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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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9/16

予告は、声より先に歩き出す

 放送まで、あと十日。


 その数字が、制作部のホワイトボードに書かれた。


 赤いマーカーで。


 次回放送分の最終納品(さいしゅうのうひん)まで、あと十日。


 正確には、朝比奈澪の声が電波に乗る日まで、あと十日。


 誰もそんな書き方はしない。


 現場にとっては、ただの放送日だ。


 編集の締切。


 テロップ確認。


 音効の修正。


 宣伝素材の解禁。


 出演者の告知文。


 それらが積み重なった、ただの予定。


 俺は朝から、会議室のホワイトボードを消していた。


 昨日の打ち合わせで残った線。


 赤字。


 丸印。


 矢印。


 消しても、薄く跡が残る。


 ホワイトボード用のクリーナーを吹きかけ、布で拭く。


 それでも、角度を変えると前の文字が見える。


 ――言葉になる前。


 ――本人確認前。


 ――表現調整。


 そういう薄い跡。


 消したことになっているだけの言葉。


「佐伯くん」


 背後から水野(みずの)さんの声がした。


「はい」


「今日、十八時に公式の予告が出る」


「はい」


「次回放送分の十五秒予告」


「はい」


「朝比奈さんは映る」


 手が止まった。


 白いボードの上で、布が小さく鳴った。


「台詞は」


「入らない」


 水野さんは短く言った。


「顔だけ」


「そうですか」


「そういう顔をするな」


「どんな顔ですか」


「見たいのに、見たくないふりをしている顔」


「便利ですね、その分類」


「君は分類されやすい」


 水野さんは、ホワイトボードに残った薄い赤字を見た。


「公式のプロフィールも、同時に仮更新される」


「もうですか」


「もうだよ。放送前に、最低限の検索先を作る」


「タグは」


「調整された」


「見ていいんですか」


「仕事としてなら」


「仕事として見ます」


「嘘が下手になってきたな」


「元からです」


「そういう嘘が下手になってきた」


 水野さんはスマホを取り出した。


 画面をこちらに向ける。


 そこには、事務所の確認済みプロフィール案が表示されていた。


 朝比奈澪。


 十七歳。


 身長。


 出身地。


 特技、書道。


 出演歴。


 そして、短い紹介文。


 ――言葉になる前の感情を、画面に残す新人。


 前より短くなっていた。


 商品として、少し整えられている。


 でも、完全に平らにはなっていない。


 端に、赤字の跡が残っているみたいな文だった。


「本人確認済みですか」


「済み」


「嫌がりませんでしたか」


「嫌がった」


「通ったんですか」


「少し直した」


「どこを」


「『女優』を削った」


 俺は画面を見る。


 新人。


 女優ではない。


「本人が?」


「うん」


 水野さんはスマホをしまった。


「まだ、自分で女優って名乗るのは怖いらしい」


「……そうですか」


「矢崎さんは渋ったけど、今回は通した」


「どうして」


「本人確認前って書いた以上、本人に確認させたからだろ」


 正しい。


 とても、正しい。


 大人たちが用意した逃げ道を、澪が自分で使った。


「佐伯くん」


「はい」


「嬉しそうにするな」


「してません」


「してる」


「してません」


「してる」


 水野さんは少しだけ息を吐いた。


「今日、公式が動く。たぶん、反応も少し出る」


「はい」


「見るなとは言わない」


 意外だった。


 顔を上げると、水野さんは俺を見ていた。


「ただし、朝比奈さんに反応を送るな」


「はい」


「拾って並べるな」


「はい」


「良い反応も、悪い反応も、君が選別して渡すな」


「はい」


「それをやった瞬間、君は編集室の梶原さんよりたちが悪くなる」


 言葉が、喉の奥に刺さった。


「わかりました」


「本当に?」


「たぶん」


「低い」


「高めです」


 水野さんは呆れたように笑った。


「十八時。仕事終わってから見ろ」


「はい」


「仕事中に見るな」


「はい」


「絶対見るな」


「はい」


「今の返事、見るやつの返事だな」


「信用ないですね」


「ない」


 いつもの即答だった。


     ◇


 十八時まで、時間はやけに遅かった。


 台本を印刷する。


 修正箇所に付箋を貼る。


 ロケ地の使用許可書をPDFにする。


 領収書を整理する。


 弁当の数を確認する。


 いつもの仕事。


 いつもの紙。


 いつもの音。


 けれど、時計だけがやたらと目に入る。


 十七時二十三分。


 十七時四十一分。


 十七時五十六分。


 水野さんが遠くから俺を見た。


 俺は見ていないふりをした。


 十八時ちょうど。


 制作部の誰かが言った。


「公式、出ましたよ」


 空気が少し動く。


 誰かがスマホを開く。


 誰かが「お」と声を出す。


 誰かがヘッドホンを片耳だけ外す。


 深夜ドラマの十五秒予告。


 大きな宣伝ではない。


 世の中の大半は気づかない。


 それでも、現場の人間にとっては、自分たちが作ったものが外に出る瞬間だった。


 俺は、スマホを見なかった。


 見なかった。


 五秒だけ。


 十秒だけ。


 結局、開いた。


 公式アカウント。


 最新投稿。


 動画が表示される。


 再生ボタンの上に、桐谷廉の横顔。


 白瀬玲奈の名前。


 青い夜の終わり、次回予告。


 俺は音量を下げた。


 再生する。


 十五秒。


 夜の駅。


 桐谷が走る。


 白瀬玲奈が振り返る。


 雨の路地。


 古い写真。


 誰かの手。


 そして、一瞬。


 朝比奈澪が映った。


 白い息。


 駅前の光。


 振り返る前の横顔。


 声はない。


 台詞もない。


 ただ、彼女の目だけが一拍、画面の端に残った。


 すぐに切り替わる。


 タイトルロゴ。


 放送日時。


 十五秒が終わる。


 俺は、もう一度再生した。


 桐谷。


 玲奈。


 雨。


 写真。


 澪。


 切れる。


 もう一度。


 澪。


 切れる。


 もう一度。


 画面の端。


 切れる。


「佐伯くん」


 水野さんの声がした。


 俺はスマホを伏せた。


「はい」


「仕事中」


「終わりました」


「終わってない」


「終わってませんでした」


「何回見た」


「一回です」


「嘘が下手すぎる」


 水野さんは俺の机に紙の束を置いた。


「これ、各部署に配って」


「はい」


「あと、反応を見るなら、自分の端末で見るな。変な癖がつく」


「どういう癖ですか」


「検索窓に名前を入れる癖」


 答えられなかった。


 もう、入れかけていた。


 朝比奈澪。


 予告。


 誰。


 新人。


 そういう言葉を。


「佐伯くん」


「はい」


「今日は見るだけにしろ」


「はい」


「触るな」


「はい」


 水野さんは、それだけ言って離れていった。


 触るな。


 反応に触るな。


 彼女に触るな。


 世間に触るな。


 簡単な言葉ほど、難しい。


     ◇


 公式プロフィールも更新されていた。


 朝比奈澪。


 新しい宣材写真。


 一枚目は、笑っている写真だった。


 使いやすい澪。


 柔らかい澪。


 透明感のある澪。


 矢崎さんは、そこを外さなかった。


 当然だ。


 プロフィールの一枚目に、笑わない写真は置きづらい。


 売るための窓には、まず入りやすい光を置く。


 でも、二枚目にあった。


 白い背景紙の前で、笑わなかった澪。


 笑う前に迷った顔。


 レンズに向けた、まだ名前のつかない目。


 紹介文の下に、短く添えられている。


 ――言葉になる前の感情を、画面に残す新人。


 女優、という文字はない。


 特技欄には、書道。


 出演情報には、『青い夜の終わり』元同級生役。


 役名は、ない。


 元同級生。


 それが、彼女の最初の仕事の名札だった。


 俺は画面を閉じた。


 閉じたのに、すぐまた開いた。


 コメント欄を見るな。


 反応を見るな。


 検索窓に名前を入れるな。


 水野さんの声が頭に残っている。


 それでも、公式投稿の下に並んだ反応が目に入る。


『玲奈ちゃん出るの楽しみ』


『桐谷回っぽい?』


『一瞬映った子誰?』


『新キャラ?』


『横顔の子かわいい』


『なんか暗そう』


『白瀬玲奈、顔つよ』


 朝比奈澪の名前は、まだ少ない。


 でも、ゼロではなかった。


 一瞬映った子誰。


 新キャラ。


 横顔の子。


 なんか暗そう。


 名前になる前の反応。


 タグになる前のざらつき。


 俺は、スクロールする指を止めた。


 これ以上は駄目だ。


 まだ声も出ていない。


 まだ、あの「元気でね」は誰にも届いていない。


 それなのに、もう誰かが彼女を見ている。


 顔だけで。


 端の一秒だけで。


 好きか嫌いかもわからないまま、何かを書いている。


 スマホを伏せる。


 机の上に、画面の光が消える。


 消えても、指先にはまだスクロールの感覚が残っていた。


「佐伯」


 制作部の先輩が声をかけてきた。


「はい」


「この子、例の子?」


 スマホをこちらに向けている。


 予告のスクリーンショット。


 画面の端に映った澪。


「例の子、とは」


「水野さんが拾ったって噂の」


「噂、早いですね」


「現場なんてそんなもんだろ」


 先輩は笑った。


「なんか、雰囲気あるじゃん」


「そうですね」


「でも、宣材だと普通だな」


 その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。


「普通ですか」


「一枚目は。二枚目はちょっと怖い」


「怖い」


「うん。なんか、笑ってないやつ。あれ、プロフィールに置くんだな。事務所、攻めるね」


 先輩はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。


 普通。


 怖い。


 攻める。


 たった三つの雑な言葉。


 でも、外の目はたぶんそういうものだ。


 丁寧に見ない。


 文脈を知らない。


 白い背景紙の前で何があったかも、澪が会議で何を言ったかも、知らない。


 知らないまま、判断する。


 それが普通だ。


 その普通の中に、これから彼女は放り込まれる。


     ◇


 澪からメッセージが来たのは、二十時を過ぎてからだった。


『予告、見ました』


 短い。


 俺は少し迷った。


 返すべきか。


 返さないべきか。


 水野さんには、反応を送るなと言われた。


 拾って並べるな、と言われた。


 だから、送らない。


 だが、返さないのも違う気がした。


 俺は打った。


『見ました』


 既読。


 すぐに返事が来る。


『私、声なかったです』


『予告なので』


『はい』


 少し間が空く。


『なのに、怖かったです』


 俺はスマホを見つめた。


『何がですか』


『顔だけ先に出たことです』


 顔だけ。


 昨日の宣材。


 今日の予告。


 声より先に、顔が歩いている。


『変な感じです』


 続けて届く。


『まだ何も言ってないのに、もう誰かに見られてる感じがします』


 正しい。


 かなり正しい。


 でも、そう返すと、また俺の言葉になる。


『見られます』


 俺は打った。


『放送されたら、もっと』


 送ってから、少しだけ後悔する。


 怖がらせるための言葉ではない。


 でも、優しくする言葉でもない。


 既読がつく。


『はい』


 それだけ。


 強くなった、とは思わない。


 慣れた、とも思わない。


 ただ、彼女はもう、怖いと言ったあとに逃げるとは限らなくなった。


『佐伯さん』


『はい』


『コメント、見ましたか』


 来た。


 俺は一度、スマホを机に置いた。


 答えを選ぶ。


 嘘はやめろ。


 でも、全部言うな。


『少しだけ』


 既読。


『何か書かれてましたか』


 反応を送るな。


 拾って並べるな。


 水野さんの声。


 俺は、しばらく入力欄を見つめた。


『一瞬映った子誰、とは書かれていました』


 送った。


 褒め言葉ではない。


 悪口でもない。


 ただの事実。


 少しして、澪から返事が来る。


『誰、ですか』


『はい』


『名前じゃないんですね』


 その返事を見て、指が止まった。


 名前じゃない。


 まだ、彼女は名前で呼ばれていない。


 役名でもない。


 女優でもない。


 タグでもない。


 ただ、誰。


 画面の端に映った、誰か。


『はい』


 俺はそれだけ返した。


 長い沈黙。


 画面の上に、入力中の表示が出ては消える。


 出ては消える。


 やがて、短い文が届いた。


『少し、ほっとしました』


 俺は眉を寄せた。


『どうしてですか』


『名前で見られるのも怖いので』


 わからなくはない。


 名前で呼ばれるというのは、逃げ場が減ることだ。


 誰、のままなら、まだ白紙でいられる。


 でも。


 ずっと白紙では、仕事にならない。


『でも、いつか名前で見られたいです』


 続きが来た。


『怖いですけど』


 俺は返信できなかった。


 彼女は、自分で矛盾を抱えている。


 誰でもいたい。


 名前で見られたい。


 怖い。


 でも、見られたい。


 それを、きれいに整理する必要はない。


 整理した瞬間、嘘になる。


『そのままでいいと思います』


 打って、消した。


 また名前をつけようとしている。


 俺は別の言葉を打った。


『寝てください』


 送った。


 すぐに返事が来る。


『逃げましたね』


 痛い。


 たぶん、正しい。


『はい』


 正直に返した。


 しばらくして、澪からもう一通。


『でも、今日は寝ます』


『はい』


『放送の日は、見ます』


 俺は画面を見た。


 彼女が、自分で書いた。


 逃げずに見ると。


『はい』


 それだけ返す。


『佐伯さんは』


 次のメッセージ。


『見ますか』


 聞かれると思っていた。


 放送を見るか。


 彼女の声が、電波に乗るところを見るか。


 視聴者の前に、あの歪な二言が晒される瞬間を見るか。


 俺は、短く打った。


『仕事なので』


 既読。


 少し間。


『じゃあ、ちゃんと仕事として見てください』


 胸の奥が、少しだけ冷えた。


『私が見てる時に、佐伯さんも見てると思ったら、少し嫌なので』


 嫌。


 その言葉の使い方が、澪らしかった。


『でも、少しだけ、ましです』


 俺は息を吐いた。


 返せる言葉はなかった。


 既読だけが残る。


 それでいいと思った。


     ◇


 その夜、俺は帰りの電車で予告をもう一度見た。


 音は出さない。


 画面だけ。


 桐谷。


 玲奈。


 雨。


 写真。


 澪。


 切れる。


 十五秒の中の、一秒にも満たない横顔。


 それだけなのに、コメント欄には少しずつ新しい言葉が増えていた。


『この横顔の子、朝比奈澪って子?』


『事務所のプロフィール見た。新人らしい』


『言葉になる前の感情って何w』


『雰囲気売り?』


『でも写真二枚目ちょっと好き』


『白瀬玲奈の方が圧倒的に華ある』


『この子、本編で喋るの?』


 俺はスクロールを止めた。


 本編で喋るの?


 そうだ。


 彼女は喋る。


 久しぶり。


 元気でね。


 たった二つ。


 それだけ。


 でも、その二つがまだ外に出ていない。


 今、世間は彼女の顔だけを見ている。


 タグだけを読んでいる。


 宣材だけを眺めている。


 声を知らない。


 砂を知らない。


 舌の奥に残る、あの変なざらつきを知らない。


 電車の窓に、スマホを持った自分の顔が映っていた。


 暗いガラスの向こうに、駅の光が流れていく。


 俺はスマホを伏せた。


 それでも、親指はまだコメント欄を探していた。


 気持ち悪い。


 本当に。


 水野さんの言った通りだった。


 検索窓に名前を入れる癖。


 それは、思っていたよりずっと簡単に身体につく。


     ◇


 翌朝、制作部に行くと、ホワイトボードの日付が一つ減っていた。


 放送まで、あと九日。


 誰が書き直したのか、赤い数字が新しくなっている。


 俺は机に荷物を置いた。


 メールを開く。


 資料を確認する。


 その中に、事務所からの共有メールが混ざっていた。


 件名。


【朝比奈澪プロフィール文言・本人確認戻し】


 開く。


 お世話になっております。


 本人確認のうえ、下記文言で一旦進行いたします。


 今後、放送後の反応を見て再調整予定です。


 ――言葉になる前の感情を、画面に残す新人。


 さらに、その下。


『まだうまく言葉にできないことが多いですが、画面の中で逃げないように頑張ります。』


 俺は、その一文で手を止めた。


 綺麗だ。


 少し綺麗すぎる。


 事務所の手が入っている。


 朝比奈澪は、これを見て、これでいいと一度は言った。


 どこまでがあの子で、どこからが大人の整えた線なのか、もう画面からは読み取れなかった。


「佐伯くん」


 水野さんがいつの間にか横に立っていた。


「はい」


「見た?」


「仕事なので」


「逃げ方が本人に似てきたな」


「やめてください」


「本人コメント、どう思う」


「綺麗です」


「だな」


 水野さんは腕を組んだ。


「でも、オンエアされたらまた変わるぞ。数字と反応次第で、事務所はいくらでもあの子の箱を乗せ替える」


「……反応を見て、ですか」


「そう。追いつこうとして変に走れば転ぶ。それだけだ」


「どうすれば」


「知らん。本人の足だからな」


 その言葉は、ひどく冷たかった。


「佐伯くん。今日から放送まで、君は朝比奈さんの検索を一日三回までにしろ」


「具体的ですね」


「放っておくと三十回やる顔をしてる」


「……しないようにします」


「あと、本人に反応を送るな。本人から聞かれてもだ」


「はい」


「君が選んだ世間は、世間じゃない。それはもう編集だ」


 俺は、何も言えなかった。


 キーボードの上に置いた指先が、かすかに強ばる。


「放送まで、あと九日。君が先に壊れるなよ」


 そう言って、水野さんは自分の席へ戻っていった。


 俺はホワイトボードの赤い数字を見る。


 九。


 たった一桁。


 その数字が、やけに大きく見えた。


     ◇


 昼休み。


 俺は検索窓に、朝比奈澪、と打った。


 一回目。


 馬鹿みたいな制限。


 でも、制限されなければ、たぶん止まらない。


 検索結果はまだ少なかった。


 事務所のプロフィール。


 ドラマ公式。


 予告の投稿。


 誰かの短い感想。


 検索結果の中で、彼女の名前が、まだ柔らかいまま転がっている。


 俺は画面を閉じた。


 その時、澪からメッセージが来た。


『プロフィール、見ましたか』


 俺は少し考えた。


『仕事なので』


 送る前に、消す。


 同じ逃げ方を二回するな。


『見ました』


 送信。


 返事が来る。


『綺麗すぎますか』


 読まれている。


 こちらが思うより、ずっと。


『少し』


 正直に返した。


『やっぱり』


 少し間。


『でも、少しだけ、私より先に歩きそうです』


 俺は画面を見つめた。


『追いかけますか』


 俺は打った。


 既読。


『はい』


 すぐに返ってきた。


『転んだら?』


 送ってから、少し後悔する。


 澪からの返事は、思ったより早かった。


『転んだところも、たぶん見られます』


 少し間。


『嫌ですけど』


 続けて。


『でも、見られないよりは、たぶん』


 そこでメッセージは切れた。


 たぶん、の先は来なかった。


 俺は返信せず、スマホを伏せた。


 昼休みの制作部は、少しだけ静かだった。


 誰かの弁当の匂い。


 コピー機の紙切れ警告音。


 スマホの画面が暗くなる。


 暗転したガラスの中に、自分の顔が映る。


 ――だが、本当の地獄の秒読みは、もう止まらない。


 あと九日。


 このドラマが電波に乗り、無数の白紙の前に、あの歪な声が晒される。


 その始まりを前に、俺の指先は、気持ち悪いくらい歓喜に震えていた。

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