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台詞を忘れた三秒間、彼女は誰よりも女優だった 〜棒読みと笑われた新人女優を、元天才子役の俺だけが見抜いていた〜  作者: うなぎ太郎


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6/16

編集室で、彼女はまだ震えている

 撮影(さつえい)が終わってから、三日が()った。


 朝比奈澪(あさひなみお)は、現場(げんば)に来なかった。


 当然だ。


 彼女の出番は終わっている。


 第四話の回想(かいそう)シーン。


 台詞(せりふ)は二つ。


 久しぶり。


 元気でね。


 それだけ。


 普通なら、一日で終わる仕事だ。


 役名もない。


 相関図(そうかんず)にも載らない。


 予告に使われるかもわからない。


 放送されても、視聴者のほとんどは彼女の名前を知らないまま通り過ぎる。


 それでいい。


 それが、あの役の大きさだった。


 なのに。


佐伯(さえき)くん」


 午後六時過ぎ。


 第三編集室の扉から、水野(みずの)さんが顔を出した。


「はい」


「暇?」


雑用(ざつよう)に暇という概念(がいねん)はありません」


「じゃあ、暇だな」


「判断が雑です」


「編集室、来て」


 嫌な予感がした。


 水野さんが俺を呼ぶ時は、だいたいろくなことがない。


 怒られるか、使われるか、見たくないものを見せられるか。


 そのどれかだ。


「俺、今から台本のコピーを」


「あとでいい」


「飲み物の補充も」


「あとでいい」


「つまり」


「来い」


「はい」


 俺はコピー用紙の束を机に置き、編集室へ向かった。


 廊下はいつも通り安っぽい。


 白い壁。

 黒ずんだ床。

 蛍光灯(けいこうとう)の光。

 どこからか聞こえるスタッフの笑い声。


 華やかな芸能界なんて、たぶんどこにもない。


 少なくとも、この制作会社にはない。


 あるのは、締切(しめきり)と、眠気と、安いコーヒーと、誰かの感情を切り貼りする作業だけだ。


 編集室の中は暗かった。


 モニターの光だけが、部屋の中央に浮いている。


 水野さんのほかに、編集担当の梶原(かじわら)さんがいた。


 四十代半ば。


 無精ひげ。


 パーカー。


 眠そうな目。


 けれど、モニターを見る時だけは異様に鋭い。


 映像を切る人間の目だ。


 人の呼吸(こきゅう)を、フレーム単位で殺したり生かしたりする目。


「佐伯くん、そこ座って」


 水野さんが、後ろの丸椅子を顎で示した。


「俺がいても邪魔では」


「邪魔なら呼ばない」


「呼ぶ時はだいたい邪魔な仕事も混ざってますけど」


「今回は見るだけ」


 見るだけ。


 その言葉が、一番信用できない。


 俺は黙って椅子に座った。


 モニターには、駅前の撮影素材(さつえいそざい)が映っていた。


 桐谷廉(きりたにれん)が歩いてくる。


 朝比奈澪が振り返る。


 白瀬玲奈(しらせれな)はいない。


 あの場にはいたが、この画面(がめん)の中にはいない。


 画面には、桐谷と澪だけがいる。


 俺は喉の奥が少し乾くのを感じた。


 嫌な感覚だった。


「何度見ても、変なんだよな」


 梶原さんが言った。


「何がですか」


 水野さんが聞く。


「この子」


 梶原さんはマウスを少し動かした。


 画面が止まる。


 澪が、桐谷を見る直前のフレーム。


 顔はほとんど映っていない。


 画面の端。


 主役ではない。


 それなのに、視線(しせん)がそこへ吸われる。


「下手でしょ」


 梶原さんは遠慮なく言った。


「声も細い。表情も硬い。カメラ慣れしてない。普通なら切る」


「はい」


「なのに、切ると画面が軽くなる」


 水野さんは笑わなかった。


「そこなんですよ」


「面倒な素材持ってきたねえ」


 梶原さんは、半分だけ楽しそうに言った。


 面倒。


 水野さんも同じことを言っていた。


 本番で一番面倒なことするな。


 そう言った時の顔を思い出す。


 腹が立つような、嬉しいような、困ったような顔。


 俺はモニターを見た。


 朝比奈澪が、画面の端にいる。


 まだ何もしていない。


 ただ立っているだけ。


 それだけなのに、すでに画面の温度が少し下がっている。


 嫌なやつだ。


 彼女は、そこにいるだけで予定を狂わせる。


「まず、予定通りの短尺版(たんじゃくばん)


 梶原さんが再生した。


 桐谷が歩く。


 澪とすれ違う。


「……朝比奈?」


「……久しぶり」


「元気だった?」


「うん」


「俺、あの時――」


「……元気でね」


 そのまま、すぐ次のカットへ。


 主人公の現在の場面に戻る。


 回想は短く、淡く、綺麗に終わった。


 悪くない。


 普通に見れば、十分だ。


 深夜ドラマの一場面として、きれいに収まっている。


 名前のない元同級生。


 主人公の過去に少しだけ影を落とす少女。


 役割は果たしている。


「これが台本通り」


 梶原さんが言った。


「問題はない」


「はい」


「でも、つまらない」


 ばっさりだった。


 水野さんが小さく笑う。


「じゃあ、長尺版(ちょうじゃくばん)


 次に再生されたのは、カットを遅らせた版だった。


 澪の「元気でね」のあと、すぐには切らない。


 桐谷が黙る。


 澪も黙る。


 通行人(つうこうにん)が後ろを通る。


 駅のアナウンスが薄く入る。


 澪が一度だけ、目を逸らす。


 逃げた。


 でも、逃げる前にちゃんと見た。


 その一度が残っている。


 俺は無意識に、息を止めた。


 現場で見た時と同じだった。


 いや、モニターで見ると、もっと嫌だった。


 現場では雑音があった。


 スタッフがいた。


 風があった。


 機材(きざい)があった。


 自分の仕事があった。


 だが、編集室では逃げ場がない。


 暗い部屋の中で、画面だけが光っている。


 朝比奈澪の下手な声が、スピーカーからもう一度落ちる。


 ……元気でね。


 小さい。


 不安定。


 でも、残る。


 俺の頭の奥に、破れかけた紙片の「ね」の線が浮かんだ。


 違う。


 今日の声は、あの紙片とは違う。


 でも、同じ場所を傷つけてくる。


「こっちは長い」


 梶原さんが言った。


「尺としては邪魔」


「はい」


「でも、主人公が過去に何を置いてきたのかが見える」


 水野さんは腕を組んでいた。


「桐谷の受けがいいんですよね」


「うん。あれは良い。相手の芝居で一瞬だけ、芝居を忘れてる」


 梶原さんが、桐谷の表情で止める。


 ほんの一瞬。


 目が変わっている。


 役として正しい、というより、人として反応してしまった目。


「桐谷くん、上手いから普通は崩れないんだけどね。崩された」


「朝比奈さんに」


「正確には、朝比奈さんの下手さに」


 梶原さんは悪びれずに言った。


「上手い子なら、たぶんこうはならない。綺麗に受けて、綺麗に流れる。けど、この子の声は引っかかる。砂が混ざってる」


 砂。


 それは、たぶんかなり正しい。


 澪の声は水ではない。


 滑らかに流れない。


 きれいに()みない。


 舌の奥に残る。


 食べてはいけない砂みたいに。


「佐伯くん」


 水野さんが言った。


「はい」


「どう思う」


 来ると思った。


 俺はモニターから目を離さなかった。


「長尺版の方が、(きず)は残ります」


「傷」


「はい」


「ドラマとしては?」


「危ないです」


「どう危ない」


「回想の少女が、主人公の過去を食いすぎます」


 梶原さんが「へえ」と小さく言った。


 俺は続けた。


「本来は、主人公の感情を補助するための回想です。でも、長く残すと、朝比奈さん側の感情が見えすぎる。主人公の話なのに、画面が一瞬だけ彼女のものになる」


「駄目?」


「普通は駄目です」


「普通は?」


 水野さんは面白がるような顔をした。


 嫌な人だ。


「でも、今回はそれで主人公の薄さが消えます」


 俺は言った。


「桐谷さんの受けが変わるから。主人公がただ過去を思い出してるんじゃなくて、取り返しのつかないものに一瞬触ってしまったように見える」


 水野さんは何も言わない。


 梶原さんも黙っている。


「だから、長尺版の方がたぶん強いです」


「たぶん」


「はい」


「ただし?」


「朝比奈さんが目立ちます」


「悪い?」


「悪いです」


 水野さんの眉が少し動いた。


「新人の役名なしが、そこだけ画面を持っていく。連ドラのバランスとしては危ないです。あと、白瀬さんのシーンとの接続も少し変わる」


「玲奈ちゃんが薄くなる?」


「薄くはなりません。でも、意味が変わります」


 白瀬玲奈は上手い。


 完成されている。


 声も、立ち方も、間も、すでに商品として整っている。


 だからこそ、澪の(いびつ)な二言のあとに玲奈を見ると、ただの上手さだけでは流せなくなる。


 比較が起きる。


 視聴者が気づくかどうかはわからない。


 だが、画面は気づいてしまっている。


「白瀬さんが、きれいすぎて少し怖く見えます」


 俺は言った。


「朝比奈さんのあとだと」


 水野さんは、そこで初めて笑った。


「本人が聞いたら怒るぞ」


「言わないでください」


「言わないよ」


 梶原さんがもう一度再生する。


 短尺版。


 長尺版。


 もう一度、短尺版。


 もう一度、長尺版。


 同じ二言を何度も聞く。


 久しぶり。


 元気でね。


 そのたびに、画面の澪の喉元が、フレーム単位で切り刻まれていくように見えた。


 現場で一度しか落とされなかった墨を、俺たちは何度も巻き戻す。


 どの(にじ)みを残すか。


 どの震えを切るか。


 どの沈黙なら、商品として耐えられるか。


 梶原さんの指は迷わない。


 水野さんの目も迷わない。


 俺だけが、吐き気を覚えたふりをしながら、その冷酷な指先の動きに、誰よりも正確な点数をつけていた。


 最低だ。


「佐伯くん」


 水野さんが言った。


「はい」


「今、嫌な顔したな」


「元からです」


「その逃げ方、朝比奈さんに似てきたな」


「やめてください」


「嫌か」


「嫌です」


「じゃあ、当たりだ」


 水野さんはモニターへ視線を戻した。


「長尺でいく」


 梶原さんが頷く。


「了解」


 あっさり決まった。


 たったそれだけ。


 だが、その一言で、朝比奈澪の出番が少し伸びた。


 数秒。


 たぶん、視聴者の多くは気づかない。


 でも、画面の意味は変わる。


「朝比奈さんには?」


 俺が聞くと、水野さんは首を振った。


「まだ言わない」


「どうしてですか」


「言うと固まる」


 それは正しい。


 嫌になるくらい。


「放送見て気づくくらいでいい」


「気づきますかね」


「あの子は気づくよ」


 水野さんは言った。


「自分の声がどこまで残されたか、たぶん気持ち悪いくらい見る」


 俺は何も言えなかった。


 たぶん、その通りだった。


 澪は見る。


 何度も見る。


 怖がりながら。


 気持ち悪がりながら。


 それでも、残っていることを確かめる。


 あの子はもう、そういう場所に片足を入れてしまった。


「佐伯くん」


「はい」


「この素材、外に漏らすなよ」


「漏らしません」


「あと、朝比奈さんに余計なこと言うな」


「言いません」


「本当に?」


「信用ないですね」


「ない」


 即答だった。


「君は、黙るべきところで黙れるけど、壊すべきところで壊すから信用できない」


「ひどい評価ですね」


「褒めてる」


「褒めてません」


「褒めてないな」


 水野さんは立ち上がった。


「梶原さん、そこ長尺で仮組みお願いします」


「はいよ」


 編集室のモニターで、もう一度澪が振り返る。


 俺はそれを最後まで見ないまま、部屋を出た。


 見続けたら、また何かを持ち帰ってしまう気がした。


 廊下に出ると、蛍光灯が妙に明るかった。


 現実の光。


 安い光。


 それなのに、さっきの暗い編集室よりずっと薄っぺらく見えた。


 嫌になる。


 画面の中の方が、現実より濃く見える時がある。


 それを知ってしまうと、人は現場から逃げられなくなる。


 俺はそれを知っている。


 知っているから、逃げた。


 逃げたはずだった。


 スマホが震えたのは、その時だった。


 画面を見る。


 知らない番号ではない。


 制作会社の共用連絡で、数日前に登録された名前。


 朝比奈澪。


 メッセージだった。


『お疲れ様です。今、大丈夫ですか』


 俺は立ち止まった。


 廊下の真ん中で。


 返信するべきではない。


 少なくとも、すぐに返すべきではない。


 仕事中だ。


 相手は外部事務所の十七歳の新人。


 俺は制作補助(せいさくほじょ)


 距離を間違えるな。


 そう思った。


 思ったのに、指は勝手に動いた。


『仕事中です。短くなら』


 送ってから、自分で嫌になった。


 すぐに返事が来る。


『すみません。短くします』


 短くします、と言いながら、次のメッセージまで少し間が空いた。


 たぶん、何度も打っては消している。


 澪らしい。


 そう思ってしまったことが、また嫌だった。


『私の声って、変ですか』


 廊下の音が遠くなる。


 なんだ、それは。


 よりによって今、編集室で彼女の声を何度も聞いた直後に。


 俺はスマホを見つめた。


 返答を間違えれば、刺さる。


 だが、優しくしても刺さる。


 慰めても、嘘になる。


 事実だけでも、刃物になる。


 俺は短く打った。


『変です』


 送った。


 すぐに既読がつく。


 返事は来ない。


 やったか。


 傷つけたか。


 いや、傷つけるつもりで打ったのだから、今さら何を言っている。


 少しして、またメッセージ。


『やっぱり』


 そこで終わると思った。


 終わらなかった。


『変なのは、直した方がいいですか』


 俺は廊下の壁にもたれた。


 編集室では、彼女の変な声が使われることになった。


 だが、それは変なままでいいという意味ではない。


 水野さんも言った。


 発声(はっせい)をやれ。


 滑舌(かつぜつ)をやれ。


 今のままだと普通に事故る。


 その通りだ。


 澪の声は、危うい。


 武器にもなるが、自分の首も切る。


 俺は返信した。


『直すところと、残すところがあります』


 少し間。


『どこを残せばいいですか』


 来た。


 危ない質問だった。


 答えを求めている。


 俺の目を求めている。


 ここで答えれば、また俺が正解になる。


 それは駄目だ。


 わかっている。


 だが、何も答えなければ、彼女は一人で自分の声を全部嫌いになるかもしれない。


 それも違う。


 俺はしばらく考えた。


 考えすぎるな。


 上手い言葉を選ぼうとするな。


 そう思いながら、結局、最低限の刃物を選ぶ。


『人に嫌われそうなところです』


 既読。


 長い沈黙。


 スマホの画面を消そうとした時、返事が来た。


『それ、残していいんですか』


 俺は指を止めた。


 正解を渡すな。


 でも、逃げるな。


 彼女の声を、俺のものにするな。


 俺は短く打った。


『自分で決めてください。あなたの声です』


 送信。


 また、沈黙。


 画面の中の小さな既読だけが残る。


 やがて、返事が来た。


『怖いです』


 またか。


 怖い。


 彼女はいつもそこへ戻る。


 でも、今回はもう逃げるための言葉には見えなかった。


 怖さを確認するための言葉だった。


 俺は打った。


『見なくてもいいです』


 これは本心だった。


 見ない自由もある。


 自分の傷をすぐに確認しなくてもいい。


 けれど、返事は早かった。


『見ます』


 短い。


 迷いがない。


『怖いけど、見ます』


 俺は返信できなかった。


 澪から、もう一通来た。


『残ってたら、気持ち悪いと思います』


 続けて。


『でも、残ってなかったら、もっと嫌だと思います』


 俺の指が止まった。


 同じだった。


 俺が昔、言葉にできなかった感覚。


 映るのは嫌だ。


 でも、映らないのはもっと怖い。


 残るのは気持ち悪い。


 でも、消されるのは、もっと痛い。


 彼女はもう、その場所にいる。


 俺が逃げた場所に。


 俺は短く打った。


『それは、かなり危険です』


 返事。


『はい』


 また少し間。


『でも、少しだけ嬉しいです』


 俺は目を閉じた。


 やめろ。


 そう思った。


 その嬉しさは、危ない。


 嫌われる可能性まで含めて、残ることが嬉しい。


 それはもう、戻れない場所の感情だ。


『寝てください』


 俺は打った。


 ひどい逃げ方だった。


 澪から返事が来る。


『はい』


 少し間。


『おやすみなさい』


 まだ夜ではない。


 けれど、俺は返した。


『おやすみなさい』


 送信してから、スマホをポケットにしまう。


 廊下に、音が戻った。


 遠くでコピー機が紙を吐き出す音。


 誰かが笑う声。


 蛍光灯の低い唸り。


 編集室の扉の向こうでは、まだ梶原さんが素材を巻き戻している。


 ――久しぶり。


 ――元気でね。


 澪の声だけが、何度も暗い部屋から漏れていた。


「佐伯」


 背後から声がした。


 振り向くと、水野さんが立っていた。


 いつからいた。


 最悪だ。


「仕事中に女子高生とメッセージか」


「言い方」


「事実だろ」


「制作連絡です」


「へえ」


 水野さんは信じていない顔だった。


「余計なこと言うなって言ったばかりだよね」


「言ってません」


「何を」


「余計なことは」


「じゃあ何を言った」


「声が変だと」


 水野さんは数秒黙った。


 それから、深いため息をついた。


「君さあ」


「はい」


「普通、十七歳の新人にそれ言う?」


「聞かれたので」


「聞かれたら刺すな」


「刺さない嘘よりは」


「その考え方が一番危ないんだよ」


 反論できなかった。


 水野さんは廊下の壁に背中を預ける。


「で、朝比奈さんは?」


「たぶん、大丈夫です」


「そのたぶん、信用できる?」


「五分です」


「低いな」


「高い方です」


 水野さんは少しだけ笑った。


 だが、すぐにその笑いは消えた。


「まあ、いい。あの子、事務所から連絡あったよ」


「事務所?」


「放送前に、宣材写真を撮り直したいらしい」


「もうですか」


「正確には、仮で。今回の役がどれくらい残るかわからないけど、準備はしておきたいって」


 早い。


 芸能の世界は、こういうところが早い。


 誰かが少しでも映る。


 使えそうだと思われる。


 すると、すぐに次の準備が始まる。


 プロフィール。

 宣材(せんざい)

 レッスン。

 売り出し文句。

 紹介文。


 「沈黙が魅力の新人女優」。


 そんな雑なタグが、もうどこかで作られかけているかもしれない。


 胸の奥がざらついた。


「嫌そうだな」


 水野さんが言った。


「嫌です」


「なぜ」


「早すぎます」


「芸能は早いよ」


「はい」


「遅いと忘れられる」


「はい」


「でも、早すぎると壊れる」


 水野さんは、あっさり言った。


「朝比奈さんは、特に」


 俺は黙った。


「だから、君には言っておく」


「俺に?」


「事務所が、たぶん君に接触してくる」


「なぜですか」


「あの子が、君の名前を出したから」


 頭が痛くなった。


「何で」


「知らん。信頼してるんじゃない?」


「それが危ないんです」


「知ってる」


 水野さんは少しだけ声を低くした。


「佐伯くん」


「はい」


「君はあの子のマネージャーじゃない。演出家でもない。先生でもない」


「はい」


「ただの制作補助だ」


「はい」


「その境界線は、守れ」


 強い声だった。


 1話で、機材置き場で詰められた時と同じ声。


 君は今日、何の立場でここにいる。


 雑用だ。


 あの時の声が、また腹に落ちる。


「わかってます」


「本当にわかってるならいい」


 水野さんは俺を見た。


 面白がる目ではなかった。


 値踏みする目でもない。


 ただ、現場から人間を外す時の目だった。


「次に勝手に越えたら、本当に現場から外す」


 俺は黙った。


「君の目が使えるかどうかと、君がここにいていいかどうかは別だ」


「……はい」


「仕事に戻れ」


「はい」


 水野さんは編集室へ戻っていった。


 廊下に、一人残される。


 勝手に越えるな。


 境界線を守れ。


 ただの制作補助。


 ただの雑用。


 その言葉は正しい。


 正しすぎて、息が詰まる。


 スマホが、もう一度震えた。


 澪からだった。


『すみません。最後にひとつだけ』


 俺は嫌な予感がした。


『さっきの、人に嫌われそうなところを残すって言葉』


 はい。


『でも、それを残したら、本当に嫌われますよね』


 俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 嫌われる。


 当たり前だ。


 画面に残るというのは、好かれることだけじゃない。


 嫌われることも残る。


 下手だと言われる。


 棒読みだと言われる。


 変だと言われる。


 何あの子、と笑われる。


 気持ち悪い、と書かれるかもしれない。


 才能がある、と持ち上げられるかもしれない。


 どちらも同じくらい危ない。


 さっき、水野さんは言った。


 次に勝手に越えたら、本当に現場から外す。


 俺はスマホを握ったまま、廊下の白い壁を見た。


 返すな。


 越えるな。


 彼女自身に決めさせろ。


 そう思った。


 思ったのに、指は動いた。


『嫌われます』


 送信。


 既読。


 すぐに返事は来ない。


 俺は、廊下の白い壁を見つめたまま、また指を動かした。


『実を言うと、編集室であなたの長尺版が選ばれました。だからあなたの変な声は、カットされずにそのまま電波に乗ります』


 そんな、水野さんの望む正しい制作連絡は、どうしても打てなかった。


 俺が打ったのは、別の言葉だった。


『でも、誰にも嫌われない声は、たぶん誰にも残りません』


 境界線を踏み越える、確信犯的な一歩だった。


 しばらくして、返事が来た。


『怖いです』


 続けて。


『でも、少しだけ嬉しいです』


 俺はスマホをポケットに放り込み、冷たい壁に額をつけた。


 やめろ、と思った。


 嫌われる可能性まで含めて、残ることを喜ぶな。


 それはもう、俺が昔、逃げ出したあの地獄の入口だ。


 廊下の蛍光灯が、安っぽくブーンと鳴っている。


 編集室の扉の向こうからは、梶原さんが何度も巻き戻す、澪の二言がまだ微かに漏れ聞こえていた。


 ――久しぶり。


 ――元気でね。


 小さくて、下手で、変な声。


 人に嫌われそうな声。


 でも、残る声。


 安全な雑用の場所は、まだここにある。


 コピー機もある。


 台本の束もある。


 飲み物の補充もある。


 いくらでも逃げられる。


 でも、もう逃げ場所の壁には、細い線が入っていた。


 朝比奈澪の声で。


 俺自身の手で。


 その線は、編集で切れない場所にまで、もう届いていた。


 ――だが、本当の地獄はここからだ。


 編集室の中で、身内に切り刻まれているうちは、まだいい。


 そこには水野さんがいる。


 梶原さんがいる。


 切る人間がいる。


 残す人間がいる。


 少なくとも、誰かが責任を持って、彼女の声に触っている。


 だが、放送されれば違う。


 あの声は、電波に乗る。


 名前も知らない誰かの部屋に流れ込む。


 スマホの小さな画面に切り取られる。


 褒められるかもしれない。


 笑われるかもしれない。


 気持ち悪いと書かれるかもしれない。


 棒読みと切り捨てられるかもしれない。


 それでも、誰か一人の喉元に、砂みたいに残るかもしれない。


 何十万という、顔も名前もない白紙の前に、あの歪な線が晒される。


 その白紙の群れが、朝比奈澪の声をどう汚すのか。


 それとも、何も残さず飲み込むのか。


 そして水野さんの言う通り、俺のこの腐った目が、あの子より先に壊れるのか。


 最悪だ。


 その底知れない夜の始まりを前に、ポケットの中のスマホは、次の劇薬を待つように冷たく静まり返っていた。

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