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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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11/16

オンエアは、誰の傷も待ってくれない

 放送当日。


 ホワイトボードの赤い数字は、もうなかった。


 代わりに、黒いマーカーで短く書かれている。


 本日オンエア。


 その五文字だけ。


 昨日まで一日ずつ削られていた数字が消えると、逆に時間の輪郭がなくなった。


 あと何日。


 あと何時間。


 そう数えていられるうちは、まだ少しだけ安全だったのかもしれない。


 俺は朝から、やけに細かい仕事ばかりしていた。


 字幕データの最終確認。


 告知文の誤字チェック。


 配信用サムネイルの差し替え。


 予備素材のフォルダ整理。


 どれも必要な仕事だった。


 どれも、手を動かしていれば終わる仕事だった。


 だから、ありがたかった。


 手を止めると、検索窓を開きそうになる。


 手を止めると、再生ボタンの形を思い出す。


 手を止めると、あの二言が勝手に頭の中で鳴る。


 久しぶり。


 元気でね。


 まだ、世間には届いていない声。


 でも俺の中では、もう何度も再生されている声。


「佐伯くん」


 背後から水野(みずの)さんに呼ばれた。


「はい」


「今日、何回検索した?」


「まだしてません」


「本当に?」


「本当に」


「気持ち悪いな」


「信用されないよりひどくないですか」


「君が検索してない方が怖い」


 水野さんは、俺の机の上を見た。


 スマホは裏返して置いてある。


 画面は見えない。


 でも、存在は消えない。


「オンエア中は制作部で見る」


「はい」


「配信チェックとSNS監視も入る」


「はい」


「君はSNS監視に入れない」


「わかってます」


「わかってない顔だな」


「顔に出ますね」


「出る」


 水野さんは紙の束を机に置いた。


「君は字幕と尺確認。あと、放送後の録画データ確認」


「はい」


「検索窓には触るな」


「はい」


「コメント欄も開くな」


「はい」


「朝比奈さんに反応を送るな」


「はい」


「本人から聞かれても」


「送らない」


「よし」


 よし、ではない。


 何もよくない。


 でも、水野さんの言うことは正しい。


 俺が選んだ世間は、世間じゃない。


 それはもう編集だ。


 あの言葉は、まだ指先に残っている。


「朝比奈さんは?」


 聞いてしまった。


 水野さんの目が細くなる。


「何が」


「今日、見るんですか」


「本人は自宅で見るらしい」


「一人で?」


「事務所の人間が行く予定だったけど、断った」


「断った?」


「本人が」


「どうして」


「誰かが隣にいると、自分の声より先に、その人の顔を見てしまうから嫌だって」


 俺は顔を上げた。


 水野さんは淡々と続ける。


「一人で見るって」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫かどうかは知らん」


「水野さん」


「本人がそう言った」


「はい」


「じゃあ、そうするしかない」


 冷たい。


 でも、それが水野さんだった。


 本人の足。


 何度も言われた言葉。


 転ぶなら、本人の足で転ぶ。


「矢崎さんは?」


「放送後すぐ電話できるようにはしてる」


「そうですか」


「君は連絡するな」


「まだ何も言ってません」


「今、考えただろ」


「……少し」


「するな」


「はい」


 水野さんはそれだけ言って、編集室の方へ歩いていった。


 俺はスマホを裏返したまま、机の端へ押しやる。


 画面は見えない。


 それでも、そこにある。


     ◇


 昼過ぎ、公式コメント動画が公開された。


 昨日の仮02。


 結局、最後の一文は残っていた。


 ただ、少し短くなっていた。


「こんにちは、朝比奈澪です」


「『青い夜の終わり』次回放送分に、元同級生役で出演します」


「短いシーンですが、見ていただけたら嬉しいです」


 そこで一度、澪の目線が落ちる。


 ほんの一拍。


「まだ、うまく言えないことが多いですが、画面の中では逃げないようにします」


 よろしくお願いします。


 頭を下げる。


 二十一秒。


 仮より二秒短い。


 それでも、あの一拍は残っていた。


 残った。


 俺は一回だけ見た。


 一回だけ。


 水野さんが後ろを通る。


「何回」


「一回です」


「今日は本当っぽいな」


「本当です」


「気持ち悪いな」


「さっきも言いましたよ」


「何度でも言う」


 水野さんは俺の画面を覗き込まなかった。


 ただ、通り過ぎる直前に言った。


「朝比奈さんが残すって言ったらしい」


「最後を?」


「うん」


「そうですか」


「矢崎さんは迷った。宣伝部も迷った。でも本人が残したいって言った」


「通ったんですね」


「今回はな」


 今回は。


 その言葉が、少し冷たい。


「次も通るとは限らない」


「はい」


「でも、今回は通った」


 水野さんはそれだけ言って去っていく。


 俺は停止した動画を見る。


 頭を下げる直前の澪。


 顔は硬い。


 明るくない。


 親しみやすくもない。


 それでも、消えていない。


 自分で残した一拍。


 俺は再生ボタンを押さなかった。


     ◇


 夕方、白瀬玲奈の告知投稿が出た。


 事務所の公式ではなく、本人のアカウントだった。


『今夜の「青い夜の終わり」、少しだけ出ています。見てね』


 写真が一枚。


 撮影現場のオフショット。


 白瀬玲奈が、黒いコートを着て笑っている。


 画面が強い。


 ただ立っているだけで、ちゃんと白瀬玲奈だった。


 コメント欄はすぐに動いた。


『見る!』


『玲奈ちゃん楽しみ』


『この表情好き』


『青夜の玲奈ちゃん毎回良すぎる』


 早い。


 軽い。


 強い。


 もう、名前が届いている人間の速度だった。


 朝比奈澪の公式コメント動画とは、流れる水の量が違う。


 同じ画面の中にいるのに、流れている川が違う。


 俺は画面を閉じた。


 比べるな。


 比べるな。


 それでも、比較は勝手に始まる。


 白瀬玲奈。


 朝比奈澪。


 完成された名前。


 まだ削られている名前。


 俺が勝手に並べなくても、世間は勝手に並べる。


「佐伯」


 制作部の先輩が声をかけてきた。


「はい」


「今日オンエアだっけ、例の子」


「はい」


「予告の横顔の子だよな。コメント動画見た」


「そうですか」


「なんか、不器用だな」


 先輩は笑っていなかった。


 馬鹿にしているわけではなさそうだった。


 ただ、思ったことを言っただけ。


「でも、ちょっと残る」


 俺は顔を上げる。


 先輩は、もう自分の席へ戻りかけていた。


「本編でどうなるかだな」


 それだけ言って、コーヒーを持って行った。


 ちょっと残る。


 本編でどうなるか。


 たったそれだけの言葉が、妙に重かった。


 世間は雑だ。


 でも、雑な中にも、ときどき引っかかる針がある。


 それを拾いたくなる。


 拾って、澪に見せたくなる。


 ほら。


 残っている。


 そう言いたくなる。


 俺は、キーボードの上で指を止めた。


 送るな。


 拾って並べるな。


 それはもう編集だ。


     ◇


 二十一時を過ぎると、制作部の空気が少し変わった。


 深夜ドラマの放送は、日付が変わる少し前。


 それでも、オンエアの日は妙に落ち着かない。


 誰かがモニターの準備をする。


 誰かが録画確認用のデッキをチェックする。


 誰かが配信予定の管理画面を開く。


 誰かがSNS監視用の端末を並べる。


 机の上に、ペットボトルと紙コップとエナジードリンクが増えていく。


 安い夜の匂いがした。


 蛍光灯。


 コンビニ飯。


 熱くなったノートパソコン。


 コーヒー。


 眠気。


 焦り。


 その全部が混ざった、制作部の夜。


 俺は字幕データを開いていた。


 該当シーンの字幕。


 久しぶり。


 元気でね。


 たった二つ。


 画面の下に出る文字としては、何の変哲もない。


 でも、その文字が出るタイミングを、何度も確認した。


 早すぎないか。


 遅すぎないか。


 声の揺れを潰していないか。


 沈黙を食っていないか。


 字幕は親切だ。


 けれど、時々、声より先に意味を渡してしまう。


 澪の二言は、意味より先に残るべきだと思った。


 思っただけだ。


 俺は勝手に触れない。


 最終データはもう出ている。


 触れない。


 触るな。


「佐伯くん」


 水野さんが近くに来た。


「はい」


「字幕、問題ない?」


「ないです」


「触ってない?」


「触ってません」


「偉い」


「褒められると不安になります」


「俺も不安だ」


 水野さんは、俺の画面を見た。


 字幕データ。


 久しぶり。


 元気でね。


 水野さんの表情は変わらなかった。


「いよいよだな」


「はい」


「怖い?」


「怖いです」


「何が」


「わかりません」


 正直に答えた。


 視聴者の反応が怖いのか。


 澪が傷つくのが怖いのか。


 自分が検索するのが怖いのか。


 あの二言が本当に誰かに残ってしまうのが怖いのか。


 それとも、何も残らないのが怖いのか。


 わからない。


 水野さんは少しだけ黙った。


「いい答えだ」


「そうですか」


「わかった顔されるよりはな」


 水野さんは、SNS監視用の端末を見る。


「オンエア中、君はそっちを見るな」


「はい」


「リアルタイム反応は毒が強い」


「はい」


「良い反応も悪い反応も、熱が高すぎる」


「はい」


「一晩寝かせても腐ってなかった言葉だけ、少し見るくらいでいい」


「水野さんは見ますよね」


「見るよ」


「ずるいですね」


「ずるいよ。大人だからな」


 また、それ。


 でも今日は、少しだけ違って聞こえた。


 ずるい大人が壁になる。


 そういうこともあるのかもしれない。


     ◇


 二十三時四十分。


 澪からメッセージが来た。


『起きています』


 俺はスマホを見た。


 返すか迷う。


 制作部のモニターでは、前番組が流れている。


 笑い声。


 明るいテロップ。


 CM。


 世界はまだ、何も知らない顔をしている。


『こちらも起きています』


 送った。


 すぐに既読。


『一人です』


 短い文。


 俺は画面を見つめる。


『矢崎さんは』


『電話できるようにしてくれています』


『そうですか』


『でも、今は一人です』


 もう一度。


 一人。


 それを伝えたいのか。


 確認したいのか。


 自分に言い聞かせているのか。


 わからない。


『怖いですか』


 俺は打った。


 既読。


 少し間。


『はい』


 次が来る。


『でも、今は逃げたくないです』


 俺は返信欄に指を置いた。


 何か言うべきだった。


 いや、言うべきではなかった。


 大丈夫。


 見ています。


 逃げなくていい。


 どれも違う。


 どれも、少し違う。


 俺は短く打った。


『始まります』


 送信。


 既読。


『はい』


 それだけ。


 そのあと、澪からは何も来なかった。


 制作部のモニターで、番組開始前のCMが流れる。


 洗剤。


 スマホゲーム。


 コンビニスイーツ。


 軽い音楽。


 白い歯の笑顔。


 その中に、これから澪の声が混ざる。


 何の準備もしていない人たちの夜に。


     ◇


 二十三時五十八分。


 オープニングが始まった。


 制作部の照明が少し落とされる。


 誰がやったのかは知らない。


 モニターの光が、部屋の顔を青くする。


 桐谷廉の名前。


 白瀬玲奈の名前。


 音楽。


 夜の街。


 青いネオン。


 タイトル。


 青い夜の終わり。


 いつもなら確認作業として見る映像が、今日は少し違って見えた。


 俺は自分の手元に字幕データを開いたまま、モニターを見る。


 水野さんは腕を組んで立っている。


 梶原さんは後ろの椅子に座っている。


 宣伝部の人間は、別の端末でSNSを見ている。


 矢崎さんはいない。


 白瀬玲奈もいない。


 朝比奈澪もいない。


 でも、全員がここにいるような気がした。


 ドラマは進む。


 桐谷演じる主人公が、古い写真を見つける。


 白瀬玲奈が演じる現在の恋人が、それに気づく。


 過去の話。


 言えなかったこと。


 置き去りにした駅。


 何度も見たシーン。


 編集室で。


 カメラテストで。


 素材確認で。


 それなのに、オンエアで見ると少し違う。


 画面の向こうに、知らない人間がいる。


 その気配が、モニターの表面に薄く張りついている。


 CMが入る。


 誰かが小さく息を吐いた。


 SNS監視の端末を見ていたスタッフが、「玲奈ちゃん反応いいですね」と言う。


 水野さんは返事をしない。


 俺は見ない。


 見ない。


 見ない。


 手元の字幕データを見る。


 久しぶり。


 元気でね。


 まだ少し先。


 CMが明ける。


 駅のシーン。


 夜。


 吐く息。


 古い街灯。


 桐谷が立っている。


 画面の端に、澪が入る。


 制作部の空気が、ほんの少し止まった。


 いや、止まったように俺が感じただけかもしれない。


 朝比奈澪。


 元同級生役。


 役名のない少女。


 彼女は、画面の中で桐谷を見ていない。


 少しだけ横を向いている。


 白い息。


 指先。


 鞄の持ち手。


 書道の体幹。


 巨大な白紙の前に立つ時の、あの姿勢。


 こんな駅前の暗がりでも、残っている。


 桐谷が言う。


「久しぶり」


 字幕が出る。


 久しぶり。


 澪が顔を上げる。


 ほんの一拍。


 その一拍に、編集室で何度も聞いたノイズが戻ってくる。


 何も言わない。


 まだ言わない。


 画面の中の彼女は、喋る前に一度、傷ついていた。


「……久しぶり」


 声が出た。


 制作部の誰かが、息を止めた気がした。


 うまくない。


 滑らかではない。


 明るくもない。


 でも、流れなかった。


 流れていかなかった。


 その声は、画面の上に少しだけ砂を撒いた。


 桐谷が短く笑う。


 台本通り。


 でも、その笑いが少しだけ変わって見える。


 澪の声を受けて、相手の空気が変わる。


 そういう編集では切れないものが、オンエアの画面に残っている。


 桐谷が言う。


「元気だった?」


 澪は答えない。


 答えない時間。


 一秒。


 二秒。


 数えるな。


 数えるな。


 数えるな。


 俺は、手元の字幕データを見る。


 次の字幕。


 元気でね。


 まだ出ていない。


 澪の視線が揺れる。


 白瀬玲奈が映る。


 現在の恋人として、遠くからそのやり取りを見ている。


 玲奈の顔は完璧だった。


 美しい。


 正しい。


 傷ついているのに、崩れない。


 プロの顔。


 その横で、澪は崩れていないのに、整ってもいない。


 きれいな線ではない。


 でも、消えない線。


 そして、彼女は言った。


「……元気でね」


 字幕が出る。


 元気でね。


 声が、部屋の中に落ちた。


 本当に、落ちたように聞こえた。


 軽い二言。


 短い別れ。


 でも、その中に、逃げたいものと、残したいものと、言えなかった時間が、全部ひっかかっていた。


 上手い声ではなかった。


 それでも、画面が一瞬、冷えた。


 桐谷が何も言えなくなる。


 白瀬玲奈の目が、わずかに動く。


 その一瞬。


 シーンが切り替わる。


 現在の夜。


 白瀬玲奈の台詞。


 主人公の沈黙。


 物語は進む。


 進んでしまう。


 オンエアは、誰の傷も待ってくれない。


 朝比奈澪の二言も、もう通り過ぎた。


 戻らない。


 巻き戻せない。


 編集室ではない。


 放送は、戻らない。


 制作部の誰かが、小さく言った。


「……残ったな」


 誰の声か、わからなかった。


 俺ではない。


 水野さんでもない。


 たぶん、後ろの誰か。


 それだけで、十分だった。


 十分すぎた。


 俺はスマホを見なかった。


 見なかった。


 爪が、掌に食い込む。


 検索窓を開くな。


 コメント欄を見るな。


 拾うな。


 並べるな。


 その声はもう外に出た。


 俺のものではない。


     ◇


 放送が終わったのは、日付が変わって少し経ってからだった。


 制作部の空気は、妙に白かった。


 モニターの光。


 ノートパソコンの画面。


 SNS監視用の端末。


 誰かが「お疲れ様でした」と言う。


 誰かが「配信も問題なし」と言う。


 誰かが「反応、来てます」と言う。


 俺は見ない。


 見ない。


 見ない。


 水野さんが俺の前に立った。


「佐伯くん」


「はい」


「見たな」


「はい」


「検索したか」


「してません」


「えらい」


「気持ち悪いですか」


「気持ち悪い」


「でしょうね」


 水野さんは、少しだけ笑った。


 疲れた顔だった。


「どうだった」


 その質問は、珍しかった。


 水野さんが、俺に感想を聞く。


 俺はすぐには答えられなかった。


 どうだった。


 あの二言が。


 朝比奈澪が。


 オンエアの中で。


 世間の前で。


 どうだった。


「……編集で見た時より」


「うん」


「短かったです」


「そうだな」


「でも」


 言葉が喉で止まる。


 うまく言えない。


 皮肉なことに。


「短いのに、消えませんでした」


 水野さんは、しばらく黙っていた。


 それから、短く言った。


「そうか」


 それだけだった。


 それだけでよかった。


 スマホが震えた。


 机の上。


 画面は伏せてある。


 誰からかは見えない。


 でも、たぶんわかる。


 水野さんも見た。


「出るなとは言わない」


「はい」


「ただし、反応は送るな」


「はい」


「自分の感想も、慎重にしろ」


「はい」


「褒めるなとは言ってない」


「はい」


「名前をつけるなと言ってる」


 俺は頷いた。


 スマホを取る。


 画面を見る。


 朝比奈澪。


『見ました』


 たった四文字だった。


 俺は返信欄を開いた。


 指が止まる。


 何を書く。


 よかった。


 残った。


 すごかった。


 女優だった。


 俺は一度、画面を閉じた。


 開く。


 また閉じる。


 水野さんはもういない。


 制作部の向こうで、誰かが反応を読み上げそうになって、別のスタッフに止められている。


 俺は、短く打った。


『見ました』


 送信。


 すぐに既読。


 それだけでは終わらなかった。


 澪から次が来る。


『怖かったです』


 俺は返信する。


『はい』


『でも、逃げませんでした』


『はい』


 少し間。


『私の声、変でしたか』


 胸の奥が、冷える。


 その質問。


 最初からずっと、彼女が抱えていたもの。


 下手か。


 変か。


 残るか。


 消えるか。


 俺は画面を見つめる。


 答えを間違えれば、また俺の評価になる。


 でも、逃げれば、それも彼女はわかる。


 俺は打った。


『変でした』


 既読。


 長い沈黙。


 制作部の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。


 やがて、返信。


『はい』


 それだけ。


 俺は続けて打つ。


 指が、少し震えていた。


『でも、流れませんでした』


 送信。


 既読。


 長い。


 長い沈黙。


 次のメッセージが来るまで、俺は一度もスマホから目を離せなかった。


『それなら、よかったです』


 俺は息を吐いた。


 たぶん、今夜初めて。


 続けて、澪からもう一通。


『まだ、見返せません』


『見返さなくていいです』


 打って、止める。


 違う。


 俺が決めるな。


 消す。


『今は、見返さなくてもいいと思います』


 送る。


『佐伯さんは見返しますか』


 痛い。


 また、痛い。


 俺は正直に打った。


『たぶん』


 既読。


『何回ですか』


『わかりません』


『多そうです』


『多いと思います』


『気持ち悪いです』


『はい』


 画面の向こうで、澪が少しだけ笑った気がした。


 その笑いが本当にあったのかはわからない。


 でも、少しだけ空気が緩んだ。


『今日は寝てください』


 俺は送った。


 すぐに返事。


『今日は逃げてますか』


 俺は少し考えた。


『少し』


『私も、少し逃げます』


『はい』


『でも、明日見ます』


 怖いまま。


 少し逃げて。


 明日見る。


 それでいい。


 たぶん、それでいい。


『はい』


 俺は送った。


 やり取りはそこで止まった。


     ◇


 放送後の反応をまとめたファイルは、すぐに作られ始めた。


 SNS監視の端末では、言葉が流れている。


 誰かが拾う。


 誰かが分類する。


 誰かが表にする。


 誰かが次の宣伝文言を考える。


 朝比奈澪の声は、もう世間の中にある。


 誰かの記憶の中。


 そして、誰かのどうでもいい夜の中。


 俺は、まだ検索していない。


 まだ。


 机の上に、録画データ確認用のファイルが届く。


 俺の仕事。


 放送データにノイズがないか。


 字幕のズレがないか。


 音声トラブルがないか。


 確認する。


 仕事として。


 俺は再生ボタンに指を置いた。


 止まる。


 蛍光灯が白く鳴っている。


 制作部の夜は、まだ終わらない。


 モニターの中で、ドラマの冒頭が静かに始まる。


 俺はタイムコードを進める。


 駅のシーンへ。


 仕事だから。


 そう言い訳して。


 澪が映る。


 白い息。


 横顔。


 久しぶり。


 元気でね。


 俺は、一度だけ巻き戻した。


 一度だけ。


 もう一度、声が落ちる。


 ……元気でね。


 画面の下に字幕が出る。


 元気でね。


 俺は停止した。


 再生バーの上で、指が止まる。


 外では、もう誰かが彼女の名前を検索しているかもしれない。


 誰かが褒めているかもしれない。


 誰かが笑っているかもしれない。


 誰かが忘れているかもしれない。


 俺は、まだ見ない。


 まだ。


 その代わり、画面の中の澪を見た。


 言い終えた直後の顔。


 ほんの少しだけ、何かを失った顔。


 ほんの少しだけ、何かを置いていった顔。


 オンエアは、誰の傷も待ってくれない。


 でも、傷だけは、少し遅れて残る。


 机の端で、スマホが震えた。


 澪ではなかった。


 宣伝部からの共有通知。


【朝比奈澪|放送後反応メモ_速報】


 俺は画面を見た。


 開かなかった。


 開かなかったまま、録画データの再生画面に戻る。


 指先だけが、まだ検索窓の形を覚えていた。

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