薫風の道標
薫風の道標
障子から差し込む光が、いつの間にか鋭さを増している。朝のうちはまだ涼やかだった風も、正午を過ぎる頃には肌をなでるたびに汗を呼び起こすような、ねっとりとした熱を帯び始めていた。
「ほら、お父さん。またそんなところで居眠りして。風邪をひきますよ」
娘の真由美の声が、台所から小気味よい包丁の音とともに響いてくる。トントントン、と規則正しく刻まれているのは、おそらくみずみずしい夏野菜だろう。
ソファーでうつらうつらとしていた清治は、薄目をあけて、大きく伸びをした。
「いや、眠っていたわけじゃない。風の音を聞いていたんだ。もうすっかり**薫風**だな。いや、**風薫る**というほうが、今の気分にはしっくりくるか」
清治は老眼鏡を外し、代わりにちゃぶ台の上に置かれていた黒い**サングラス**を手に取った。最近、白内障の手術をしたばかりの清治にとって、五月の強い光は目に刺さるように痛い。遮光レンズの向こう側は、少しだけ夜のように静かで、落ち着いた世界に変わる。
「何が風薫るですか。もうすっかり**夏めく**季節ですよ。ほら、見てください、これ」
真由美が台所から小皿を持って居間にやってきた。皿の上には、まだ湯気を立てている小振りのじゃがいもが転がっている。
「今年の一番手。**新馬鈴薯**ですよ。市場で安く手に入ったんです。塩を少しつけて食べてみてください」
清治は指先で熱い芋をつまみ、口に運んだ。ほくほくとした食感のあとに、土の力強い香りと、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がる。
「うまいな。皮が薄くて、大地の味がする」
「でしょう? 初夏の味です。そういえばお父さん、今日はお祭りですよ。外からお囃子の音が聞こえませんか」
言われて耳を澄ますと、遠くのほうから微かに、ドンコドンコという太鼓の音と、ピーヒャラという笛の音が風に乗って流れてきた。
「ああ、**祭**か。もうそんな時期だったか」
「そうですよ。今日は五月二十日。一年が経つのは本当に早いものです。外の空気を吸いに行きませんか。ずっと家にこもっていると、体がなまっちゃいますよ」
真由美に促され、清治は腰を上げた。
玄関を出ると、まぶしい光がサングラスの脇から容赦なくこぼれてきた。五月だというのに、肌にまとわりつく空気は**薄暑**そのものである。歩くたびに、生い茂った木々の**若葉**が青臭い香りを放ち、鼻腔をくすぐった。
「お父さん、足元に気をつけて。このあたりは**竹落葉**がひどいから、滑りやすいですよ」
真由美の言う通り、竹林の脇を通ると、黄色く乾いた古い竹の葉が地面を埋め尽くしていた。カサカサと乾いた音を立ててそれを踏みしめながら、二人は川沿いの遊歩道へと向かう。
視界が開けると、目の前には黄金色の絨毯が広がっていた。初夏に収穫を迎える麦の畑だ。
「きれいね。まさに**麦の秋**だわ」
真由美が歓声をあげる。麦の穂が黄金色に実り、さらさらと音を立てて風に揺れている。その風景を見つめていると、清治の心には、懐かしさと同時に、どこか寂しげな感情が去来した。
「ああ、麦の秋だな。実りの季節だ。だが、この季節になると思い出すよ。あの**コロナ**の騒動が始まった頃の、重苦しい静けさをな」
「あんなこともありましたね。あの時は、お祭りも全部中止になって、街から音が消えたみたいでした」
「そうだ。みんながマスクをして、お互いの顔も見ずに下を向いて歩いていた。あの数年間は、本当に長かった」
「でも、今はこうしてお祭りも戻ってきたし、みんな笑顔ですよ。お父さん、ほら、川を見て」
真由美が指さした先、きらきらと輝く川面に、一羽の鳥がじっとたたずんでいた。
「**白鷺**だな」
清治はサングラスを少しずらして、その姿を凝視した。濁りのない真っ白な羽が、強い日差しを浴びて神々しいほどに輝いている。白鷺は一本の足で器用に立ち、水面をじっと見つめていた。その凛とした姿は、どんな困難な時代が来ようとも変わらない、自然の強さを物語っているようだった。
「あそこには鴨もいますよ。でも、なんだか様子が変ね。今の季節に鴨なんていたかしら」
「あれは**通し鴨**だろう。渡り鳥なのに、北へ帰らずにこの土地に居着いてしまった鴨だ。よほどこの川が気に入ったんだろうな」
「居残り組ですか。なんだか、我が家のお父さんみたい。家が大好きで、どこにも行きたがらないところなんて、そっくり」
「うるさいな。私は行くべきところがないだけだ」
清治は苦笑しながら、またサングラスをかけ直した。
川沿いから少し離れ、二人は近所の古い寺の境内へと足を向けた。この寺の庭園は、季節ごとに美しい花を咲かせることで知られている。
山門をくぐると、目の前に鮮やかな色彩が飛び込んできた。
「うわあ、すごい! お父さん、見てください。**牡丹**が見事ですよ」
大輪の牡丹の花が、誇らしげに胸を張って咲き誇っていた。ピンクや白の花びらが幾重にも重なり、ずっしりとした重みを感じさせる。その中でも一際目を引くのが、深い紅色の花だった。
「あれは**緋牡丹**だな。燃えるような赤だ」
清治はその艶やかな色に、しばらく目を奪われた。まるで命の炎をそのまま形にしたかのような強烈な赤である。花の香りが、むっとするような熱気とともに漂ってくる。
「きれいだけど、どこか儚いわね。牡丹って、咲くとすぐに散ってしまうから」
「だからこそ、今この瞬間が美しいんだ。人間も同じさ。全盛期は短い。だから精一杯、色を放たなきゃいかん」
「もう、お父さんはすぐにそうやって人生を語るんだから。あ、あっちの池のほうには、また違うお花が咲いてますよ」
真由美が清治の手を引いて、庭園の奥にある小さな池へと歩みを進める。
池のほとりには、まるで五重塔の九輪のように、花が何段にも重なって輪の形に咲いている植物があった。
「これは**九輪草**ね。珍しい形」
「ああ、山あいの湿地に咲く花だが、ここの住職が手入れを欠かさないんだろう。紫色が上品でいいな」
清治は身をかがめて、その可憐な花を見つめた。派手な牡丹とは対照的に、九輪草は静かに、しかし確かな存在感を持って地面からすっくと立ち上がっている。
池の水面を見つめると、小さな緑の葉が水面を覆い尽くすように浮かんでいた。
「お父さん、あの水草に小さな白い花が咲いてる。あれは何?」
「あれは**萍の花**、浮き草の花だよ。あまりに小さくて、注意していないと見落としてしまう。だが、あんな小さな体で、一生懸命に太陽の光を浴びて咲いているんだ」
「本当ね。よく見ないと気づかないくらい小さい。でも、一生懸命」
真由美の言葉に、清治は深くうなずいた。目立つものだけが美しいわけではない。誰にも気づかれなくても、自分の場所でひっそりと命を全うする姿に、清治は深い愛おしさを感じるのだった。
境内をひと回りして、二人は自宅へと続く帰路についた。
途中で、近所の畑の横を通りかかる。黄色い小さな花が、青々とした大きな葉の陰で、いくつも咲いているのが見えた。
「あ、**胡瓜の花**だわ。もうこんなに咲いているのね」
真由美が畑の柵に顔を近づけて言った。
「胡瓜の花が咲くと、もうすぐ夏が本番になる。瑞々しい実がなるのが楽しみだな」
「お父さん、今日の夕飯は、さっきの新馬鈴薯の煮物と、胡瓜の揉み込みにしましょうか。お祭りのお囃子を聞きながら、ビールでも飲みましょう」
「それはいいな。冷えたビールがうまそうだ」
遠くから、再びドンコドンコとお囃子の音が近づいてきた。祭りの熱気が、風に乗って二人の体を包み込む。
清治はサングラスの奥で、優しく目を細めた。
目が見えにくくなっても、足腰が少し弱くなっても、こうして五感で感じる初夏の訪れは、毎年新しく、そして温かい。
「真由美、連れ出してくれてありがとうな。良い日だ」
「どういたしまして。さあ、お家へ帰りましょう。風が気持ちいいですね」
二人は、薫風が吹き抜ける道を、歩幅を合わせてゆっくりと歩んでいった。




