検索窓は、名前を削る
放送まで、あと八日。
ホワイトボードの赤い数字は、朝いちばんで書き換えられていた。
八。
昨日より、少しだけ角が丸い字だった。
誰が書いたのかはわからない。
でも、その数字を見るだけで、喉の奥が乾いた。
俺は机に座り、メールを開いた。
未読が十七件。
ロケ弁の確認。
小道具リスト。
音効戻し。
字幕チェック。
宣伝部からの素材確認。
その中に、見慣れない件名が混ざっていた。
【朝比奈澪|検索候補・SNS反応共有】
手が止まった。
開くな。
開け。
開くな。
仕事だ。
開け。
俺は少しだけ迷って、結局クリックした。
本文は短かった。
宣伝部からだった。
お疲れ様です。
昨日解禁した次回予告およびプロフィール更新後の反応を簡単にまとめました。
今後の投稿文言調整の参考までに共有します。
添付ファイル。
朝比奈澪_初動反応メモ.xlsx
俺は画面を見つめた。
初動反応。
便利な言葉だ。
誰かの一瞬の感想が、もう表になる。
好きも、嫌いも、誰、も、かわいいも、怖いも、全部セルに入る。
開くな。
開け。
仕事だ。
開け。
カーソルが添付ファイルの上で止まる。
「佐伯くん」
背後から声がした。
水野さんだった。
「はい」
「開くな」
「まだ開いてません」
「開こうとしてただろ」
「仕事です」
「仕事ならなおさら開くな」
水野さんは俺の画面を見る。
件名を読んで、舌打ちした。
「宣伝部、こういうの早いんだよな」
「初動反応メモ」
「便利そうな名前だろ」
「便利そうですね」
「便利なものはだいたい危ない」
「制作会社の人とは思えない言葉ですね」
「制作会社の人間だから言ってる」
水野さんは、俺の机に置かれたマウスを指で軽く押した。
カーソルが添付ファイルから外れる。
「これは、俺が見る」
「俺は?」
「見ない」
「制作補助としても?」
「制作補助としても」
「共有メールなのに」
「共有されているものを全部見る必要はない」
「でも、朝比奈さんの反応ですよね」
「だから見せない」
即答だった。
水野さんは、俺の横に立ったまま続けた。
「昨日言ったよな」
「一日三回まで」
「その前」
「本人に反応を送るな」
「その前」
「君が選んだ世間は、世間じゃない」
「そう」
水野さんは画面を見た。
「これは、誰かが選んだ世間だ」
俺は黙った。
「しかも、仕事の顔をしている」
水野さんの声は、低かった。
「好意的反応。否定的反応。要調整ワード。検索候補。プロフィール文言への反応。そういう名前で、誰かの雑な言葉が綺麗に並べられてる」
「はい」
「見ると、安心するぞ」
「安心」
「自分が世間を把握した気になる」
それは、かなり嫌な言い方だった。
そして、正しかった。
「だから見るな」
「水野さんは見るんですよね」
「見る」
「ずるくないですか」
「ずるいよ。大人だからな」
水野さんは、俺の画面を閉じた。
「君はまだ、見たら混ぜる」
「何に」
「あの子を見る目に」
言い返せなかった。
昨日、検索窓に名前を入れた。
一回目。
あれだけで、もう指先に癖が残っている。
朝比奈澪。
予告。
誰。
新人。
打てば出る。
出れば読む。
読めば、混ざる。
「佐伯くん」
「はい」
「今日は、朝比奈さんに会うな」
「会う予定ありません」
「予定はなくても、会うだろ」
「決めつけがすごいですね」
「当たるからな」
水野さんは去り際に言った。
「検索も今日は一回まで」
「昨日は三回でした」
「減らした」
「横暴です」
「中毒者に優しい量を与えるな」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
俺は閉じられたメール画面を見た。
添付ファイルは見えない。
でも、存在は消えない。
閉じたことになっているだけの、反応。
◇
朝比奈澪に会う予定はなかった。
本当に。
今日は撮影もない。
読み合わせもない。
プロフィール確認の打ち合わせもない。
彼女が制作会社に来る理由はない。
だから、昼前に廊下で彼女を見かけた時、俺は思わず足を止めた。
向こうも止まった。
白い紙袋を持っていた。
事務所のロゴが入っている。
隣には矢崎さんがいた。
さらに、宣伝部の女性スタッフもいる。
なるほど。
理由はあったらしい。
「お疲れ様です」
澪が頭を下げる。
「お疲れ様です」
俺も返す。
短く。
薄く。
それで終わらせるつもりだった。
矢崎さんがこちらを見る。
「佐伯さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「今日は宣伝部さんと、短いコメント動画を撮りに来ています」
「コメント動画」
「はい。公式用に」
澪の指が、紙袋の持ち手を握り直した。
コメント動画。
予告では声がなかった。
プロフィールでは言葉が整えられた。
今度は、本人の声で、本人として話す。
役ではない。
台詞でもない。
自分の名前で。
「もう撮るんですか」
俺が聞くと、矢崎さんは少しだけ笑った。
「予告で少し反応があったので、早めに出した方がいいという判断です」
反応があったので。
早めに出す。
箱が、また一つ動く。
「佐伯くん」
遠くから水野さんの声がした。
早い。
見張っていたのか。
いや、たぶん見張っていた。
「はい」
「倉庫の在庫、確認」
「はい」
行け、という声。
俺は頭を下げる。
「失礼します」
澪が何か言いかけた。
でも、言わなかった。
そのまま矢崎さんたちと会議室の方へ歩いていく。
白い紙袋が、彼女の細い腕で揺れていた。
中身はたぶん衣装か、資料か、何かの書類。
どちらにしても、軽そうには見えなかった。
◇
倉庫の在庫確認は、本当にあった。
ケーブル。
養生テープ。
予備のバッテリー。
延長コード。
黒布。
白布。
マイクスタンド。
折りたたみ椅子。
俺はチェック表に丸をつけていく。
地味で、必要で、どうでもよくない仕事。
そういう作業に逃げ込むのは、楽だった。
数字を数える。
物を数える。
足りないものを書く。
人間の顔を見なくていい。
しばらくすると、廊下の向こうから声が聞こえた。
会議室ではなく、倉庫の隣の小会議室だったらしい。
撮影用の照明の熱を逃がすためか、扉にドアストッパーが噛まされていた。
その隙間に、澪の声が混ざってくる。
宣伝部のスタッフの声。
「じゃあ、朝比奈さん、まず普通にお願いします」
「はい」
澪の声。
少し硬い。
「こんにちは、朝比奈澪です。『青い夜の終わり』次回放送分に出演します。ぜひご覧ください」
止まる。
静寂。
「うん、ちょっと硬いかな」
宣伝部の声。
「もう少し明るく。初めて見る人にも親しみやすく」
「はい」
親しみやすく。
また便利な言葉だ。
俺はチェック表に丸をつける。
黒布、一枚。
白布、二枚。
澪の声がもう一度聞こえる。
「こんにちは、朝比奈澪です。『青い夜の終わり』次回放送分に出演します。ぜひ、ご覧ください」
少し明るくなった。
でも、そのぶん薄くなった。
「うーん、かわいいんだけど、もうちょっと自然に」
「はい」
自然に。
これも難しい。
「普段、友達に話す感じで」
澪は、たぶん困っている。
見なくてもわかった。
友達に話す感じ。
彼女にとって、それがどれくらい遠い指示なのか、あの人たちは知らない。
知らなくて当然だ。
仕事だから。
「佐伯くん」
背後から水野さん。
まただ。
「倉庫、声漏れすぎです」
「扉を閉めればいい」
「閉めていいんですか」
「駄目」
「どっちですか」
「聞くな」
「聞こえます」
「聞こえないふりをしろ」
「今日は下手です」
「だろうな」
水野さんは棚に寄りかかる。
俺のチェック表を見る。
「在庫、進んでる?」
「はい」
「黒布?」
「一枚」
「白布?」
「二枚」
「君は?」
「何がですか」
「自分の在庫」
「意味がわかりません」
「余裕」
「ありません」
「だろうな」
水野さんは会議室の方を見た。
扉の隙間から、澪の声がもう一度聞こえる。
「こんにちは、朝比奈澪です」
少し高い。
少し作っている。
誰に向けた声なのか、まだわからない声。
水野さんは黙っていた。
俺も黙った。
宣伝部の声がする。
「いいですね。じゃあ次、もう少しだけ笑顔で」
澪が「はい」と答える。
その「はい」が一番澪だった。
本番ではない返事。
撮られていないと思っている声。
それだけが、少し残った。
「今の」
俺が言いかけると、水野さんが遮った。
「言うな」
「はい」
「今日の現場は宣伝部だ」
「はい」
「君の現場じゃない」
「はい」
「それに、今の『はい』を拾い始めたら終わりだぞ」
終わり。
その言葉は軽く聞こえた。
でも、重かった。
カメラが回っていない場所の声まで拾い始める。
素の声。
油断した声。
本音っぽい声。
それを作品や宣伝に使えるかもしれないと思い始める。
それは、かなり危ない。
「わかってます」
「本当に?」
「たぶん」
「低い」
「高めです」
水野さんは小さく笑った。
でも、目は笑っていなかった。
◇
昼過ぎ、コメント動画は撮り終わったらしい。
澪たちは宣伝部の部屋で確認に入った。
俺は倉庫から出て、廊下の自販機の前で水を買った。
一口飲む。
冷たさが喉を通る。
それでも乾きは消えなかった。
スマホが震えた。
澪からだった。
『コメント動画、撮りました』
俺は画面を見た。
『知っています』
打って、消す。
聞こえていました、になる。
それは、よくない。
『お疲れ様です』
送信。
すぐに既読。
『硬かったです』
自分でわかっているらしい。
『見てません』
送る。
『はい』
少し間。
『見てないのに、硬かったと思ってませんか』
俺は自販機の横で固まった。
読まれている。
また。
『思ってません』
打つ。
消す。
嘘が下手すぎる。
『少しだけ』
送った。
既読。
『やっぱり』
画面の向こうで、澪がどんな顔をしているのかはわからない。
でも、たぶん少しだけ唇を結んでいる。
『宣伝部の人に、自然にって言われました』
『難しい指示ですね』
『はい』
『どうしましたか』
『自然って、どこにあるんですか』
俺は返信できなかった。
自然。
普通。
親しみやすい。
透明感。
使いやすい。
そういう言葉は、だいたい誰かの都合で形を変える。
『佐伯さん』
『はい』
『私は、普通に喋ると硬いです』
『はい』
『明るく喋ると、薄いです』
『はい』
『笑うと、誰かわからなくなります』
昨日の宣材写真と同じだ。
今度は声で、それが起きている。
『じゃあ、どうすればいいんですか』
メッセージが来る。
俺は、すぐには打たなかった。
答えるな。
俺が答えるな。
彼女の声に、俺の線を足すな。
それでも、指は動きたがった。
声にする前の場所に立て。
嘘になるなら、嘘ごと出せ。
うまく喋ろうとするな。
いくつも浮かぶ。
全部、俺の言葉だ。
スマホの画面が、手の中で熱い。
俺は短く打った。
『矢崎さんに聞いてください』
送信。
すぐに既読。
返事は少し遅かった。
『聞きました』
『何と』
『まずは親しみやすさを覚えようって』
矢崎さんらしい。
正しい。
とても正しい。
『それも必要です』
俺は送った。
『はい』
澪の返事。
少し間。
『でも、必要なものだけで喋ったら、また私がいなくなります』
俺は目を閉じた。
自販機の機械音が低く鳴っている。
誰かが廊下を走る音。
遠くでスタッフが笑う声。
スマホの中の短い文。
必要なものだけで喋ったら、私がいなくなる。
それは、もうほとんど答えだった。
俺の答えではない。
彼女の中から出てきたものだ。
『なら』
打つ。
止める。
消す。
また打つ。
『いなくならない程度に、必要なものを入れてください』
送った。
既読。
長い沈黙。
やがて、返事。
『それ、難しいです』
『難しいです』
『逃げました?』
『少し』
『ですよね』
そこでやり取りは止まった。
俺はスマホを伏せた。
自販機の横の壁にもたれる。
天井の蛍光灯が白く光っている。
昨日から、白いものばかり見ている気がした。
◇
夕方、コメント動画の仮編集が共有された。
ファイル名。
朝比奈澪_コメント動画_仮01。
見るな。
仕事だ。
見るな。
水野さんに言われていない。
でも、言われるまでもない。
俺は再生しなかった。
五分だけ。
十分だけ。
結局、開いた。
会議室の白い壁の前に、澪が座っていた。
昨日の宣材写真とは違う服。
薄いグレーのブラウス。
髪は軽く整えられている。
メイクは控えめ。
手は膝の上。
指先が少しだけ固まっている。
動画が始まる。
「こんにちは、朝比奈澪です」
声は硬い。
でも、昼に漏れ聞こえたものより少し落ち着いていた。
「『青い夜の終わり』次回放送分に、元同級生役で出演します」
元同級生役。
役名のない名札。
「短いシーンですが、見ていただけたら嬉しいです」
笑う。
少しぎこちない。
でも、消えてはいない。
そこで終わると思った。
だが、動画は続いた。
澪が一度、目線を少し落とす。
カメラの向こうに誰かがいる。
たぶん宣伝部。
矢崎さん。
あるいは水野さん。
澪は小さく息を吸った。
「……まだ、うまく言えないことが多いです」
俺は、画面を見つめた。
台本にあった本人コメントの言葉。
でも、少し違う。
「でも、うまく言えないまま、逃げないようにします」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
動画が終わる。
俺は、再生バーを見た。
二十三秒。
公式に出すには少し長い。
たぶん切られる。
最後の一文は、整えられるかもしれない。
うまく言えないまま、逃げないようにします。
綺麗ではない。
少し引っかかる。
でも、その引っかかりが、澪だった。
俺はもう一度再生した。
「こんにちは、朝比奈澪です」
硬い。
「元同級生役で出演します」
ぎこちない。
「短いシーンですが、見ていただけたら嬉しいです」
薄い。
そして。
「……まだ、うまく言えないことが多いです」
ここで、少し残る。
その一拍。
俺は三回見た。
四回目を押す前に、背後から声がした。
「何回見た」
水野さんだった。
「一回です」
「嘘が、もう様式美だな」
「仕事です」
「その言葉も聞き飽きた」
水野さんは俺の画面を見る。
動画の最後で止まっている澪。
頭を下げる直前の顔。
「宣伝部から仮で来た」
「はい」
「最後、切るかもしれない」
「でしょうね」
「長いからな」
「はい」
「でも、切らないかもしれない」
俺は顔を上げた。
水野さんは画面を見たまま続ける。
「矢崎さんが、残したがってる」
「意外ですね」
「意外か?」
「親しみやすさ重視かと思ってました」
「親しみやすさもいる。引っかかりもいる。売る人間は、片方だけで考えてるわけじゃない」
「はい」
「君よりは、よほど現実を見てる」
「刺しますね」
「刺してる」
水野さんは、再生バーを指差す。
「ここ」
最後の一拍。
「ここを残すなら、朝比奈さんは少しだけ損をする」
「損」
「かわいくはない。明るくもない。コメント動画としては、少し重い」
「はい」
「でも、あの子の今の線は残る」
水野さんは指を離した。
「どっちを選ぶかは、事務所と宣伝部だ」
「本人は」
「確認させる」
「またですか」
「まただよ」
「嫌がりますかね」
「嫌がるだろうな」
「通しますかね」
「知らん。本人の足だ」
水野さんはそれだけ言って、席へ戻ろうとした。
その背中に、俺は聞いてしまった。
「水野さんなら、残しますか」
水野さんは振り返らなかった。
「俺なら?」
「はい」
「本編なら残す」
少し間。
「宣伝なら、迷う」
「……そうですか」
「だから仕事なんだよ」
水野さんは歩いていった。
俺は画面の中の澪を見る。
コメント動画の小さな停止画面。
言葉を言い終えて、頭を下げる直前の顔。
そこで止まっている彼女は、また箱の中にいた。
でも、その箱の内側に、爪でつけた小さな傷が見えた。
◇
夜。
澪からメッセージが来た。
『コメント動画、見ましたか』
俺は少しだけ迷って、正直に返した。
『見ました』
既読。
『何回ですか』
嫌な質問だ。
『仕事なので』
送る前に消す。
それはもう使いすぎた。
『三回です』
送った。
少しして返事。
『多いです』
『少なめです』
『多いです』
『少なめです』
『水野さんみたいです』
『それはかなり嫌です』
画面の向こうで、澪が少し笑った気がした。
『最後、変でしたか』
来た。
最後。
やはり、本人もそこを気にしている。
『変でした』
送る。
すぐに既読。
少し間。
『残さない方がいいですか』
俺は指を止める。
答えられる。
答えたい。
残せ。
絶対に残せ。
そこだけが、今日のコメント動画で朝比奈澪だった。
でも、それを俺が言った瞬間、彼女はまた俺の答えで自分を見る。
俺はスマホを握り直した。
『自分で見てください』
送った。
既読。
『見ました』
『何回ですか』
『五回』
『多いです』
『多いですよね』
『どう思いましたか』
送る。
澪の返事は少し遅かった。
『一回目は、嫌でした』
『はい』
『二回目も、嫌でした』
『はい』
『三回目で、ここだけは私だと思いました』
俺は画面を見つめた。
『四回目で、でも公式に出るのは怖いと思いました』
『はい』
『五回目で、怖いなら残した方がいいのかもしれないと思いました』
俺は、何も打てなかった。
澪は続ける。
『でも、それを自分で言うのが、一番怖いです』
そうだろう。
自分の変なところを残してください、と言う。
明るくないところを使ってください、と言う。
親しみやすくない一拍を切らないでください、と言う。
それは、かなり怖い。
でも、たぶん必要だ。
『言いますか』
俺は打った。
既読。
長い沈黙。
『明日、言います』
短い返事だった。
『矢崎さんに?』
『はい』
『怖いですね』
『はい』
『行くんですか』
『行きます』
即答。
まただ。
彼女は、怖いと言ったあとに行く。
俺は画面を見つめた。
返信欄に、指を置く。
すごいですね。
よかったです。
成長しましたね。
どれも違う。
俺は短く打った。
『寝てください』
すぐに返事が来る。
『今日は逃げてませんね』
俺は少し笑った。
『少しだけ』
『はい』
そこでやり取りは終わった。
◇
俺はその夜、コメント動画をもう一度見なかった。
見たかった。
見なかった。
検索もしなかった。
一回目は朝に使った。
残りは二回。
使わなかった。
かわりに、机の引き出しを開けた。
破れかけた「元気でね」の紙片が、まだそこにある。
見ないつもりだった。
でも、見た。
久しぶり。
元気でね。
紙に刻まれた線は、相変わらずひどかった。
筆圧が強すぎる。
破れかけている。
でも、消えていない。
今、澪は別の場所で、別の線を残そうとしている。
コメント動画。
プロフィール。
予告。
検索結果。
どれも、本編ではない。
どれも、芝居そのものではない。
それでも、人はそこから彼女を見る。
声より先に。
役より先に。
本人より先に。
俺は紙片を引き出しに戻した。
スマホの画面は暗いままだった。
放送まで、あと八日。
机の上で、スマホが一度だけ震えた。
澪からではなかった。
宣伝部からの共有通知。
【朝比奈澪_コメント動画_仮02】
更新時刻、二十三時十七分。
俺は画面を見た。
開かなかった。
開かなかったまま、椅子の背に身体を預ける。
蛍光灯が白く鳴っている。
その音の下で、俺の指先だけが、まだ再生ボタンの形を覚えていた。




