風薫る日の三社祭
風薫る日の三社祭
靭草の紫が、古びた石垣の隙間で揺れていた。朝から風が強い。薫風というには少し荒っぽい、青嵐の気配を含んだ五月十九日だった。
「おい、牛、そっち行くなって」
吉野が声を張ると、黒牛は鼻を鳴らし、玉巻く葛のからんだ竹垣へ顔を突っ込んだ。乾いた竹落葉がざらりと擦れ、湿った土の匂いが立つ。
「こいつ、絶対わざとだろ」
「牛は賢いからな」
麦わら帽子の男が笑った。蛙みたいに低い声だった。祭の露店を組みに来た職人で、名を辰蔵という。
境内の外では、三社祭の太鼓がもう鳴っている。腹に響く音が、朝の空気を震わせていた。
「今日、人すごいかな」
吉野は空を見た。白牡丹みたいな雲がゆっくり流れている。麦の秋の匂いが風に混じって、甘く鼻をくすぐった。
「そりゃすごいさ。五月の祭だぞ」
辰蔵は木槌を鳴らしながら答えた。
「おまえ、祭嫌いか?」
「嫌いじゃない。でも、人混みが苦手」
「へえ」
「耳が痛くなるんだ」
そう言うと、吉野は少し笑った。笑いながら、胸の奥がざらつくのを隠した。
社の裏手から、白いサングラスをかけた女が歩いてきた。強い陽射しでもないのに、その女はいつもサングラスを外さない。
「おはよう」
「遅えよ、お滝」
「道で天道虫だまし見つけてた」
「なんだそりゃ」
「てんとう虫に似てるけど違う虫」
お滝は掌を開いた。赤黒い小さな虫がのろのろ動いている。
「かわいくない?」
「全然」
「ひど」
お滝は笑った。風が吹き、黒髪が頬に張りつく。どこか湿った匂いがした。川の近くを歩いてきたのだろう。
境内の端で、郭公が鳴いた。
遠く高く、胸を抜ける声だった。
「今年、早いな」
辰蔵が呟く。
「去年はもっと後だった」
「覚えてるんだ」
「祭と鳥の声だけはな」
屋台の油の匂いが漂い始めた。甘い蜜、焦げる醤油、煙。腹が鳴る。
「腹減った」
「朝食ったろ」
「祭の日は別」
お滝は鼻をひくひくさせた。
「ねえ、あたし団子食べたい」
「まだ開いてねえよ」
「じゃあ先に神輿見に行こう」
太鼓が近づいてくる。わあっと歓声が起き、空気がざわめいた。
人波が押し寄せる。
半纏の群れ。汗。酒の匂い。鈴の音。
風薫る五月の空気に、人の熱気が混じってむっとする。
「吉野!」
お滝が袖を掴んだ。
「離れるなよ!」
「わかってる!」
だが次の瞬間、人波が割れ、二人は引き離された。
「お滝!」
声が飲まれる。
神輿が来た。
怒号のような掛け声。
「せいや! せいや!」
担ぎ手の肩がぶつかり合い、汗が飛ぶ。金色の鳳凰が陽を弾き、目が眩む。
吉野は押され、露店の柱へ背中を打ちつけた。
「痛って……」
その時だった。
「吉野!」
サングラスが見えた。
お滝が人波の向こうで叫んでいる。
だが神輿が間に入る。
太鼓。
笛。
歓声。
何も聞こえなくなる。
吉野は急に、胸の奥が冷たくなった。
子供の頃、祭で母親とはぐれた記憶が蘇る。人混み。知らない声。置いていかれる怖さ。
「くそ……」
呼吸が浅くなる。
汗が首筋を流れた。
すると、誰かが肩を掴んだ。
「落ち着け」
辰蔵だった。
「目ぇ閉じろ。音ばっか追うな」
「でも」
「いるよ、あの女は」
辰蔵の掌は、木みたいに固かった。
「祭ってのはな、騒がしいほど、人が一人になるんだ」
「……」
「だから声じゃなく、気配探せ」
吉野は息を呑んだ。
風が吹く。
青嵐が、境内の旗を大きく鳴らした。
その風に混じって、かすかに匂いがした。
椿油と、線香のような香り。
お滝だ。
吉野は顔を上げ、人混みをかき分けた。
「お滝!」
「吉野!」
今度は見えた。
サングラス越しでもわかるほど、お滝は泣きそうな顔をしていた。
「ばか! どこ行ってたの!」
「そっちこそ!」
二人は息を切らして向き合った。
汗だくで、肩で呼吸して、それでも笑ってしまう。
「なんだよ」
「いや……変な顔」
「おまえも」
お滝は鼻をすすった。
「怖かった」
「……うん」
「いなくなるかと思った」
吉野は返事ができなかった。
祭囃子が遠くなる。
郭公がまた鳴いた。
風が抜ける。
白牡丹みたいな雲が流れていく。
その時、牛が「ぶもォ」と鳴いた。
二人が振り返ると、牛は屋台の竹籠をひっくり返し、団子を食っていた。
「あっ! こら!」
「牛ーーー!」
辰蔵が腹を抱えて笑っている。
「賢いとか言ったやつ誰だ!」
「いやあ、祭楽しんでるなあ!」
団子の蜜の匂いが漂った。
お滝は吹き出した。
吉野も耐えきれず笑った。
笑いながら、五月の風を胸いっぱい吸い込む。
祭の音が空へ昇っていく。
竹落葉が舞い、矢車草が揺れ、靭草の紫が陽に濡れていた。
そして風薫る一日は、まだ終わりそうになかった。




