5月20日 風薫る街
五月二十日 風薫る街
風が変わった。
朝、店の戸を開けた瞬間、リーネはそう思った。
深谷を吹き抜ける風が、いつもより柔らかい。
冷たいだけだった空気に、青葉の匂いが混じっている。
「んー……」
リーネは背伸びをした。
空は高く、雲は白い。
谷の上から差し込む光も、もう春より強かった。
少し歩けば汗ばむ。
けれど木陰へ入ると涼しい。
そんな季節。
「夏めいてきましたねぇ」
ぽつりと呟く。
その時。
「リーネ」
背後から低い声。
振り返ると、アッシュが怪訝そうな顔で立っていた。
黒い外套に、なぜか黒い丸眼鏡みたいなものをかけている。
リーネは目を丸くした。
「……なんですかそれ」
「サングラスというらしい」
「誰情報ですか」
「商人」
どうやら最近来た旅商人から買ったらしい。
アッシュは真顔で顎を上げる。
「強者っぽいだろう」
「変装失敗した貴族みたいです」
「そうか?」
「しかも似合ってるのが悔しいです」
アッシュは満足そうに頷いた。
そのまま店先へ座り込む。
風が吹く。
黒髪が揺れる。
遠くの麦畑が、金色の波みたいにざわめいていた。
「麦の秋ですねぇ」
「秋なのか?」
「麦は今が収穫時期なんです」
「ややこしいな」
「俳句の季語です」
「ほう」
アッシュはよく分かっていない顔で頷いた。
最近、深谷には色んな人が来る。
旅人。
料理人。
商人。
吟遊詩人。
中には俳句を詠む老人までいた。
その影響で、リーネも少しずつ季節の言葉を覚えている最中だった。
店の横には、真っ赤な牡丹が咲いていた。
燃えるみたいな緋牡丹。
風が吹くたび、大きな花弁がゆっくり揺れる。
「綺麗ですねぇ」
「食えるのか」
「食べません!」
アッシュは少し残念そうだった。
そこへ、厨房から大きな声が響く。
「リーネお姉ちゃん! じゃがいも剥けた!」
ミーナだった。
両手いっぱいに抱えているのは、新馬鈴薯だ。
掘ったばかりらしく、土の匂いがする。
リーネは笑顔になる。
「わぁ、上手!」
「えへへ!」
ミーナは得意げに胸を張った。
以前は痩せて小さかった少女も、今では厨房を走り回る元気娘だ。
その後ろでは、ガルド村長が鴨を捌いている。
「今日は通し鴨だぞ!」
「やったー!」
厨房が一気に盛り上がる。
鴨肉の濃い香り。
焼きたてパン。
新じゃがの甘い匂い。
温かな空気が店いっぱいへ広がっていた。
外からは祭囃子まで聞こえる。
今日は街の小さな祭の日だった。
風薫る五月。
一年で一番、深谷が優しく見える季節だ。
「白鷺だ!」
ミーナが窓の外を指差す。
川辺を、大きな白鷺がゆっくり歩いていた。
水面には萍の花が浮かび、きらきら光っている。
胡瓜の花も咲き始めていた。
黄色く、小さく。
けれど生命力に満ちた色だった。
リーネはその景色を見ながら、小さく息を吐く。
平和だな、と思う。
昔は想像もできなかった。
怒鳴り声に怯えず。
失敗を怖がらず。
笑いながら料理できる日が来るなんて。
その時。
店の扉が開いた。
「こんにちはー!」
旅人たちが入ってくる。
「あっ、深谷食堂だ!」
「本当にあったんだ!」
「予約してた者です!」
一気に賑やかになる。
アッシュがぼそりと呟いた。
「増えたな」
「ですねぇ」
「飯を食うやつが」
「そこですか」
リーネは笑った。
でも、少し分かる。
みんな、お腹を空かせて来るのだ。
ただ食べ物だけじゃない。
居場所とか。
温かさとか。
安心とか。
そういうものを求めて。
リーネはエプロンを結び直す。
「よーし!」
鍋の蓋を開けた。
ぶわり、と湯気が立ち上る。
鴨と香草の濃厚な香り。
新じゃがの甘い匂い。
腹の奥がくすぐられる。
「ミーナちゃん、火弱めてください!」
「はーい!」
「アッシュさん、つまみ食い禁止です!」
「まだしてない」
「今しようとしましたよね?」
「ばれたか」
「顔に書いてあります!」
厨房が笑い声で満ちる。
外では薫風が吹いていた。
若葉が揺れる。
竹落葉がさらさら舞う。
少し汗ばむ薄暑の午後。
それでも、この街には優しい風が流れている。
リーネは鍋を混ぜながら、ふと空を見上げた。
青い。
どこまでも青かった。
「……今日も、いい日ですね」
その呟きに。
風が、そっと答えるみたいに吹き抜けた。
5月20日
夏めく
サングラス
麦の秋
緋牡丹
牡 丹
通し鴨
薫 風
風薫る
祭
白 鷺
九輪草
若 葉
薄 暑
薫 風
新馬鈴薯
竹落葉
コロナ
萍の花
胡瓜の花




