直す声と、残す声
翌朝、制作部の机に置かれた共有フォルダの通知は、まだ未読のままだった。
【朝比奈澪|音声資料一式】
俺が昨夜作ったファイル。
オンエア音声、長尺。
オンエア音声、短尺。
コメント動画、仮02音声。
何も混ぜるな。
水野さんの短いメッセージが、まだ指先に残っている。
混ぜていない。
たぶん。
波形を切っていない。
間を足していない。
俺が好きな沈黙を、強調していない。
ただ、必要な範囲を書き出した。
それだけ。
それだけのはずなのに、朝からずっと、胃の奥が重かった。
ホワイトボードには、新しい予定が書かれている。
朝比奈澪 ボイトレ初回。
事務所側対応。
制作確認不要。
最後の一行だけ、やけに冷たく見えた。
制作確認不要。
つまり、俺たちが見る場所ではない。
俺が見る場所ではない。
なのに、俺の作った音声だけが、そこに行く。
人間は来るな。
声だけ寄越せ。
正しい。
かなり正しい。
俺は机に座り、別件の資料を開いた。
別のドラマのロケ候補。
駐車場の申請書。
小道具の購入リスト。
朝比奈澪とは関係のない仕事。
関係のない仕事は、ありがたい。
関係がないから、手を動かせる。
数分後。
スマホが震えた。
机の上で、画面が光る。
澪ではなかった。
水野さんからだった。
『資料、先方に渡した』
それだけ。
俺は返信欄を開いた。
『わかりました』
送る。
すぐに既読。
続きは来ない。
それでいい。
来ない方がいい。
そう思った直後に、もう一通届いた。
『見に行くなよ』
俺は画面を見つめた。
行ける距離ではない。
そもそも場所も知らない。
呼ばれてもいない。
なのに、釘を刺されている。
『行きません』
送る。
『検索もするな』
水野さんは何でも知っているのか。
『何をですか』
送ってから、少し後悔した。
すぐに返ってくる。
『ボイトレ 朝比奈澪 とか』
俺はスマホを伏せた。
打っていない。
まだ。
でも、候補としては頭の中にあった。
朝比奈澪。
ボイトレ。
発声。
棒読み。
改善。
検索窓は、こちらが打つ前から、もう待っている。
俺はスマホを戻し、短く打った。
『しません』
既読。
『たぶん、が抜けてる』
『しません。たぶん』
『よし』
よし、ではない。
◇
昼前、矢崎さんから制作部宛に電話が入った。
俺が取る前に、水野さんが取った。
「はい、水野です」
少し離れた席。
聞くつもりはなかった。
でも、制作部は狭い。
電話の声までは聞こえない。
水野さんの返事だけが、こちらに落ちてくる。
「はい」
「ええ」
「初回なら、まあ」
「本人は?」
俺は手を止めた。
水野さんがこちらを見た。
見たな、という目。
俺は資料に視線を戻す。
「……そうですか」
「泣いた?」
指が止まる。
キーボードの上で、爪の先が白くなる。
「いえ、責めてないです」
「初回でそこまでやる先生なんですね」
少し間。
「わかりました。共有ありがとうございます」
水野さんは電話を切った。
俺は聞かない。
聞かない。
聞くな。
「佐伯くん」
呼ばれた。
「はい」
「聞いてた?」
「聞こえました」
「便利な耳だな」
「閉じられないんです」
「閉じろ」
「無理です」
水野さんは、受話器を置いた手を少しだけ見た。
「朝比奈さん、泣いたらしい」
胸の奥が沈む。
「そうですか」
「発声練習で」
「はい」
「先生に怒鳴られたわけじゃない。むしろ丁寧だったらしい」
「はい」
「丁寧に、自分の声を分解されるのがきつかったんだろうな」
分解。
その言葉だけで、画面に波形が浮かんだ。
高いところ。
低いところ。
揺れているところ。
沈黙。
元気でね。
「大丈夫なんですか」
「知らん」
「水野さん」
「大丈夫かどうかを、俺たちが先に決めるな」
冷たい。
でも、正しい。
その正しさが、腹の底に重く落ちる。
「続けるそうだ」
「本人が?」
「本人が」
水野さんは、少しだけ目を細めた。
「泣いたあとに、もう一回お願いしますって言ったらしい」
俺は何も言えなかった。
澪らしい。
いや、そう言ってしまえば、また名前になる。
でも、たぶん、澪らしい。
「佐伯くん」
「はい」
「今、嬉しそうにするな」
「してません」
「してる」
「してません」
「してる。気持ち悪い顔で」
「言い方」
「君、あの子が傷ついても、続けると言った瞬間に、少し喜ぶだろ」
否定できなかった。
それが一番、嫌だった。
「だから来るなって言った」
「はい」
「君が見てたら、たぶんもっと嫌な顔をしてた」
「俺がですか」
「うん」
水野さんは、机の上の書類を持ち上げた。
「午後、先方から短い共有が来る。先生の所見。俺が見る」
「俺は」
「見ない」
「資料を作ったのは俺です」
「だから見ない」
即答だった。
「意味がわかりません」
「混ざるから」
「またですか」
「何度でも言う」
水野さんは書類を抱えて歩き出す。
「今日は、朝比奈さんに連絡するな」
「向こうから来たら」
「その時は、その時に考えろ」
「雑ですね」
「人間相手だからな」
水野さんは編集室の方へ消えた。
俺は画面を見る。
開いたままの申請書。
駐車場。
使用時間。
申請者名。
朝比奈澪とは関係ない文字。
関係ない文字の方が、今日は読みにくかった。
◇
昼休みになっても、澪から連絡は来なかった。
スマホは静かなままだった。
それでいい。
来ない方がいい。
ボイトレ中かもしれない。
事務所で矢崎さんと話しているのかもしれない。
泣いているのかもしれない。
もう泣き止んでいるのかもしれない。
もう一回お願いします、と言ったあとで、後悔しているのかもしれない。
想像はいくらでもできる。
そのほとんどが、役に立たない。
俺は昼食を買いに外へ出た。
制作会社の近くのコンビニ。
いつもの棚。
いつものおにぎり。
いつもの冷たいペットボトル。
レジ横の小さなモニターに、深夜ドラマの番宣が流れていた。
青い夜の終わり。
次回ではない。
昨夜の配信開始告知だった。
桐谷廉。
白瀬玲奈。
ほんの一瞬、朝比奈澪の横顔。
音声は店内BGMに潰れてほとんど聞こえない。
でも、顔だけは映った。
一秒にも満たない。
すぐに別の広告へ切り替わる。
弁当の新商品。
コーヒーのキャンペーン。
澪の横顔は、レジ袋の音の中に消えた。
俺は会計を済ませる。
店員は何も知らない顔で、レシートを渡した。
知らない人間のどうでもいい昼の中にも、もう彼女はいる。
俺は外に出る。
スマホは震えていない。
それだけで、少しだけ息が詰まった。
◇
午後二時過ぎ。
制作部に戻ると、水野さんが会議スペースで資料を読んでいた。
白い紙。
数枚。
たぶん、ボイトレの所見。
俺は見ない。
見ないつもりだった。
見ないように、自分の席に座る。
メールを開く。
別件の返信を書く。
添付ファイルを確認する。
それでも、会議スペースの紙が視界の端に入る。
水野さんがページをめくる。
紙の音。
白い紙。
黒い文字。
誰かが澪の声を分析した文字。
見たい。
見たくない。
見たい。
見たくない。
「佐伯くん」
水野さんが呼んだ。
「はい」
「こっち来て」
少し、嫌な予感がした。
俺は立ち上がる。
会議スペースへ行く。
水野さんは資料を一枚だけ机に置いた。
全文ではない。
赤いマーカーで一部が隠されている。
「見ていいんですか」
「ここだけ」
水野さんは指で一行を示した。
講師所見。
声質は硬いが、呼吸の入り方に独特の間がある。
発声の基礎修正は必要。
ただし、現時点で完全に均すと、本人の持つ引っかかりが消える可能性あり。
俺は、その一文を読んだ。
一度。
二度。
三度。
「均す」
「いい言葉だろ」
「怖いですね」
「怖い」
水野さんは紙を裏返した。
「先方の先生、まともそうだ」
「どうして俺に見せたんですか」
「君が勝手に最悪の想像を始める前に、最低限の現実だけ見せた」
「優しいですね」
「管理だ」
「それも便利な言葉です」
「便利に使ってる」
水野さんは紙をファイルに戻した。
「朝比奈さんは?」
「続ける。週一で」
「そんなに早く決まるんですか」
「放送後だからな」
また、それ。
放送後。
全部が早くなる言葉。
「あと、事務所は次のオーディションを探し始める」
「もう?」
「もう」
「昨日放送されたばかりですよ」
「だからだよ」
水野さんは椅子にもたれた。
「熱があるうちに動く。冷めたら終わり」
「人間の話ですよね」
「仕事の話だ」
同じことだった。
この場所では、よくあることらしい。
「君、嫌そうな顔をするわりに、見たいだろ」
「……はい」
今回は、嘘をつけなかった。
水野さんは少しだけ眉を上げた。
「正直で気持ち悪いな」
「気持ち悪いって言えばいいと思ってませんか」
「割と思ってる」
水野さんは、ファイルを閉じた。
「次のオーディション、うちの案件じゃない可能性が高い」
「はい」
「だから、君は関われない」
「はい」
「その方がいい」
「はい」
「本当にわかってるか?」
「わかってません」
「だろうな」
水野さんは椅子から立ち上がる。
「でも、わかってなくても、仕事はできる」
「はい」
「今日の仕事。こっちのロケ資料、十七時まで」
「はい」
「あと、朝比奈さんには連絡するな」
「まだ来てません」
「来たら?」
「その時に考えます」
「よし」
水野さんは一瞬だけ笑った。
「学習したな」
「低いですけど」
「低いな」
◇
澪からメッセージが来たのは、十六時半だった。
ロケ資料の地図を貼りつけている最中だった。
スマホが震える。
画面に名前。
朝比奈澪。
俺はすぐには開かなかった。
開く前から、少し嫌だった。
でも、開いた。
『終わりました』
短い。
俺は返信欄に指を置く。
『お疲れ様です』
送信。
既読。
少し間。
『泣きました』
水野さんから聞いていた。
でも、澪本人から来ると、違う。
『はい』
送る。
すぐに返事。
『知ってましたか』
痛い。
『少しだけ』
『水野さんですか』
『はい』
『そうですか』
それだけ。
責めているのか、確認しているだけなのか、わからない。
『嫌でしたか』
送る。
既読。
長い沈黙。
『少し』
正直な返事だった。
『すみません』
『佐伯さんが謝ることじゃないです』
『はい』
『でも、少し嫌でした』
『はい』
それでいい。
たぶん。
低い。
『先生、怖かったですか』
俺は聞いた。
既読。
『怖くなかったです』
少し間。
『怖くないのが怖かったです』
澪らしい言い方だった。
『どういう意味ですか』
『丁寧でした』
『はい』
『私の声を、ちゃんと分けてくれました』
『はい』
『息が浅いとか、舌が硬いとか、喉が閉じるとか』
『はい』
『全部、本当でした』
画面の文字が、少し重くなる。
『本当のことを、優しく言われるのが、一番きつかったです』
俺は何も打てなかった。
水野さんの言葉と重なる。
優しさの顔で刺してくる。
褒め言葉だけではない。
正しい指導も、優しい顔で刺してくる。
『もう一回お願いしますって言ったそうですね』
送ってから、少し後悔した。
知っていることを、こちらから出してしまった。
既読。
しばらく返事はない。
やがて、来た。
『言いました』
『どうしてですか』
聞いてしまった。
また。
答えを欲しがっている。
澪は少し遅れて返した。
『一回で終わったら、泣いただけになるので』
俺はスマホを見つめた。
『それが嫌でした』
続けて来る。
短い。
それだけ。
それだけで十分だった。
『そうですか』
送る。
『はい』
少し間。
『でも、二回目も泣きました』
俺は息を止めた。
『そうですか』
『はい』
『三回目は?』
送ってから、馬鹿だと思った。
澪からすぐに返ってくる。
『三回目は、泣きそうでした』
少し間。
『でも、声は出ました』
俺は画面を見る。
画面の文字を見る。
声は出ました。
それは、たぶん今日の彼女にとって、とても小さくて、とても大きいことだった。
俺は何を書けばいいのかわからなかった。
よかったですね。
すごいですね。
残りましたね。
全部、違う。
『明日も行くんですか』
送る。
『来週です』
『はい』
『でも、毎日練習してくださいって言われました』
『しますか』
既読。
『たぶん』
珍しく、即答ではなかった。
『怖いですか』
『はい』
『行くんですか』
『行きます』
いつもの形に戻る。
でも、少しだけ違う。
今日は、すぐに続きが来た。
『行くというか、家でやります』
『はい』
『一人でやる方が怖いです』
その言葉は、意外だった。
『どうしてですか』
『誰も止めてくれないので』
俺は指を止めた。
発声練習。
部屋。
一人。
鏡。
声。
自分の喉。
誰も止めてくれない。
誰も、良いとも悪いとも言わない。
それは確かに怖い。
『録音しますか』
俺は打った。
送る前に止める。
また、技術に逃げようとしている。
でも、今回は違うかもしれない。
澪から先に来た。
『録音した方がいいって言われました』
『はい』
『自分の声を聞くの、嫌です』
『はい』
『でも、聞かないと直らないって』
『はい』
『佐伯さんは、自分の声、嫌いですか』
急に、来た。
俺の話。
画面を見つめる。
自分の声。
子役時代。
台詞。
泣き声。
笑い声。
大人が褒めた声。
何度も再生された声。
俺は、短く打った。
『嫌いです』
既読。
少し間。
『今も?』
『今も』
『じゃあ、どうして喋れるんですか』
どうして。
そんなもの、考えたことがなかった。
いや、考えないようにしてきた。
『仕事なので』
打つ。
送る前に消す。
それはもう、逃げ方として古い。
でも、別の答えが出ない。
結局、また打った。
『必要だからです』
送る。
既読。
長い沈黙。
『それ、少し悲しいです』
俺は返せなかった。
画面の上に、入力中の表示が出る。
消える。
また出る。
また消える。
『でも、少し分かります』
続けて来た。
『私も、必要なら喋れるようになりたいです』
俺は画面を見つめる。
必要なら。
必要だから。
そこに似ているものがある。
嫌な似方だった。
『必要じゃない時は?』
俺は打った。
既読。
返事は遅かった。
『まだ分かりません』
それだけ。
でも、それでよかった。
『分かりません』が、今日は逃げに見えなかった。
白紙に見えた。
◇
夕方、白瀬玲奈の名前が制作部の会話に上がった。
宣伝部のスタッフが、水野さんに声をかけている。
「玲奈さんの事務所から、来週の取材素材の確認が来ています」
「早いね」
「昨日の反応が良かったので、先方も動きたいみたいです」
「本人は?」
「本人コメント、少しだけ直したいそうです」
水野さんが資料を受け取る。
俺は少し離れた席で、聞かないふりをする。
「直したい?」
「はい。『見どころは大人のすれ違いです』って文言、少し軽いから変えたいと」
「へえ」
水野さんの声に、少しだけ興味が混ざる。
「玲奈ちゃんが自分で?」
「はい」
「早いな」
その一言。
早い。
白瀬玲奈も動いている。
澪がボイトレで泣いている間に。
世間の反応を受けて。
自分の見せ方を、もう直そうとしている。
完成された人間は、完成されたまま止まっているわけではない。
完成された速度で、次に進む。
俺はキーボードに置いた指を見る。
今日は、爪の色は戻っていた。
でも、指先は冷たかった。
◇
夜、音声資料の追加依頼が来た。
水野さんからではない。
矢崎さんから、制作部宛。
【朝比奈澪|練習用音声について】
水野さんが俺を呼んだ。
「佐伯くん」
「はい」
「読んで」
「いいんですか」
「これは君が作業する」
メールを開く。
矢崎さんの文面は簡潔だった。
お世話になっております。
本日、発声指導の先生より、本人練習用として下記音声があると助かるとのご相談がありました。
一、オンエア音声の該当箇所。
二、コメント動画音声。
三、可能であれば、本人が読み上げるための短文サンプル。
短文サンプル。
そこで、手が止まった。
「短文サンプル」
「そう」
水野さんが言う。
「先生からの指定は?」
「まだない。事務所側は、制作サイドで使えそうな短い文章があれば、って」
「使えそうな」
「便利な言葉だな」
「危ないですね」
「危ない」
水野さんは、俺を見る。
「君は書くな」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
「顔、嫌ですね」
「出るからな」
「誰が書くんですか」
「発声の先生に任せるよう返す」
俺は少しだけ息を吐いた。
水野さんは見逃さなかった。
「安心した?」
「しました」
「なら、それが正解だ」
「俺が書いた方がいいものになる可能性は」
「ある」
即答だった。
俺は黙る。
「でも、いいものになることと、今やっていいことは別だ」
「はい」
「君が書いた短文を、あの子が毎日読む。想像したか?」
した。
してしまった。
たぶん、顔にも出た。
水野さんは、ひどく冷たい目で言った。
「気持ち悪いだろ」
「……はい」
「だから駄目」
それだけだった。
わかりやすい。
逃げ場がない。
「返信します」
「うん」
水野さんは俺の横に立ったまま、俺がメールを書くのを見ていた。
お世話になっております。
短文サンプルにつきましては、発声指導の先生側でご用意いただく形が適切かと存じます。
弊社からは、オンエア該当箇所およびコメント動画音声のみ共有いたします。
ご確認のほど、よろしくお願いいたします。
送信。
水野さんが頷いた。
「よし」
よし、だった。
たぶん。
◇
仕事が終わったのは、二十二時を過ぎてからだった。
制作部にはまだ数人残っている。
誰かが電話している。
誰かが笑っている。
誰かが、別の役者の名前を呼ぶ。
俺は机の上を片づけた。
スマホを見る。
澪からの新しいメッセージはない。
それでいい。
来ない方がいい。
でも、画面を伏せるまでに少し時間がかかった。
引き出しを開ける。
破れかけた「元気でね」の紙片。
まだそこにある。
捨てていない。
制作部の資料でもない。
保管対象でもない。
ただ、俺の引き出しにある。
それが一番よくない。
俺は紙片を見た。
触らなかった。
触らずに、引き出しを閉じた。
帰り支度をしていると、スマホが震えた。
澪だった。
『録音しました』
俺は立ったまま画面を見る。
『聞きましたか』
送る。
既読。
『一回だけ』
『どうでしたか』
少し間。
『嫌でした』
短い。
次が来る。
『でも、昨日より、少しだけ息が入りました』
俺は返せなかった。
さらに続く。
『先生に送ります』
俺は画面を見つめる。
俺に送るのではない。
先生に送る。
それでいい。
それがいい。
『はい』
送信。
『佐伯さんには送りません』
思わず、息が止まる。
画面の向こうで、彼女がどんな顔をしているのか分からない。
『はい』
それだけ返す。
既読。
少し間。
『でも、送りたいとは思いました』
俺はスマホを握り直した。
送らない。
でも、送りたい。
その一文だけで、十分だった。
『送らなくていいです』
送る。
すぐに返事。
『はい』
少し間。
『送らない方が、たぶん残ります』
俺は画面を見る。
意味は、わかるようで、わからない。
でも、わからないままでいい気がした。
『おやすみなさい』
澪から来た。
俺は短く返す。
『おやすみなさい』
やり取りはそこで終わった。
◇
帰りの電車で、俺は検索窓を開かなかった。
朝比奈澪、とも打たなかった。
白瀬玲奈、とも打たなかった。
ボイトレ、とも打たなかった。
ただ、暗い窓に映る自分の顔を見ていた。
電車の揺れに合わせて、顔が少し歪む。
スマホはポケットの中で静かだった。
今日、澪は泣いた。
もう一回と言った。
録音した。
聞いた。
先生に送る。
俺には送らない。
それだけ。
それだけのことが、ひどく大きかった。
駅に着く。
人が降りる。
人が乗る。
誰も朝比奈澪を知らない顔で、スマホを見ている。
その中の誰かは、もしかしたら昨夜のドラマを見ていたかもしれない。
見ていないかもしれない。
覚えているかもしれない。
忘れているかもしれない。
それでいい。
たぶん。
電車の窓に、俺の指が映る。
親指が、ポケットの中のスマホの角をなぞっていた。
検索窓の形ではなかった。
再生ボタンの形でもなかった。
ただ、何もない場所を、何度もなぞっていた。




