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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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12/16

反応は、優しさの顔で刺してくる

 翌朝、制作部のホワイトボードには、もう赤い数字も黒い文字もなかった。


 本日オンエア。


 その五文字は消されている。


 代わりに、青いマーカーで短く書かれていた。


 放送後対応。


 たったそれだけ。


 夜が終われば、現場は次の仕事に移る。


 誰かの声が初めて世間に晒されたことも。


 誰かが一人でテレビの前に座っていたことも。


 誰かが検索窓を開かないように指を握りしめていたことも。


 朝になれば、全部「対応」になる。


 俺は机に座り、メールを開いた。


 未読が二十三件。


 配信開始確認。


 字幕データの保管。


 次回素材の差し替え。


 放送後記事の文言確認。


 宣伝部からの共有。


 その中に、見たくない件名があった。


【朝比奈澪|放送後反応メモ_速報】


 昨夜、開かなかったやつだ。


 件名の横に、未読の太字。


 太字は嫌いだ。


 見ろ、と言ってくる。


 俺はカーソルを合わせた。


 止める。


 開くな。


 仕事だ。


 開くな。


 仕事だ。


 開くな。


 昨日の夜より、指が軽い。


 その軽さが怖かった。


「佐伯くん」


 背後から水野さんの声がした。


「はい」


「開くな」


「まだ開いてません」


「今、開こうとしてただろ」


「仕事です」


「その言葉、禁止にしようかな」


「不便です」


「君が便利に使いすぎる」


 水野さんは俺の画面を見た。


 件名を読んで、表情を変えない。


「速報版は俺が見る」


「昨日も似たようなこと言われました」


「今日も言う」


「放送後確認担当としても?」


「放送後確認担当としても」


「俺、何なら見ていいんですか」


「録画データ。字幕。音声。尺。納品書」


「人間以外ですね」


「そう」


 即答だった。


 ひどい。


 でも、少しだけありがたかった。


 水野さんは、俺の横に立ったまま言った。


「昨日、検索したか」


「してません」


「放送後も?」


「してません」


「本当に?」


「本当に」


「気持ち悪いな」


「三回目です」


「何度でも言う」


 水野さんは俺の机に置かれたスマホを見た。


 画面は伏せてある。


 朝から、まだ一度も表にしていない。


「じゃあ、今日は一回だけ」


「検索ですか」


「うん」


「増えたんですか、許可」


「昨日ゼロで耐えたからな」


「ご褒美みたいに言わないでください」


「ご褒美じゃない。管理だ」


 水野さんは低く言った。


「見ないまま溜めると、変なところで破裂する」


「経験談ですか」


「仕事上の知見」


「便利ですね」


「便利な言葉は危ないって言ったろ」


 水野さんは椅子の背に手を置いた。


「ただし、見るなら昼休み。十分だけ。本人には何も送るな」


「はい」


「良い反応でも」


「送らない」


「悪い反応でも」


「送らない」


「微妙な反応でも」


「送らない」


「自分に刺さった反応でも」


 少しだけ詰まった。


 水野さんが目を細める。


「そこだぞ」


「……送らない」


「よし」


 よし、ではない。


 俺はまだ、何もよくない。


 でも、ルールがある方が、今はましだった。


「朝比奈さんは?」


 また聞いてしまった。


 水野さんは、予想していたようにため息をつく。


「矢崎さんから連絡あった。朝、本人と電話したらしい」


「大丈夫でしたか」


「大丈夫、とは言ってない」


「何て」


「怖かった。でも見た。って」


 短い言葉だった。


 澪らしい。


「それだけですか」


「あと、今日、事務所に来る」


「今日?」


「放送後の方針確認。プロフィール文言、コメント動画、次の営業資料」


「早いですね」


「早いよ。放送後だからな」


 放送後。


 便利で、残酷な言葉。


 昨日まで「まだ世間に出ていない声」だったものが、今日から「使える材料」になる。


「君は来るな」


 水野さんが言った。


「どこに」


「打ち合わせ」


「呼ばれてません」


「呼ばれてなくても気にするだろ」


「気にはします」


「するな」


「無理です」


「じゃあ、動くな」


 それならできるかもしれない。


 たぶん。


 低い。


「佐伯くん」


「はい」


「今日の朝比奈さんは、たぶん昨日より危ない」


「危ない?」


「良い反応を浴びると、人は崩れることがある」


 悪意ではなく。


 良い反応。


「褒められて?」


「そう」


 水野さんは、俺の未読メールを閉じた。


「否定はわかりやすい。痛いからな。逃げるか、耐えるか、怒るか、選びやすい」


「はい」


「でも、褒め言葉は優しい顔で刺してくる」


 水野さんは、少しだけ間を置いた。


「それに合わせたくなる」


 その一言は、やけに静かだった。


「朝比奈さん、合わせますかね」


「合わせようとするだろ」


「……はい」


「昨日の二言が残ったなら、次はそこを求められる」


「そこ、ですか」


「本人がまだ掴んでない場所だ」


 俺は黙った。


「それはもう、本人の傷じゃなくて注文になる」


 注文。


 残酷なほど実務的な言葉だった。


「君は、そこで余計なことを言うな」


「はい」


「言いたくなるからな」


「はい」


「たぶん、かなり」


「はい」


 水野さんは、ようやく俺の机から離れた。


「昼まで録画データの確認。検索は昼休み。十分だけ」


「はい」


「タイマーかけろ」


「本気ですか」


「本気」


 水野さんは自分の席に戻っていった。


 俺はメール画面を閉じる。


 未読の太字が消えたわけではない。


 ただ、見えなくしただけだ。


     ◇


 午前中、俺は録画データを確認した。


 映像ノイズなし。


 音声トラブルなし。


 字幕ズレなし。


 配信版の差し替え素材、問題なし。


 画面の中で、澪は何度も「元気でね」と言った。


 確認のため。


 仕事として。


 一回。


 二回。


 三回。


 回数を数えないようにしても、身体が覚える。


 駅前の光。


 白い息。


 横顔。


 少し遅れる声。


 元気でね。


 何度聞いても、うまくはならなかった。


 何度聞いても、滑らかにはならなかった。


 何度聞いても、流れなかった。


 それが厄介だった。


 仕事なら、慣れたい。


 慣れれば楽になる。


 でも、慣れなかった。


 梶原さんが編集室から顔を出した。


「佐伯くん、まだそこ見てるの」


「確認です」


「何回確認してんの」


「必要な分です」


「便利な言葉だね」


 今日はみんな、それを言う。


 梶原さんは紙コップのコーヒーを片手に、俺のモニターを覗いた。


 ちょうど、澪が「元気でね」と言い終えたところだった。


「やっぱり、残ったね」


「はい」


「でも、あれ危ないよ」


「何がですか」


「次から狙われる」


 梶原さんは軽い声で言った。


 軽いのに、冷たい。


「昨日のあれが良かったってなるとさ、次もああいう声を出してよ、って言われる。本人が本当に傷ついてるかどうか関係なく」


 注文。


 水野さんの言葉と重なる。


「そうなると、あの子は壊れますか」


 聞いてしまった。


 梶原さんは肩をすくめる。


「知らない。壊れる子もいるし、利用する子もいるし、何もわからないまま消える子もいる」


「消える」


「一番多いよ」


 さらっと言った。


 制作部の蛍光灯が、白く鳴っている。


「だから、残ったって言われた今が、一番危ないんじゃない」


 梶原さんはコーヒーを飲んだ。


「まあ、俺は編集だから、危ない素材ほど助かるけど」


「最低ですね」


「うん」


 否定しなかった。


「君も似たような顔してるよ」


「やめてください」


「やめない」


 梶原さんは笑って、編集室に戻っていった。


 俺はモニターを見る。


 停止画面の澪。


 言い終えた直後の顔。


 昨日より、少しだけ遠く見えた。


     ◇


 昼休み。


 俺はスマホのタイマーを十分に設定した。


 馬鹿みたいだ。


 でも、設定した。


 検索窓を開く。


 朝比奈澪。


 変換候補に、もう名前が出る。


 昨日より早い。


 それだけで、喉の奥が少し乾いた。


 検索する。


 一回目。


 結果が並ぶ。


 事務所プロフィール。


 ドラマ公式。


 コメント動画。


 感想。


 感想。


 感想。


 俺は息を止めて、画面を見た。


『昨日の元同級生役の子、誰?』


『朝比奈澪って新人らしい』


『棒読みっぽいけどなんか残った』


『白瀬玲奈目当てで見たけど、駅の子ちょっと気になった』


『あの「元気でね」変じゃなかった?』


『変だけど妙にリアルだった』


『雰囲気売りかと思ったら声が変』


『下手なのか演技なのかわからん』


『新人の子、透明感ある』


『透明感っていうより暗い』


『元気でねの言い方こわ』


『あそこだけ空気変わった気がする』


 俺は指を止めた。


 見てはいけないものを見ている感覚はなかった。


 むしろ、見たいものが多すぎた。


 それが一番危なかった。


 良い反応。


 悪い反応。


 どちらでもない反応。


 全部、澪に刺さりそうだった。


 全部、澪を変えそうだった。


 全部、俺が拾いたくなるものだった。


 タイマーは残り七分。


 まだ七分もある。


 俺は画面を閉じようとして、もう一つだけ見た。


『白瀬玲奈の表情も良かった。あの新人の子がいたから余計に効いてた』


 白瀬玲奈。


 澪。


 同じ文の中に並んでいる。


 世間が、勝手に並べ始めた。


 俺はスクロールを止めた。


 スマホを伏せる。


 タイマーはまだ鳴っていない。


 残り五分。


 見ようと思えば見られる。


 見なかった。


 見なかったまま、タイマーを止めた。


 十分も使えなかった。


 使えば、たぶん戻れなくなる。


 机の向こうで、水野さんがこちらを見ていた。


 何も言わない。


 俺も何も言わなかった。


     ◇


 澪からメッセージが来たのは、昼休みが終わる少し前だった。


『事務所にいます』


 俺はスマホを見た。


『打ち合わせですか』


『はい』


『一人ですか』


『矢崎さんがいます』


『そうですか』


 少し間。


『反応、見ましたか』


 来た。


 当然、来る。


 俺は画面を伏せかけて、戻した。


『少しだけ』


 送信。


 既読。


『どうでしたか』


 どうでしたか。


 簡単な質問。


 一番難しい質問。


 俺は答えを探した。


 良かったです。


 刺さってました。


 変と言われてました。


 怖いとも言われてました。


 全部、駄目だ。


『今は聞かない方がいいです』


 送った。


 既読。


 長い沈黙。


『悪かったんですね』


『悪いだけではありません』


 送ってから、すぐに失敗だと分かった。


 既読がつく。


『それ、悪い時の言い方です』


 返せなかった。


 画面の上に、入力中の表示が出ては消える。


 出ては消える。


 やがて、次が来た。


『じゃあ、あとで自分で見ます』


 指が止まる。


 見るのか。


 今。


 今日。


 あの生の反応を。


『矢崎さんと見てください』


 送った。


 既読。


『一人で見たら駄目ですか』


『駄目ではないです』


『でも、止めたいんですよね』


 俺は画面を見た。


『はい』


 既読。


 少し間。


『じゃあ、矢崎さんと見ます』


 その返事に、少しだけ息が抜けた。


 安心した。


 安心している自分が嫌だった。


『佐伯さん』


『はい』


『何も知らないのも怖いです』


 彼女の言葉は、いつも途中で割れる。


 逃げたい。


 見たい。


 知りたい。


 知らないでいたい。


 その割れ目に、俺は何度も手を入れそうになる。


『矢崎さんに、仕事で必要な分だけ見せてもらってください』


 送った。


 既読。


 返事は遅かった。


『仕事で必要な分』


『はい』


『それ、怖い言葉です』


 その通りだった。


 俺は目を閉じた。


『でも、今はそれが一番ましだと思います』


 送る。


『佐伯さんのましは、信用できますか』


『四割くらい』


『昨日より高いです』


『頑張りました』


 少しだけ、間が空く。


『じゃあ、四割だけ信用します』


 その返事を見て、ようやく息ができた。


『打ち合わせ、行きます』


『はい』


『怖いです』


『はい』


『でも、行きます』


『はい』


 そこでメッセージは止まった。


 俺はスマホを伏せる。


 タイマーは、もう鳴らない。


 鳴る前に止めたからだ。


     ◇


 午後、宣伝部の共有フォルダに新しい資料が増えた。


【朝比奈澪|放送後反応メモ_抜粋】


 速報ではない。


 抜粋。


 誰かが選んだ世間。


 水野さんが開いていた。


 俺は見なかった。


 見なかったが、会議スペースから声が漏れてきた。


「好意的な反応は、やっぱり『残る』『空気変わった』系ですね」


「否定は?」


「棒読み、暗い、怖い、雰囲気だけ、あたりです」


「プロフィール文言と接続するなら?」


「『言葉になる前』は少し抽象的なので、放送後なら『声が残る新人』の方が伝わりやすいかと」


 声が残る新人。


 新しい箱。


 もう来た。


 昨日まで、言葉になる前の感情を画面に残す新人。


 今日から、声が残る新人。


 早い。


 軽い。


 仕事として正しい。


「それはまだ早い」


 水野さんの声がした。


 俺は手を止めた。


「でも、反応としてはそこが一番拾いやすいです」


「拾いやすいものに寄せると、本人より先に箱が決まる」


「放送後の初動は逃したくないんです」


「逃さなくていい。ただ、決めすぎるな」


「では、仮で」


「仮なら何でも置いていいわけじゃない」


 水野さんの声は静かだった。


 でも、少し低い。


「朝比奈さん本人の確認は?」


「事務所経由でこれから」


「本人に見せる前に、こっちで強すぎる文言は落とす」


「強すぎますかね」


「強い。『声が残る』って言われたら、次から本人は声を残そうとする」


 会議スペースが少し静かになる。


「それは芝居じゃなくて、注文になる」


 同じ言葉。


 朝に言っていた言葉。


 でも今度は、俺ではなく宣伝部に向いていた。


 水野さんは、壁になっていた。


 ずるい大人として。


 俺はキーボードに置いた指を見る。


 爪の先が、キーの上で白くなっていた。


     ◇


 夕方、澪からメッセージが来た。


『少し見ました』


 俺はすぐに返せなかった。


 心臓が、少しだけ嫌な動きをする。


『一人で?』


『矢崎さんと』


 少し安心する。


 安心している自分が嫌だった。


『どうでしたか』


 送る。


 既読。


 長い沈黙。


『優しかったです』


 意外な返事だった。


 続けて届く。


『優しい言葉が、一番怖かったです』


 俺は画面を見つめる。


『どうしてですか』


『その通りにならないといけない気がしました』


 水野さんの言葉。


 注文。


 褒め言葉は優しい顔で刺してくる。


『残るって言われたら、次も残らないといけない気がしました』


『はい』


『声が好きって言われたら、その声を出さないといけない気がしました』


『はい』


『でも、私、自分の声をまだよく分かってません』


 正しい。


 あまりにも正しい。


『分かったふりは、しなくていいと思います』


 送る。


 既読。


『それも、少し逃げてますね』


 読まれている。


『はい』


『でも、今日はそれでいいです』


 澪は続けた。


『悪い言葉もありました』


『はい』


『暗いとか、変とか、棒読みとか』


 俺は画面を見つめた。


 それを本人が読む。


 文字として。


 自分の名前の近くで。


『痛かったですか』


 送る。


『はい』


 即答だった。


 しばらく、次が来なかった。


 画面の上に、入力中の表示も出ない。


 ただ、沈黙だけがあった。


 やがて、短い文が届いた。


『でも、たくさんありました』


 俺は画面を見る。


『何がですか』


 返事は来なかった。


 既読だけが残っていた。


 俺はスマホを伏せた。


 伏せたまま、しばらく手を離せなかった。


 数分後、また震えた。


『矢崎さんに言われました』


 俺は画面を戻す。


『何と』


『今すぐ武器にしたら危ないって』


『はい』


『でも、なかったことにもできないって』


 なかったことにもできない。


 朝比奈澪の変な声は、もう外に出た。


 戻らない。


 なかったことにはできない。


『いいマネージャーですね』


 俺は送った。


『怖いです』


『でしょうね』


『でも、たぶん、いい人です』


『たぶん』


『佐伯さんも、たぶん』


 嫌な並べ方をする。


『俺は違います』


『そういうところが、少し似ています』


『やめてください』


『はい』


 やり取りが少しだけ軽くなる。


 でも、その下にあるものは重い。


『明日、事務所でボイトレの先生に会うことになりました』


『早いですね』


『はい』


『怖いですか』


『はい』


『行くんですか』


『行きます』


 いつもの返事。


 でも、今日は少し違った。


『変なところを直されるかもしれません』


 俺は画面を見る。


『直したいですか』


 既読。


 少し間。


『直せるところは、直したいです』


 続けて。


『でも、全部直ったら、昨日の私はいなくなりますか』


 俺は、短く打った。


『分かりません』


 既読。


 長い沈黙。


 次に届いた文は、思っていたより静かだった。


『分からないものなら、まだ私が決める余地がある気がします』


 俺は、返信できなかった。


 澪は、続けた。


『明日、行きます』


『はい』


『怖いです』


『はい』


『でも、昨日の声を、ただの事故にしたくないです』


 事故。


 その言葉は、ひどく正確だった。


 偶然。


 傷。


 声。


 オンエア。


 反応。


 それらが全部、事故のように起こった。


 でも、彼女はそれを事故だけで終わらせたくないと言った。


『分かりました』


 俺は送った。


『何がですか』


『分かりません』


 既読。


 少し間。


『今日は逃げましたね』


『はい』


『でも、少しましでした』


『四割ですか』


『四割です』


 そこでやり取りは終わった。


     ◇


 夜、俺は放送後反応メモを開かなかった。


 水野さんからも送られてこなかった。


 代わりに、録画データのチェック表を埋めた。


 音声問題なし。


 字幕問題なし。


 配信問題なし。


 確認済み。


 仕事は、問題なしで進む。


 人間だけが、問題なしでは済まない。


 机の引き出しを開ける。


 破れかけた「元気でね」の紙片。


 コメント動画の仮02通知。


 昨日の録画データ。


 今日の反応メモ。


 全部が、別々の紙のようにそこにある。


 俺は紙片に触れなかった。


 触れたら、何かを勝手に確認してしまいそうだった。


 スマホが震えた。


 澪ではない。


 水野さんからだった。


『明日、朝比奈さんのボイトレ見学。お前は来なくていい』


 まただ。


 来なくていい。


 つまり、来るな。


 俺は画面を見た。


 返信欄を開く。


『わかりました』


 打つ。


 送る前に、もう一通届いた。


『ただし、音声資料の準備だけしろ。昨日のオンエア部分、長尺版と短尺版。あとコメント動画の仮02』


 俺はしばらく画面を見ていた。


 来るな。


 でも、資料は作れ。


 現場には入るな。


 でも、手は貸せ。


 正しい。


 かなり、正しい。


 俺は返信した。


『わかりました』


 すぐに既読。


 水野さんから、もう一通。


『混ぜるなよ』


 短い。


 意味は分かった。


 俺の解釈を入れるな。


 俺の好きな間を選ぶな。


 俺が残したい傷を強調するな。


 資料として出せ。


 俺はキーボードに手を置く。


 フォルダを開く。


 オンエア素材。


 長尺版。


 短尺版。


 コメント動画。


 音声だけを書き出す。


 波形が画面に表示される。


 澪の声が、線になる。


 高いところ。


 低いところ。


 揺れているところ。


 沈黙。


 元気でね。


 音声編集ソフトの上では、全部が波形だった。


 俺は何も触らなかった。


 範囲だけを指定する。


 書き出し。


 ファイル名をつける。


 朝比奈澪_オンエア音声_長尺。


 朝比奈澪_オンエア音声_短尺。


 朝比奈澪_コメント動画_仮02音声。


 保存。


 共有フォルダに入れる。


 それだけの作業だった。


 それだけの作業のはずだった。


 再生ボタンの上に、指が止まる。


 聞かない。


 もう今日は聞かない。


 そう決める。


 蛍光灯が白く鳴っている。


 制作部には、まだ数人が残っている。


 誰かが笑う。


 誰かが電話する。


 誰かが、別の役者の名前を呼ぶ。


 朝比奈澪の声は、もう特別なものではない。


 仕事の素材になった。


 それでも、俺の指先は、まだ再生ボタンの形を覚えている。


 スマホの画面が暗くなる。


 暗転したガラスに、自分の顔が映る。


 その奥で、検索窓が、まだ開かれるのを待っていた。

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