。


「そこ、謙虚でいいかなと思ったんですが」


「謙虚に見えるけど、自分で自分の出番を小さく見せてる感じがします」


「なるほど」


「短いかどうかは、見た人が決めるので」


 その場が少し静かになった。


 白瀬玲奈は、当たり前の顔で言った。


 短いかどうかは、見た人が決める。


 朝比奈澪の二言を思い出す。


 短かった。


 でも、消えなかった。


 水野さんが俺を見る。


 見るな、という目。


 いや、見たな、という目。


 俺は記録に戻る。


「では、コメント案は玲奈さん案を反映して再調整します」


 宣伝部のスタッフが言う。


 白瀬玲奈は頷いた。


「お願いします」


 会議はそこで終わるはずだった。


 けれど、白瀬玲奈は資料を閉じず、もう一枚の紙を見た。


 昨夜の放送後反応メモ。


 朝比奈澪の名前が、端にある。


 俺は気づいた。


 水野さんも気づいた。


 宣伝部のスタッフは、少し遅れて気づいた。


「これ」


 白瀬玲奈が言った。


「朝比奈さんの反応も入ってるんですね」


「参考用です」


 宣伝部のスタッフが答える。


「シーン全体の反応を見るために」


「そうですよね」


 白瀬玲奈は、紙を見たまま言った。


 笑っていない。


 怒ってもいない。


「私の名前と一緒に、けっこう並んでますね」


 その言い方は、軽かった。


 軽いから、少し怖かった。


 水野さんが口を開く。


「気になる?」


「気になりますよ」


 白瀬玲奈はあっさり答えた。


「同じ画面にいたので」


「うん」


「それに、あの子の声、変でした」


 制作部の空気が、少しだけ止まる。


 俺はキーボードを打つ手を止めた。


 白瀬玲奈は続ける。


「下手、というより。変」


 その言葉に、悪意はない。


 でも、逃げ場もない。


「でも、変だから残った」


 白瀬玲奈は紙から顔を上げた。


 俺を見た。


 なぜ俺を見る。


「佐伯さんも、そう思いましたよね」


 水野さんが低く言う。


「玲奈ちゃん」


「すみません。聞いちゃ駄目でした?」


「駄目というか、そこにいる雑用に聞くことじゃない」


「雑用さん、すごく見てたので」


 白瀬玲奈は俺から視線を外さない。


 まっすぐ。


 上手い人間の、逃げ道を塞ぐ視線。


 俺は、答えない。


 答えられない。


 答えれば、また名前になる。


 でも、黙っていても、それは答えに近い。


 水野さんが俺を見る。


 下がれ、という目。


 俺は一歩下がろうとした。


 その前に、白瀬玲奈が言った。


「私、ああいう声は出せません」


 静かだった。


 部屋の誰も、すぐには返さなかった。


「出せないというより、出したら嘘になります」


 白瀬玲奈は自分の指先を見る。


 爪は薄い色で整えられている。


「私は、ちゃんと喋れるので」


 その言葉は、誇りにも聞こえた。


 傷にも聞こえた。


「ちゃんと喋れる人間が、ちゃんと喋れないふりをすると、すぐバレます」


 水野さんが腕を組む。


「玲奈ちゃんは、ちゃんと喋れることをもっと武器にすればいい」


「してます」


「ならいい」


「でも、昨日は少しだけ損だと思いました」


「何が」


「ちゃんと喋れることが」


 それは、たぶん白瀬玲奈が初めて見せた、整っていない言葉だった。


 宣伝部のスタッフがメモを取る手を止めている。


 マネージャーも黙っている。


 水野さんだけが、目を逸らさなかった。


「損だと思ったなら、次はそこを使えばいい」


「使う?」


「ちゃんと喋れることを、嫌になるくらい正しく使えばいい」


 白瀬玲奈は、少しだけ笑った。


「水野さん、雑ですね」


「人間相手だからな」


 その言葉は、昨日俺に向けられたものと同じだった。


 白瀬玲奈は、今度は俺を見なかった。


「分かりました」


 彼女は資料を閉じる。


「コメント、直します」


     ◇


 白瀬玲奈が帰ったあと、制作部の空気はしばらく戻らなかった。


 誰かが椅子を引く。


 誰かが咳払いをする。


 宣伝部のスタッフが資料をまとめる。


 マネージャーが忘れた紙コップを捨てる。


 そういう普通の音が、少し遅れて戻ってくる。


 水野さんは会議スペースに残ったまま、俺を見た。


「何」


 俺が言う前に、水野さんが言った。


「何も言ってません」


「顔がうるさい」


「便利ですね、顔」


「出るからな」


 水野さんは椅子に座ったまま、白瀬玲奈が置いていったコメント案を見る。


「玲奈ちゃん、動いたな」


「はい」


「どう思った」


「聞いていいんですか」


「聞いてる」


 俺は少し考えた。


 考えたところで、言葉は整わなかった。


「上手い人は、崩れ方も選べるんだと思いました」


 水野さんは少しだけ黙った。


 それから、小さく笑った。


「それ、本人に言うなよ」


「言いません」


「朝比奈さんにも言うなよ」


「言いません」


「自分の中にも置きすぎるなよ」


「それは難しいです」


「だろうな」


 水野さんは資料を閉じた。


「でも、間違ってはない」


 珍しく、そう言った。


 俺は返事に詰まった。


「白瀬玲奈は、崩れ方を選べる」


「はい」


「朝比奈澪は、まだ崩れたあとにしか気づけない」


「はい」


「どっちが上とかじゃない」


「はい」


「どっちも現場では危ない」


 水野さんは、白瀬玲奈の新しい宣材写真を見た。


 その顔は、さっきまで会議室にいた本人とは少し違う。


 整っている。


 それでも、どこかにわずかな傷のような影がある。


「上手い人間も、油断すると自分の上手さに食われる」


「食われる」


「朝比奈さんだけを怪物みたいに見るな」


 刺さった。


 何も言えなかった。


「白瀬玲奈も、ちゃんと怪物だよ」


 水野さんは、淡々と言った。


「ただ、檻の中で歩くのが上手いだけだ」


     ◇


 夕方、澪からメッセージが来た。


『練習しました』


 俺はスマホを見た。


『録音しましたか』


『しました』


『聞きましたか』


『聞きました』


『どうでしたか』


 少し間。


『昨日より嫌でした』


 俺は眉を寄せる。


『どうして』


『昨日より、直そうとしている声だったので』


 その一文で、胸の奥が少し冷えた。


『直そうとしている声は、嫌なんですか』


『嫌というより』


 入力中。


 消える。


 また出る。


 また消える。


『誰かに見られている声でした』


 俺は画面を見つめた。


 一人で練習しているのに。


 一人で録音しているのに。


 声が、もう誰かに見られている。


『先生ですか』


『先生もです』


『他には』


 既読。


 長い沈黙。


『佐伯さんも』


 呼吸が止まる。


 送っていない。


 聞いていない。


 見ていない。


 でも、いる。


 俺が。


 彼女の声の中に。


『俺は聞いてません』


 送る。


『はい』


『送られてもいません』


『はい』


『なら』


 打って、止める。


 何を言うつもりだった。


 なら、俺はいない。


 そんな嘘を。


 消す。


 澪から先に来た。


『送らない方が残るって、昨日言いました』


『はい』


『でも、送らなくても残ってました』


 俺は画面から目を離せなかった。


 残る。


 何が。


 声か。


 俺か。


 彼女自身の癖か。


 たぶん、全部ではない。


 たぶん、どれでもない。


『嫌ですか』


 俺は聞いた。


『少し』


『やめますか』


『やめません』


 即答だった。


『明日もやります』


『はい』


『でも、今日はもう聞きません』


『その方がいいです』


『逃げました?』


『少し』


『私も少し逃げます』


『はい』


 やり取りはそこで止まるかと思った。


 けれど、数分後にもう一通来た。


『白瀬さんのコメント、見ました』


 俺は手を止める。


『どこで』


『公式の更新です』


 早い。


 白瀬玲奈のコメントは、もう表に出ていた。


『どう思いましたか』


 送るか迷った。


 でも、送った。


 既読。


『きれいでした』


『はい』


『でも、少し怖かったです』


『どうして』


『自分で、自分の見え方を直している感じがしました』


 鋭い。


 また、鋭い。


『あの人は、自分の外側に手が届くんですね』


 俺は、しばらく返信できなかった。


 白瀬玲奈は、自分の見え方を直せる。


 朝比奈澪は、自分の声を直そうとして泣く。


 同じ「直す」なのに、まるで違う。


『届く人もいます』


 俺は打った。


『私は?』


 すぐに来た。


 俺は画面を見る。


 答えるな。


 決めるな。


 でも、逃げるな。


『まだ、指が届いてないと思います』


 送った。


 既読。


 長い沈黙。


『じゃあ、伸ばします』


 短い返事。


 それだけ。


 俺はスマホを伏せた。


 机の上で、指が少し震えていた。


     ◇


 夜、白瀬玲奈の更新された本人コメントが共有された。


 水野さんが俺の席に紙を置く。


「読んで」


「またですか」


「記録係」


 白い紙。


 短い文章。


 昨夜の放送では、言えなかったことが、少しだけ画面の中に残った気がしています。


 見てくださった方の中に、あの夜の温度が少しでも残っていたら嬉しいです。


 白瀬玲奈


 短い。


 整っている。


 でも、前より少しだけ削れている。


 「言葉にしない感情」ではなく、「言えなかったこと」。


 「短い出演でしたが」は消えている。


 白瀬玲奈は、自分で自分の見え方を直した。


 しかも、それを美しくやった。


「どう」


 水野さんが聞く。


「上手いです」


「だな」


「怖いです」


「だな」


「白瀬さんは、これを自分でやれるんですね」


「やれる。だから怖い」


 水野さんは紙を回収した。


「でも、玲奈ちゃんは玲奈ちゃんで、ちゃんと焦ってる」


「焦ってますか」


「焦ってなきゃ、あんなに早く直さない」


 水野さんは、紙をファイルに挟む。


「上手い人間は、焦り方も上手い」


「嫌な言葉ですね」


「だろ」


 水野さんは少しだけ笑った。


「朝比奈さんは?」


「練習したそうです」


「聞いた?」


「聞いてません」


「送られた?」


「送られてません」


「よし」


「でも」


 言いかけて、止める。


 水野さんが見る。


「でも?」


「送られてないのに、いると言われました」


 水野さんは、しばらく黙った。


 それから、ものすごく嫌そうな顔をした。


「最悪だな」


「はい」


「君が?」


「たぶん」


「あの子もだよ」


 その言い方は、冷たかった。


 でも、少しだけ慎重だった。


「佐伯くん」


「はい」


「次から、距離の取り方が変わる」


「どういう意味ですか」


「今までは、君が近づきすぎるな、で済んでた」


「はい」


「これからは、朝比奈さんの方からも来る」


 俺は黙った。


「しかも、たぶん無自覚に」


「はい」


「君が止まっていれば安全、ではなくなる」


 制作部の蛍光灯が、白く鳴っている。


 誰かがコピー機の紙詰まりを直している。


 別の班が、別の役者のスケジュールで揉めている。


 そんな中で、水野さんの声だけが低い。


「嬉しそうにするなよ」


「してません」


「してる」


「してません」


「してる。最悪の顔で」


 俺は何も言えなかった。


     ◇


 帰る前に、共有フォルダを整理した。


 白瀬玲奈の更新コメント。


 朝比奈澪の音声資料。


 放送後反応メモ。


 ボイトレ所見。


 同じ番組フォルダの中に、二人の名前が並んでいる。


 白瀬玲奈。


 朝比奈澪。


 片方は、自分の外側に手を伸ばし始めている。


 片方は、自分の内側に声を落とし始めている。


 どちらも、もう昨日とは違う。


 俺はフォルダを閉じた。


 スマホを見る。


 新着はない。


 それでいい。


 来ない方がいい。


 でも、画面を伏せる指が少し遅れる。


 今日は検索しなかった。


 再生もしなかった。


 澪の練習音声は聞いていない。


 白瀬玲奈のコメントは読んだ。


 読まされた。


 仕事として。


 それだけ。


 それだけのはずだった。


 引き出しを開ける。


 破れかけた紙片。


 元気でね。


 まだある。


 俺は今日も触らなかった。


 触らないまま、引き出しを閉じる。


     ◇


 帰り道、駅前の大型ビジョンに『青い夜の終わり』の配信告知が流れていた。


 音はほとんど聞こえない。


 人の足音と、電車のアナウンスと、車の音に混ざっている。


 桐谷廉。


 白瀬玲奈。


 夜の街。


 そして、一瞬だけ、朝比奈澪。


 白瀬玲奈の顔は、遠くからでも綺麗だった。


 朝比奈澪の横顔は、すぐに消えた。


 でも、消えたあとに少しだけ残った。


 何が残ったのかは、わからない。


 俺は立ち止まらなかった。


 人の流れに押されるように、駅へ向かう。


 スマホが震えた。


 澪だった。


『今日は、聞かなくていいです』


 俺は歩きながら画面を見た。


『何をですか』


『私の声です』


 少し間。


『いつか、聞いてください』


 足が止まりかけた。


 人の流れが、俺の横をすり抜ける。


 俺は短く返した。


『はい』


 すぐに既読。


『でも、まだです』


『はい』


『まだ、私のものにしたいです』


 俺は画面を見つめた。


 返信欄に指を置く。


 何も打てない。


 打たなくていい。


 画面が暗くなる。


 暗転したガラスに、駅の光と自分の顔が重なる。


 その奥に、ほんの一瞬、白瀬玲奈の整った笑顔と、朝比奈澪の消えかけた横顔が重なった気がした。


 電車の到着音が鳴る。


 俺は駅へ向かう。


 人波に押されながら、ポケットの中のスマホを握りしめた。


 電車の窓に映る自分の顔が、揺れに合わせて歪む。


 親指が、スマホの角をなぞっている。


 検索窓でもない。


 再生ボタンでもない。


 誰かの声が戻ってくる場所を、まだ探していた。

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