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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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7/16

宣材写真は、沈黙に名前をつける

 朝比奈澪(あさひなみお)宣材写真(せんざいしゃしん)を撮り直す。


 その話が正式に来たのは、編集(へんしゅう)室で彼女の声が長く残ると決まった翌日だった。


 俺はその連絡を、第三スタジオの隅で聞いた。


 床のテープを剥がしている時だった。


 白いビニールテープ。


 誰かの()位置(いち)を示していたもの。


 役者が去れば、ただのゴミになるもの。


 それを丸めていた俺の横で、水野(みずの)さんが電話を切った。


「佐伯くん」


「はい」


「明日、空いてる?」


雑用(ざつよう)は基本的に空いていません」


「じゃあ空けて」


「拒否権は」


「ない」


「知ってました」


 水野さんはスマホをポケットにしまった。


「朝比奈さんの事務所が、宣材撮り直す」


 俺は、剥がしかけたテープを途中で止めた。


「もう決まったんですか」


「決まった。放送前に仮素材だけでも作るらしい」


「早いですね」


「早いよ。芸能はそういう場所だから」


 水野さんは淡々と言った。


 まるで天気の話みたいに。


 だが、俺の手の中のテープは、べたついたまま指に貼りついていた。


「それに、俺が行く必要ありますか」


「向こうが希望してる」


「事務所が?」


「朝比奈さんが」


 やっぱり。


 頭が痛くなる。


「断ってください」


「断った」


「なら」


「向こうがもう一回言ってきた」


「断ってください」


「断った」


「なら」


「今度は事務所のマネージャーが言ってきた。本人が落ち着くなら、現場で見ていてもらえないかって」


「俺は保護者でも先生でもないです」


「そう言った」


「じゃあ」


「でも、制作側の素材確認という建前なら通る」


「建前」


「そう。建前」


 水野さんは俺を見た。


 笑っていなかった。


「君は朝比奈さんのために行くんじゃない。うちのドラマに関係する新人の宣材がどう変わるか、確認に行く。そういうことにする」


「無理があります」


「ある」


「なら」


「でも、向こうは使ってくる」


「何を」


「あの子が君の名前を出したことを」


 床のテープが、指から剥がれた。


 くしゃりと丸まる。


 俺はそれをゴミ袋に落とした。


「昨日、言いましたよね」


 俺は言った。


「次に勝手に越えたら、本当に現場から外すって」


「言った」


「これは越えてませんか」


「ギリギリだな」


「便利な言葉ですね」


「だから俺も行く」


 水野さんは言った。


「君一人では行かせない。俺が同席する。向こうにもそう伝えてある」


「監視ですか」


「そう」


 即答だった。


「君を信用してない」


「知ってます」


「それから」


 水野さんの声が、少し低くなった。


「朝比奈さんも信用してない」


 俺は顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「あの子は、今かなり危ない」


「……はい」


「褒められれば固まる。売り出されれば歪む。守られすぎれば依存する。突き放されすぎれば、自分の声を全部嫌いになる」


 水野さんは、俺の手元のゴミ袋を見た。


「テープなら剥がせば終わりだけどな。人間はそうはいかない」


「それを俺に言いますか」


「君が一番わかってるだろ」


 言い返せなかった。


 水野さんは続ける。


「明日、十時。駅前の貸しスタジオ」


「はい」


「君は制作補助として来る」


「はい」


「余計な演出はするな」


「はい」


「朝比奈さんの味方の顔をするな」


「はい」


「敵の顔もするな」


「難しいです」


「それくらいできないなら来るな」


 正しい。


 いつも通り、嫌になるくらい正しい。


「わかりました」


 俺はゴミ袋を縛った。


 ビニールの口が、ぎゅっと鳴る。


 明日、朝比奈澪は宣材写真を撮る。


 役ではない。


 台詞もない。


 相手役もいない。


 ただ、自分の顔を商品として差し出す。


 たぶん、彼女はまだ知らない。


 それがカメラに台詞を残すより、ずっと逃げ場のない作業だということを。


     ◇


 翌朝の貸しスタジオは、ひどく白かった。


 白い壁。


 白い床。


 白い背景紙(はいけいし)


 白いレフ板。


 白い照明。


 逃げ場のない白だった。


 半紙みたいだ、と思った。


 思ってから、嫌になる。


 なんでも彼女の書道(しょどう)に結びつけるな。


 でも、無理だった。


 その部屋は、巨大な白紙に見えた。


 入り口の横に、簡易メイク台が置かれている。


 鏡の周りには小さなライト。


 卓上には、ヘアスプレー、ブラシ、ファンデーション、リップ、よくわからない小瓶。


 奥ではカメラマンが機材(きざい)を組んでいた。


 三十代くらいの男。


 無駄に明るい声で、スタッフに指示を出している。


「背景、最初白で。あと、グレーも一応用意しといて。新人さんなら白で抜いた方が使いやすいから」


 白で抜く。


 使いやすい。


 商品を作る言葉だった。


 別に悪いことではない。


 宣材写真とは、そういうものだ。


 使いやすい顔。


 覚えやすい顔。


 仕事を取りやすい顔。


 そのために撮る。


 なのに、胸の奥が少しざらつく。


「佐伯くん」


 水野さんに呼ばれる。


 俺は機材バッグを端へ置いた。


「はい」


「向こうのマネージャーさん」


 振り向くと、スーツ姿の女性が立っていた。


 三十代後半くらい。


 髪はひとつにまとめられている。


 表情は柔らかい。


 でも、目はずっと動いている。


 部屋の広さ。


 照明の位置。


 カメラマンの段取り。


 俺と水野さんの距離。


 全部を確認している目だった。


「初めまして。朝比奈の担当をしております、矢崎(やざき)です」


「佐伯です」


 俺は頭を下げる。


 いつもの角度。


 大人に怒られない角度。


 矢崎さんは名刺を出した。


 俺は受け取るだけ受け取った。


 肩書きは、マネージャー。


 芸能事務所の人間。


「先日は現場でお世話になりました。本人が、佐伯さんにはかなり助けていただいたと」


「俺は何もしてません」


 水野さんが横で咳払いした。


 たぶん、嘘をつくなという意味だ。


 矢崎さんは微笑んだ。


「本人も、そういう言い方をされる方だと言っていました」


 澪。


 余計なことを。


「今日は素材確認として、見ていただければ」


「はい」


「ただ、こちらも急ぎでして。放送前に最低限、プロフィール周りを整えたいんです」


「プロフィール」


「はい。これまでの写真が、少し弱くて」


 矢崎さんはタブレットを開いた。


 画面には、朝比奈澪の古い宣材写真が映っていた。


 白いシャツ。


 真っ直ぐな髪。


 ぎこちない笑顔。


 どこにでもいる、女優志望(じょゆうしぼう)の十七歳。


 悪くない。


 悪くないが、何も残らない。


「これだと、今の朝比奈とは少し違うので」


 矢崎さんは言った。


「放送後、もし問い合わせがあった時に、今の空気に合う写真を出したいんです」


 今の空気。


 便利な言葉だ。


 人を包むように見えて、簡単に形を変えさせる言葉。


「今の空気、ですか」


 俺が聞くと、矢崎さんは少しだけ目を細めた。


「はい」


 タブレットをスライドする。


 そこには、簡単なメモが表示されていた。


 売り出し候補。


 プロフィール文案。


 キャッチコピー案。


 俺の視線が、ある一文で止まった。


 ――沈黙で語る、新人女優。


 胃の奥が冷えた。


 水野さんも見た。


 だが、何も言わなかった。


「仮です」


 矢崎さんが言った。


「もちろん、まだ確定ではありません。でも、業界の人に伝わるタグがないと、次に繋がりませんから」


「……タグ、ですか」


「そう」


 矢崎さんは、タブレットの画面を軽く指で叩いた。


「こういう不安定な子は、まず分かりやすい箱に入れてあげないと、誰も怖がって使えないの」


 正しい。


 また正しい。


 正しいことばかりだ。


 正しいから、厄介だ。


 沈黙で語る。


 悪くない。


 むしろ、売り文句としては分かりやすい。


 だが、その瞬間、朝比奈澪の沈黙はタグになる。


 検索用の言葉になる。


 雑誌の隅に載せる紹介文になる。


 彼女があれだけ怖がっていた声も、沈黙も、歪みも、売るための箱に整えられていく。


「佐伯くん」


 水野さんが静かに言った。


 口を出すな、という声だった。


 わかっている。


 わかっているのに、喉が動きかけた。


 だが、その前にスタジオの扉が開いた。


「おはようございます」


 澪の声がした。


 白い部屋の空気が、少しだけ止まる。


 朝比奈澪は、入り口で頭を下げていた。


 私服だった。


 薄い水色のニットに、黒いスカート。


 派手さはない。


 髪はまだセットされていない。


 顔も、ほとんど素のまま。


 メイク前の十七歳。


 昨日まで画面に傷をつけていた少女は、今日は事務所のスタッフに連れられ、白い部屋の前で少し戸惑っていた。


 俺を見つけた瞬間、彼女の目が小さく揺れた。


 安心。


 ではない。


 たぶん、もっと悪い。


 知っている人を見つけてしまった時の、逃げ場みたいな揺れ。


 俺は目を逸らした。


 水野さんの言葉が腹の奥で響く。


 味方の顔をするな。


 敵の顔もするな。


 ただの制作補助。


「朝比奈さん」


 矢崎さんが声をかける。


「おはよう。今日は撮り直しだから、緊張しすぎないでね」


「はい」


「佐伯さんと水野さんは、制作側の確認で来てくださってます」


「……はい」


 澪は俺をもう一度見た。


 俺は軽く頭を下げるだけにした。


「よろしくお願いします」


 澪も頭を下げる。


 角度が深い。


 現場の隅で覚えた、丁寧すぎる角度。


 そのままメイク台へ連れていかれる。


 ヘアメイクの女性が明るく話しかける。


「肌きれいだねえ。緊張してる?」


「はい」


「正直でかわいい」


「すみません」


「謝らなくていいよ」


 その会話を聞きながら、俺は白い背景紙を見る。


 床まで垂れた白。


 踏めば汚れる。


 汚れれば交換される。


 それだけ。


 澪は椅子に座る。


 前髪を整えられる。


 頬に色を足される。


 唇に薄い赤が乗る。


 鏡の中の彼女が、少しずつ知らない人になっていく。


 本人は、その変化に追いついていない。


 目だけが不安そうに残っている。


「朝比奈さん、今日は自然な感じでいこうね」


 カメラマンが言った。


「はい」


「笑顔も撮るし、ちょっと真面目な表情も撮る。あと、目線外したやつも。使いやすいようにいろいろ」


「はい」


「固くならないで大丈夫。宣材だから。芝居じゃないから」


 澪の肩が、ほんの少しだけ強ばった。


 芝居じゃないから。


 その言葉は、たぶん彼女にとって安心ではなかった。


 芝居じゃない。


 役ではない。


 なら、何を出せばいい。


 白い背景紙の前に立たされる。


 台詞はない。


 相手役もいない。


 風も吹かない。


 古いポスターもない。


 ただ、自分の顔だけがある。


「じゃあ、立ってみようか」


「はい」


 澪は白い背景紙の前に立った。


 姿勢はいい。


 やはり、異様にいい。


 巨大な半紙の前で、一本の筆のように立つ。


 だが、その筆は今、どこに線を引けばいいのかわからない。


「まず普通に笑ってみようか」


 カメラマンが言った。


 普通に笑う。


 最も難しい指示だ。


 澪は笑った。


 硬い。


 目が笑っていない。


 口角だけが上がっている。


 古い宣材写真と同じ顔だった。


 いや、前より悪いかもしれない。


 自分がどう見られるかを意識してしまったぶん、笑顔が薄く貼りついている。


「うん、ちょっと緊張してるね。大丈夫、大丈夫」


 カメラマンは慣れている。


 新人をほぐす口調。


「肩抜いて。そうそう。顎少し引いて。目線こっち。はい、笑って」


 シャッター音。


 白い部屋に、乾いた音が落ちる。


 澪は笑う。


 シャッター。


 また笑う。


 シャッター。


 どんどん顔が死んでいく。


 カメラマンは悪くない。


 普通の仕事をしている。


 ヘアメイクも、矢崎さんも、真剣に澪を良く見せようとしている。


 なのに、画面の中の朝比奈澪は、どこにでもいる新人女優になっていった。


 消えていく。


 白の中に。


「佐伯くん」


 水野さんが小さく言った。


「はい」


「顔」


「すみません」


「まだ何もするな」


「してません」


「顔でしてる」


 俺は口を閉じた。


 カメラマンが撮影を続ける。


「じゃあ、今度は少しクールに。笑わないで、まっすぐ」


 澪は真顔になる。


 さっきよりはいい。


 笑っていない分、嘘が減る。


 だが、まだ弱い。


 ただ不安そうな少女だ。


 朝比奈澪の声にあった砂が、写真には写っていない。


 台詞の歪みも、半拍の遅れも、画面を止めた傷も、どこにもない。


「目線、少し外して」


 澪が横を見る。


 撮る。


「もう少し伏せて」


 澪が伏せる。


 撮る。


「いいね。透明感ある」


 透明感。


 便利な言葉だ。


 何も映っていない時にも使える。


 矢崎さんがモニターを覗き込む。


「いいですね。前より大人っぽいです」


「そうですね。使いやすいと思います」


 使いやすい。


 また、その言葉。


 俺は黙っていた。


 水野さんが隣にいる。


 ここで口を出せば、現場から外される。


 宣材撮影は、俺の現場ではない。


 澪の事務所の仕事だ。


 俺はただの制作補助。


 わかっている。


 わかっているのに。


 白い背景紙の前で、澪の顔が少しずつ死んでいく。


 それを見ていると、胸の奥が冷たくなった。


「朝比奈さん、少しだけ笑って」


「はい」


「もうちょっと柔らかく」


「はい」


「うん、いいよ。かわいい」


 かわいい。


 その言葉で、澪の笑顔がさらに薄くなる。


 彼女は、かわいいと言われていい顔ができない。


 ほめ言葉を受け取る場所が、まだ身体の中にない。


 シャッター。


 シャッター。


 シャッター。


 白い部屋に、薄い朝比奈澪が増えていく。


 俺は、気づいたら一歩前に出ていた。


「佐伯くん」


 水野さんの声。


 低い。


 止まれ、という声だった。


 俺は止まった。


 止まった。


 でも、もう遅かった。


 澪がこちらを見た。


 矢崎さんも見る。


 カメラマンも見る。


 水野さんが息を吐く。


 俺は、自分の口が開くのを止められなかった。


「すみません」


 まず、頭を下げた。


 制作補助としての角度で。


 大人に怒られない角度で。


 その姿勢のまま、言った。


「一枚だけ、笑わない写真を撮ってもらえませんか」


 スタジオが静かになった。


 カメラマンが瞬きをする。


「今も真顔、撮りましたよ」


「真顔ではなくて」


 言いながら、自分でも最悪だと思う。


 何をしている。


 ここは俺の現場じゃない。


 水野さんに言われたばかりだ。


 境界線を守れ。


 次に越えたら外す。


 それなのに。


「笑う前の顔です」


 俺は言った。


「笑えと言われて、笑う前に一度だけ迷う顔」


 澪の目が揺れた。


 カメラマンは少し困ったように笑う。


「えっと、それは宣材としては」


「使いにくいと思います」


 俺は言った。


「でも、今の朝比奈さんに一番近いと思います」


 矢崎さんの表情が変わる。


 水野さんは何も言わない。


 沈黙。


 白い背景紙の前で、澪が立っている。


 逃げ場がない。


 俺にも、もうない。


 矢崎さんが、ゆっくり口を開いた。


「佐伯さん」


「はい」


「それは、朝比奈のためですか。作品のためですか」


 鋭い。


 柔らかい声のまま、刃物を出してきた。


 俺は答えられなかった。


 どちらでもない。


 どちらでもある。


 もっと悪い。


 俺が見たいだけだ。


 薄い笑顔に均される前の、朝比奈澪の歪みを。


「……わかりません」


 俺は正直に言った。


「ただ、今の写真だと、どこにでもいる子に見えます」


 矢崎さんの目が冷えた。


 当然だ。


 それは、事務所の仕事に対する否定に近い。


 カメラマンも少しだけ姿勢を変えた。


 空気が悪くなる。


 水野さんが、低く言った。


「佐伯」


 終わった。


 そう思った。


 だが、その前に、澪が口を開いた。


「あの」


 声は小さかった。


 でも、白い部屋に通った。


「私も、今の顔、嫌です」


 全員が澪を見る。


 彼女は背景紙の前で、両手をぎゅっと握っていた。


 爪が手のひらに食い込んでいる。


「すみません」


 反射的に謝る。


 でも、続けた。


「笑えって言われて笑うと、自分がどこにいるのかわからなくなります」


 矢崎さんが眉を動かす。


「澪」


「すみません」


「謝らなくていい。続けて」


 矢崎さんの声は、意外にも静かだった。


 澪は一度、息を吸う。


「前の写真も、同じ顔でした」


 タブレットに映っていた古い宣材。


 澪は、見ていないようで見ていたのだろう。


「笑ってるのに、私じゃない感じがしました」


「宣材は、そういうものでもあるよ」


 矢崎さんが言う。


「見る人に使いやすい形で渡す写真だから」


「はい」


 澪は頷いた。


「でも、私が使いやすくなったら、たぶん誰にも残りません」


 俺の言葉だ。


 いや、少し違う。


 彼女の中で、もう別の線になっている。


「人に嫌われそうなところを、全部隠したら」


 澪は言った。


「何も残らない気がします」


 スタジオの空気が、また変わった。


 カメラマンが、モニターから顔を上げる。


 矢崎さんは、しばらく黙っていた。


 水野さんは俺を見なかった。


 助かったのか。


 いや、違う。


 澪が自分で越えた。


 俺のせいで。


 俺の言葉を持って。


 それが一番まずい。


 矢崎さんが、ゆっくり息を吐く。


「……わかりました」


 彼女はカメラマンを見る。


「数枚だけ、試しましょう」


「了解です」


 カメラマンの声が、少し変わった。


 ただの流れ作業ではなくなった声。


「じゃあ、朝比奈さん」


「はい」


「笑わなくていいです」


 澪の肩が、ほんの少し下りた。


「こっちは何も言わないので、そのまま立っててください」


「はい」


「目線だけ、レンズ。無理なら少し外していいです」


「はい」


 白い背景紙の前で、澪は立つ。


 笑わない。


 作らない。


 ただ、立つ。


 だが、それだけでは足りない。


 まだ、ただの不安な少女だ。


 彼女自身も、たぶんわかっている。


 何を出せばいいのか。


 どう白紙を汚せばいいのか。


 台詞はない。


 声もない。


 沈黙だけ。


 その時、澪の指が動いた。


 右手の人差し指が、ほんの少しだけ空中をなぞる。


 久しぶり。


 元気でね。


 あの線ではない。


 もっと短い。


 たぶん、何も書いていない。


 でも、彼女は自分の中に白紙を置いた。


 スタジオの白より、もっと内側に。


 そして、レンズを見た。


 カメラマンがシャッターを切る。


 一枚。


 音が落ちる。


 澪は動かない。


 もう一枚。


 彼女の目が、少しだけ変わる。


 泣きそうではない。


 怒ってもいない。


 ただ、笑えと言われた自分を、まだ許していない目。


 もう一枚。


 白い背景紙に、細い傷が入ったように見えた。


「……いいね」


 カメラマンが小さく言った。


 さっきまでの明るい「いいね」ではなかった。


 もっと低い。


 思わず漏れた声。


 矢崎さんがモニターを見た。


 俺も見たい。


 だが、近づかなかった。


 水野さんがいる。


 これ以上は駄目だ。


 矢崎さんは長く黙っていた。


 それから、タブレットを持つ手を少しだけ下げた。


「……これは」


 言葉を探している。


 使いやすいか。


 かわいいか。


 透明感か。


 どの箱にも、すぐには入らない顔。


 朝比奈澪が、そこにいた。


「もう少し撮りましょう」


 矢崎さんが言った。


「笑顔はあとでまた撮ります。でも、この路線もください」


「はい」


 カメラマンが頷く。


 澪はレンズの前に立ち続ける。


 笑わない。


 でも、固まってもいない。


 ただの無表情ではない。


 そこには、言えなかった言葉の気配があった。


 撮影が続く。


 シャッター。


 沈黙。


 シャッター。


 沈黙。


 白い部屋に、彼女の声のない写真が増えていく。


 俺は動けなかった。


 声がなくても、残るのか。


 そう思った。


 いや、違う。


 声がないから残るのではない。


 彼女が、声を出す前の場所に立っているから残る。


 その場所を、カメラが拾っている。


「佐伯くん」


 水野さんが小さく言った。


「はい」


「あとで話す」


「はい」


 終わった。


 今度こそ終わった。


 でも、目は澪から離れなかった。


     ◇


 撮影が終わったのは、正午前だった。


 笑顔の写真も撮った。


 真顔も撮った。


 横顔も、目線外しも、白背景も、グレー背景も。


 最後に確認用のモニターに並んだ澪は、何人もの別人みたいだった。


 使いやすい澪。


 かわいい澪。


 透明な澪。


 少し大人っぽい澪。


 そして。


 笑う前の、笑わなかった澪。


 矢崎さんは、その写真の前で少し長く止まった。


「これ、プロフィールの一枚目には難しいですね」


 彼女は言った。


「でも、残します」


 澪が小さく息を吸う。


「いいんですか」


「使いどころは考えます」


 矢崎さんは澪を見る。


「ただ、これを出すなら、発声も滑舌も、表情のコントロールも、今まで以上にやるよ」


「はい」


「写真だけで雰囲気を作って、中身が追いつかないと、すぐに壊れる」


「はい」


「あなたはまだ、かなり危ない」


 澪はまっすぐ聞いていた。


 怖がっている。


 でも、逃げていない。


「やります」


 その声は、小さかった。


 だが、白い部屋の中で消えなかった。


 矢崎さんはうなずき、別のスタッフと打ち合わせを始めるために歩き出した。


 澪は撮影用のメイクを落としに、一人で鏡の向こうへ消えていった。


 白い背景紙の前に、俺と水野さんだけが残った。


「佐伯くん」


「はい」


「外」


「はい」


 短かった。


 俺は従うしかなかった。


 スタジオの外は、狭い非常階段に繋がっていた。


 灰色のコンクリート。


 錆びた手すり。


 少し冷たい風。


 水野さんは扉を閉める。


 白い部屋の明るさが、一気に遠ざかった。


「何回言えばわかる?」


 水野さんの声は低かった。


「すみません」


「謝れとは言ってない」


「はい」


「君は今日、何の立場でここにいた?」


 1話と同じ質問。


 逃げられない。


「制作補助です」


「そうだよな」


「はい」


「じゃあ、なぜ口を出した」


 答えは、いくつかあった。


 澪の顔が死んでいたから。


 宣材が薄かったから。


 今の彼女に近い写真が必要だと思ったから。


 事務所がつけようとしていたタグが嫌だったから。


 全部、言い訳だ。


「見たかったからです」


 俺は言った。


 水野さんが黙る。


「あの白い場所で、朝比奈さんがどう残るのかを」


「最悪だな」


「はい」


「わかってるなら、もっと悪い」


「はい」


 水野さんは手すりに背中を預けた。


「佐伯くん」


「はい」


「あの子を、君のやり直しにするな」


 胸の奥を、冷たいものが刺した。


「……はい」


「君が昔壊されたから、あの子は壊さない。そういう話にするな」


「はい」


「それは優しさに見えるけど、ただの乗っ取りだ」


 何も言えなかった。


 手すりを握る自分の指先を見る。


 大人たちの望む完璧な涙を流し、天才と持て囃されていた頃の、あの気持ち悪い手付きの感覚が、一瞬だけ掌に蘇って消えた。


 風が手すりの隙間を抜ける。


 白い部屋の中から、遠くスタッフの笑い声が聞こえる。


「ただ」


 水野さんが続けた。


「今日の写真は、たぶん使える」


「はい」


「だから余計に腹が立つ」


「すみません」


「謝るな」


 水野さんは、深く息を吐いた。


「次はない」


「はい」


「本当に、次はない」


「はい」


「君を外すのは簡単だ。朝比奈さんをうちの現場から切るよりずっと簡単だ」


「……はい」


「それを忘れるな」


 厳しい。


 冷たい。


 でも、必要だった。


 俺は頭を下げた。


「戻れ」


「はい」


 非常階段の扉を開ける。


 白い部屋の光が戻る。


 眩しかった。


     ◇


 澪は、メイクを落とし終えていた。


 薄い水色のニットに戻っている。


 顔も、ほとんど素に戻っていた。


 けれど、撮影前とは少し違う。


 目が疲れている。


 そして、少しだけ汚れている。


 白い背景紙の前で、何かを置いてきた人間の目だった。


 俺が近づく前に、澪の方からこちらへ来た。


「佐伯さん」


「はい」


「怒られましたか」


「かなり」


「すみません」


「あなたが謝ることではありません」


「でも、私が言ったから」


「違います」


 俺は遮った。


「俺が勝手に越えただけです」


 澪は黙る。


 その顔が、何かを受け取ろうとしていた。


 俺の言葉を。


 また。


 だから、すぐに切った。


「今日の写真について、俺に聞かないでください」


 澪が瞬きをする。


「え」


「良かったかどうかも、正しいかどうかも、聞かないでください」


「……はい」


「俺が答えると、あなたはその写真を俺の答えで見ます」


 澪は視線を落とした。


「そうかもしれません」


「だから、事務所の人と見てください」


「佐伯さんは」


「見ません」


 嘘だ。


 本当は見たい。


 見たいに決まっている。


 でも、今日は言ってはいけない。


 これ以上、彼女の白紙に俺の線を引いてはいけない。


「わかりました」


 澪は小さく頷いた。


 それから、少しだけ黙る。


「でも」


「はい」


「笑わない写真、撮れてよかったです」


 その声は、柔らかくなかった。


 嬉しそうでもなかった。


 でも、まっすぐだった。


「笑ってる写真も、必要なんだと思います」


「はい」


「使いやすい写真も、たぶん必要です」


「はい」


「でも、それだけだったら、私、また自分がどこにいるのかわからなくなってました」


 澪は白い背景紙を見る。


「だから、よかったです」


 俺は何も言わなかった。


 褒めるな。


 導くな。


 名前をつけるな。


 沈黙だけを置く。


 澪は俺を見る。


「佐伯さん」


「はい」


「私、今日、少しだけ嫌なことを思いました」


「何ですか」


 聞くべきではなかったかもしれない。


 でも、聞いてしまった。


 澪は、白い部屋の端に置かれたモニターを見た。


 そこにはまだ、何枚かの撮影データが並んでいる。


「笑ってる私より、笑わなかった私の方が、残ればいいのにって」


 声は小さかった。


「それは、たぶん嫌なことですよね」


 俺は答えなかった。


 嫌なことだ。


 でも、表現する人間にとっては、かなり普通のことだ。


 自分の綺麗な部分より、歪な部分が残ることを願ってしまう。


 人に好かれる顔より、人に刺さる顔を選んでしまう。


 その欲は、危ない。


 そして、たぶん必要だ。


「自分で決めてください」


 俺は言った。


「あなたの顔です」


 澪は少しだけ目を見開いた。


 たぶん、昨日のメッセージを思い出したのだろう。


 あなたの声です。


 今度は、顔。


 彼女は小さく頷いた。


「はい」


 矢崎さんが澪を呼ぶ。


「澪、最後に確認して帰るよ」


「はい」


 澪は俺に頭を下げた。


 深すぎない角度だった。


 少しだけ変わった。


 彼女は矢崎さんの元へ戻っていく。


 モニターの前で、二人が写真を見る。


 矢崎さんが何かを説明している。


 澪は真剣に聞いている。


 時々、首を横に振る。


 時々、頷く。


 自分の顔を、自分で見ている。


 怖がりながら。


 逃げずに。


 俺は、それ以上見ないようにした。


 見れば、また何かを言いたくなる。


 だから機材バッグを持ち上げる。


 ただの制作補助として。


 せめて今だけでも。


     ◇


 夕方、制作会社に戻ると、俺の机の上に茶色い封筒が置かれていた。


 中には、白瀬玲奈の新しい宣材写真。


 目線は強い。


 口元は柔らかい。


 明るいのに、軽くない。


 綺麗なのに、怖さがある。


 プロが、本気で更新した顔。


 裏に、付箋が貼られていた。


『玲奈ちゃんも撮り直した。向こうも早い』


 水野さんの字だった。


 俺は写真を机に置いた。


 朝比奈澪が、白い背景紙の前で笑わなかった日。


 白瀬玲奈も、どこか別の白い場所で自分を撮り直していた。


 小さな二言から始まった線が、俺の知らないところで、もう別の紙を汚し始めている。


 スマホが震えた。


 水野さんからだった。


『明日、朝比奈さんの事務所と打ち合わせ。お前は来なくていい』


 俺は画面を見た。


 来なくていい。


 つまり、外された。


 当然だ。


 今日、越えた。


 越えた以上、こうなる。


 それでいい。


 これが正しい。


 なのに、喉の奥が少しだけ乾いた。


 彼女がどう売られようとしているのか。


 どんなタグをつけられ、どこで傷つき、どこで抵抗するのか。


 見たい。


 スマホの画面を消した。


 暗転したガラスの中に、自分の顔が映る。


 それは、あの白い部屋の真ん中で、どうしても笑うことができなかった朝比奈澪の顔と、ひどく似ている気がした。


 俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


 廊下の向こうから、別の班のスタッフの乾いた笑い声が薄く聞こえてくる。


 明日、俺のいない場所で。


 あの子に、最初の商品名がつけられる。

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