第8話 商品名が歩き出す会議室
翌日の朝、俺は会議室に入れなかった。
当然だ。
水野さんから、はっきり言われている。
『明日、朝比奈さんの事務所と打ち合わせ。お前は来なくていい』
来なくていい。
つまり、来るな。
制作会社の廊下に立ったまま、俺はその短いメッセージを何度も思い出していた。
朝九時五十五分。
第二会議室の扉は閉まっている。
中には、水野さんがいる。
矢崎さんがいる。
朝比奈澪も、たぶんいる。
ほかに、事務所の広報担当。
うちの制作プロデューサー。
宣伝用の素材を扱う担当。
そういう人間たちが、会議机を囲んでいるはずだった。
俺は入れない。
ただの制作補助だから。
雑用だから。
それでいい。
これが正しい。
俺は会議室の前を通り過ぎ、廊下の端に置かれたコピー機の前に立った。
今日の仕事は、資料の印刷だった。
台本の修正版。
香盤表。
ロケ申請書。
スタッフ用の弁当数。
どうでもいい紙。
いや、どうでもよくはない。
現場は、どうでもよく見える紙で回っている。
誰かが印刷し、誰かが配り、誰かが捨てる。
その中に、役者の名前も混ざる。
作品の一部みたいな顔をして。
コピー機が紙を吐き出す。
白い紙。
黒い文字。
薄い機械音。
会議室の扉の向こうからは、何も聞こえない。
防音なんて大したものではない。
それでも、聞こうとしなければ聞こえない程度には、壁がある。
壁。
それが今日の俺の立ち位置だった。
壁の外。
正しい場所。
なのに、足が動かない。
紙が出る。
俺はそれを揃える。
また紙が出る。
俺は揃える。
十時を少し過ぎた頃、会議室の扉が開いた。
中からスタッフの一人が顔を出す。
「佐伯くん、悪い。水、人数分お願い」
「はい」
そういうことは呼ばれる。
便利な時だけ、壁は薄くなる。
俺は給湯室へ向かい、ペットボトルの水を八本、紙袋に入れた。
重くはない。
ただ、妙に手が冷えた。
第二会議室の前に戻る。
扉をノックする。
「失礼します」
中に入った瞬間、空気が少し変わった。
会議室は狭かった。
長机が二つ並べられている。
ホワイトボード。
折りたたみ椅子。
紙コップ。
開かれたノートパソコン。
机の上には、昨日撮られた澪の宣材写真が何枚も並んでいた。
笑っている澪。
少し横を向いた澪。
大人っぽく見える澪。
白い背景の前で、笑わなかった澪。
俺は、その写真を見ないようにした。
見ないようにしたのに、見えた。
あの顔は、昨日よりも静かに見えた。
紙になったせいだ。
画面の中ではなく、印刷された紙の上に置かれると、人は急に商品に近づく。
机の端に、朝比奈澪が座っていた。
私服。
髪は少しだけ整えられている。
表情は硬い。
両手を膝の上で揃えている。
白い背景紙の前に立っていた時より、少し小さく見えた。
俺が入ると、澪がこちらを見た。
ほんの一瞬。
すぐに目を伏せた。
昨日より、逃げ方が少し上手くなっていた。
水野さんは、俺を見なかった。
見るな、ということだ。
俺は紙袋から水を出し、一人ずつ机に置いていく。
水野さん。
矢崎さん。
制作プロデューサー。
広報担当。
事務所の別の男性スタッフ。
澪。
澪の前にペットボトルを置く時、指が少し触れそうになった。
触れなかった。
「ありがとうございます」
澪が小さく言った。
「いえ」
俺はそれだけ返した。
そのまま部屋を出る。
出るはずだった。
「佐伯くん」
水野さんが言った。
俺は扉の前で止まる。
「はい」
「資料、そこの端に置いて」
「はい」
机の端に、追加資料を置く。
その時、ホワイトボードが見えた。
黒いペンで、いくつかの言葉が書かれている。
沈黙で語る、新人女優。
透明感の裏にある翳り。
声が残る十七歳。
画面を止める少女。
言葉になる前の女優。
どれも、澪のようで、澪ではなかった。
どれも、嘘ではない。
だから余計に気持ち悪かった。
「佐伯くん」
水野さんの声が、少し低くなる。
「終わったら出て」
「はい」
俺は頭を下げた。
会議室を出る。
扉を閉める。
閉めきる直前、矢崎さんの声が聞こえた。
「まず、候補としては『沈黙で語る、新人女優』が一番伝わりやすいと思います」
扉が閉まった。
音が切れる。
廊下に戻る。
コピー機が、まだ紙を吐いていた。
◇
会議は長かった。
俺は廊下とコピー機と給湯室を何度も往復した。
追加の資料。
ホワイトボード用のマーカー。
予備の紙コップ。
スマホの充電器。
なぜか消えたホチキス。
壁の外にいるはずなのに、会議室の中の必要だけが、何度も俺を呼んだ。
そのたびに、短い言葉が漏れ聞こえた。
「放送後に検索された時に」
「写真と文言の印象がズレると」
「棒読みって言われるリスクはあります」
「そこを逆手に取るなら」
「でも、あまり尖らせると使いにくい」
「新人なので、まずは分かりやすく」
「白瀬玲奈さんとの差別化も」
差別化。
また便利な言葉だ。
白瀬玲奈は、もう会議の中にいた。
本人がいなくても、名前だけで部屋に座れる。
それが売れている人間の強さだ。
朝比奈澪は、まだ自分の名前だけでは座れない。
だからタグが必要になる。
箱が必要になる。
俺は廊下で資料を揃えながら、聞こえないふりをした。
聞こえないふりは、現場で覚えた。
スタッフの悪口。
役者の評価。
予算の話。
誰を切るか。
誰を残すか。
子どもの頃から、聞こえないふりをするのだけは上手かった。
でも、今日は下手だった。
「佐伯くん」
制作プロデューサーが会議室から顔を出した。
「はい」
「悪い、昨日の宣材の全データ、サムネイル一覧で出せる?」
「確認します」
「あと、白瀬さんの新しいやつも比較で一枚」
「はい」
比較。
俺は返事をして、編集用の共有端末へ向かった。
ログインする。
フォルダを開く。
朝比奈澪。
白瀬玲奈。
二つの名前が、同じ一覧に並んでいた。
同じフォルダの中に。
それだけで、何かが始まっている気がした。
澪の写真をサムネイル一覧にする。
白瀬玲奈の写真を一枚選ぶ。
昨日、机に置かれていた写真と同じものだった。
強い目。
柔らかい口元。
明るいのに、軽くない。
綺麗なのに、怖い。
印刷ボタンを押す。
プリンターが動き出す。
澪の顔が、何枚も紙に出てくる。
笑っている澪。
笑わない澪。
迷っている澪。
どこにも行けない澪。
紙は温かかった。
機械から吐き出されたばかりの熱を、まだ少しだけ持っている。
俺はそれを一枚ずつ揃えた。
角を合わせる。
順番を直す。
白瀬玲奈の写真を、その横に重ねる。
強い目。
柔らかい口元。
明るいのに、軽くない。
綺麗なのに、怖い。
同じ紙束の中で、二人の顔が並んだ。
クリップで留める。
資料用の透明ファイルに入れる。
それだけの作業だった。
「佐伯くん」
背後から声がした。
水野さんだった。
会議室から出てきたらしい。
「はい」
「遅い」
「すみません」
「見すぎ」
俺は手を止めた。
「仕事です」
「そうだな」
水野さんはプリンターから出てきた紙を一枚取る。
澪の笑わない写真。
そこに目を落とす。
「いい写真だな」
「はい」
「君が口を出したせいでな」
「……はい」
「腹立つ」
「すみません」
「謝るなって言ってる」
水野さんは紙を戻した。
「会議、長引く」
「はい」
「君はもう入るな」
「水もですか」
「水も、別の人に頼む」
今度こそ外された。
わかりやすく。
「わかりました」
俺は頷いた。
水野さんは少しだけ黙った。
それから、低い声で言った。
「中で、朝比奈さんが一回だけ止まった」
「え」
「タグの話で」
聞くな。
そう思った。
だが、顔が上がってしまう。
水野さんは俺を見る。
「その顔をするな」
「すみません」
「心配の顔じゃない。見たい顔だ」
図星だった。
また。
「戻れ、仕事に」
「はい」
水野さんは会議室へ戻った。
俺はプリンターの前に残された。
手元には、澪の顔が並んだ紙。
会議室の中で、彼女は一回だけ止まった。
何で。
どの言葉で。
俺はそれを知りたかった。
知ってはいけないのに。
◇
昼前。
会議室の扉が開いた。
最初に出てきたのは、事務所の男性スタッフだった。
次に広報担当。
制作プロデューサー。
それぞれ資料を持ち、電話をしながら散っていく。
矢崎さんは最後の方に出てきた。
表情は変わらない。
柔らかい。
でも、少し疲れている。
その後ろに、澪がいた。
肩が少し落ちている。
でも、泣いてはいない。
俺は廊下の端で台本の束を抱えていた。
完全に、ただの雑用の姿だった。
澪は俺を見つける。
歩きかけて、止まる。
矢崎さんがそれに気づいた。
「五分だけなら」
そう言って、先に歩いていった。
水野さんは会議室の中に残っている。
俺と澪だけが、廊下に残された。
いや、正確には廊下にはスタッフが何人もいた。
誰かが電話している。
誰かが笑っている。
誰かが紙を運んでいる。
だから、二人きりではない。
その方がよかった。
「お疲れ様です」
俺が言うと、澪は小さく頭を下げた。
「お疲れ様です」
「会議、終わりましたか」
「はい」
「そうですか」
会話が薄い。
わざと薄くしている。
聞きたいことはある。
ありすぎる。
でも、聞かない。
澪も何か言いたそうにしていた。
しかし、すぐには言わなかった。
彼女は、自分の手元を見た。
紙を持っている。
会議資料のコピー。
白い紙。
そこに、赤いペンで何かが書き込まれていた。
「決まりました」
澪が言った。
「何が」
「タグです」
喉の奥が、少しだけ乾く。
「そうですか」
「はい」
澪は紙を俺に見せなかった。
見せないまま、言った。
「最初は、『沈黙で語る、新人女優』でした」
「はい」
「私は、それが嫌でした」
廊下の音が、少し遠くなる。
「どうしてですか」
「黙っていればいい人みたいだからです」
澪は紙を握る。
「私、黙っていたいわけじゃないです」
小さな声だった。
でも、芯があった。
「言えないだけで」
俺は何も言えなかった。
澪は紙を胸元に寄せた。
「それで、少し変わりました」
「何に」
「まだ、仮です」
「はい」
「言葉になる前の女優、って」
ホワイトボードにあった候補だ。
あの中では、一番商品名らしくない言葉。
使いやすいのか、使いにくいのか、よくわからない。
澪は視線を落とした。
「でも、それも少し嫌でした」
「どうしてですか」
「前、だけだと、ずっと言葉になれないみたいだから」
廊下の蛍光灯が、低く鳴っている。
「だから、いつか言葉にしますって言いました」
「会議で?」
「はい」
「大人たちの前で?」
「はい」
俺は言いかけて、止めた。
褒めるな。
名前をつけるな。
今日、それをやるのは俺じゃない。
「……かなり、危ないですね」
そう言った。
澪はうなずいた。
「矢崎さんにも言われました」
「でしょうね」
「でも、水野さんは笑ってました」
「悪い顔で?」
「はい」
「でしょうね」
その顔は、見なくてもわかる。
「佐伯さん」
「はい」
「私、今日、少しだけ分かりました」
「何をですか」
「商品名って、つけられるだけじゃないんですね」
澪は紙を見つめる。
「嫌だったら、少しだけ汚してもいいんですね」
「全部は無理です」
澪は続けた。
「事務所の人も、番組の人も、みんな仕事で考えてくれてるから。私が嫌ですって言うだけじゃ、たぶん駄目で」
「はい」
「でも、全部そのまま受け取ったら、私じゃなくなる気がしました」
俺は黙った。
「だから、少しだけ」
澪は紙を握る。
「少しだけ、汚しました」
廊下の向こうで、誰かが笑った。
コピー機が紙詰まりの音を出す。
現実は、いつも間が悪い。
それでも、澪の声は消えなかった。
「次は、自分で、もう少し考えてから会議に行きます」
「次もあるんですか」
「たぶん」
「怖いですね」
「はい。でも、行きます」
即答だった。
少し前なら、たぶん迷っていた。
謝っていた。
誰かの正解を待っていた。
でも、今は違う。
怖いまま、行くと言った。
「佐伯さん」
「はい」
「水野さんに、外されたんですよね」
痛いところを突いてくる。
「はい」
「私のせいですか」
「違います」
「本当に?」
「俺のせいです」
「でも」
「朝比奈さん」
俺は彼女の言葉を止めた。
「人の越境まで、背負わないでください」
澪は黙る。
「あなたは、今日、自分の分だけ汚した」
言ってから、少しだけ後悔した。
また、言いすぎたかもしれない。
だが、澪はそれを受け取らなかった。
いや。
受け取って、自分の中で少し違う形に置いたようだった。
「はい」
短く答える。
「私の分だけ」
その言葉を、小さく繰り返す。
矢崎さんの声がした。
「澪、そろそろ行くよ」
「はい」
澪は紙を鞄にしまった。
俺に頭を下げる。
昨日より深くない。
逃げるための礼ではなく、終わらせるための礼だった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
澪は矢崎さんの方へ歩いていく。
その背中はまだ細く、荷物も軽かったが、床を捉える足元には、昨日までのような震えはもうなかった。
俺は、その背中を見送った。
見送るだけにした。
◇
会議室の片付けを頼まれたのは、午後になってからだった。
人が出払った第二会議室は、少しだけ荒れていた。
紙コップ。
空のペットボトル。
使い終わったマーカー。
赤字の入った資料。
誰かが折った付箋。
机の上には、ホワイトボードの写真を印刷した紙が一枚残っていた。
そこには、会議中に書かれたタグ案が残っている。
沈黙で語る、新人女優。
透明感の裏にある翳り。
声が残る十七歳。
画面を止める少女。
言葉になる前の女優。
その最後の文字の横に、赤いペンで小さく書き込みがあった。
――いつか、言葉にする。
澪の字だった。
たぶん。
書道をやっていた人間の字にしては、少し力の入りすぎた、乱れた線だった。
だが、紙は破れていない。
「持って帰るな」
扉の方から声がした。
水野さんだった。
俺の手元を見ている。
最悪だ。
「捨てろとも言わない」
水野さんは、机の上のクリアファイルを指した。
「資料として残す。制作部の保管だ。君の引き出しじゃない」
「……はい」
俺は紙をクリアファイルに入れた。
透明なビニール越しに、赤い字が見える。
「朝比奈さん、自分で足りないって言ったよ」
水野さんは、もう何も書かれていない白いホワイトボードを見つめた。
「お前が入っていたら、たぶん邪魔だった」
「……はい」
「あの子が自分で止めた会議だ。お前の手柄にするな」
「はい」
「お前の罪にもするな」
息が止まった。
「それも乗っ取りだからな」
水野さんはそう言って、会議室を出ていった。
扉が静かに閉まる。
白いホワイトボード。
空の紙コップ。
クリアファイルの中の赤い字。
俺はしばらくそこに立っていた。
◇
夕方、共有フォルダを開いた。
件のプロフィール案が表示される。
昨日の笑わない写真の横に、仮の紹介文が添えられていた。
――言葉になる前の感情を、画面に残す新人女優。
長い。
使いにくい。
キャッチコピーとしては、たぶん弱い。
でも、前より少しだけ、澪に近かった。
短い注意書きもある。
※本人確認前。表現調整予定。
その五文字を見た瞬間、喉の奥の渇きが、ほんの少しだけ引いた。
スマホが震えた。
澪からだった。
『今日は、言えました』
返事を打とうとして、指を止める。
俺の言葉で名前をつけるな。
今日、彼女は自分でタグを汚した。
それを俺の評価で包んではいけない。
俺は、短く打った。
『見てません』
送信。
すぐに既読がつく。
『はい』
少し間。
『だから、言えました』
廊下の向こうから、また誰かの乾いた笑い声が薄く聞こえる。
コピー機が紙を吐き出す音。
ドアの開閉。
遠くで水野さんが誰かを叱る声。
やがて、もう一通届いた。
『でも、少しだけ見てほしかったです』
俺は返信しなかった。
できなかった。
スマホの画面が暗くなる。
暗転したガラスの中に、自分の顔が映る。
それは、あの白い部屋の真ん中で、どうしても笑うことができなかった朝比奈澪の顔と、ひどく似ている気がした。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
――だが、本当の地獄の秒読みは、もう止まらない。
あと十日。
このドラマが電波に乗り、何十万もの顔も名前もない白紙の前に、あの歪な声が晒される。
その始まりを前に、俺の指先は、気持ち悪いくらい歓喜に震えていた。




