5月19日 薫風のベランダ、君のサングラス
薫風のベランダ、君のサングラス
五月の風は、青嵐となって新緑の梢を激しく揺らしていた。五月十九日。暦の上では「麦の秋」と呼ばれる、麦が黄金色に実る初夏の季節だ。大学生の僕、十一は、自分の部屋のベランダに立ち、吹き抜ける薫風に目を細めていた。すぐ近くの神社からは、この週末に催される三社祭の太鼓の音が、地鳴りのように低く響いてくる。お祭り特有の、出店のソースや綿菓子の甘い匂いが風に混じり、胸が自然と浮き立つような、それでいて少し焦るような不思議な高揚感に包まれていた。
隣のベランダへと目をやると、そこには見事な白牡丹の鉢植えが並んでいた。大輪の白い花びらが、強い風に煽られて可憐に震えている。その傍らには、蔓を力強く伸ばし、若葉が今まさに玉巻く葛の鉢もあった。そして、その鮮やかな緑のグラデーションの向こうに、僕の視線は釘付けになった。
隣の部屋の住人であり、僕が密かに想いを寄せる大学の同級生、吉野がそこにいたのだ。
今日の彼女は、いつもと少し雰囲気が違っていた。顔の半分を覆うような、大きな黒いサングラスをかけているのだ。普段の、優しく垂れた
「十一くん、こんにちは。風が強いね」
「あ、吉野さん。こんにちは。本当に、青嵐って感じの強い風だね。……あの、そのサングラス、どうしたの? なんだかいつもと雰囲気が違って、一瞬誰かわからなかったよ」
「ふふ、ちょっとね。似合わないかな?」
「いや、そんなことないよ。かっこいいというか、大人っぽいというか……。でも、どうして急に?」
「実はね、ものもらいができちゃったの。目が赤く腫れちゃって、恥ずかしくて誰にも見せられないから、これで隠してるの。変に変装してるみたいで、自分でも笑っちゃうんだけどね」
吉野は照れくさそうに笑いながら、サングラスのフレームを指先で少し直した。彼女の透き通るような肌に、黒いフレームが鮮やかなコントラストを描いている。サングラスの奥にあるはずの、彼女の恥ずかしげに揺れる瞳を想像すると、僕の心臓はトクンと小さな音を立てた。
「そっか、ものもらいか。それは災難だったね。痛む?」
「ううん、痛みはもうそんなにないんだけど、見た目がね。あ、そうだ、十一くん、これ見て」
吉野がしゃがみ込み、ベランダの隅に置かれた紫色の矢車草の鉢植えを指差した。その細い葉の先で、小さな虫がもぞもぞと動いていた。
「天道虫だましよ。可愛いでしょう? 普通のテントウムシと違って、ちょっと模様が複雑で、おもしろい形をしてるの」
「本当だ。でも、天道虫だましって、確か植物の葉を食べる害虫じゃなかったっけ? そんなに愛でて大丈夫?」
「えっ、嘘、害虫なの? 可愛いからお友達になれると思ったのにショックだな。でも、なんだか憎めない顔をしてるのよね」
吉野は本気でがっかりしたように肩を落とした。その様子が可笑しくて、僕は思わず吹き出してしまった。
「あはは、吉野さんは相変わらず優しいね。虫の心配をするなんて」
「もう、笑わないでよ。私は真剣なんだから。あ、聴こえる? 遠くで鳥の声がする」
彼女が静かに耳を澄ますと、お祭りの太鼓の音の合間を縫うように、遠くの林から「テッペンカケタカ」と鋭く、しかしどこか哀愁を帯びた郭公の鳴き声が響いてきた。初夏の訪れを告げるその声は、渇いた初夏の空気に溶けていくようだった。
「郭公だね。もうそんな季節か。時が経つのは早いなあ」
「うん。竹落葉が庭に舞うのを見ると、季節の変わり目を感じるよね。あ、足元、気をつけてね。こっちのベランダから靭草の鉢植えの土が少し飛んじゃってるかもしれないから」
見ると、彼女の足元には、紫色の小さな花を穂状に咲かせた靭草の鉢が、風に耐えるように佇んでいた。
「大丈夫だよ。それより吉野さん、今週末の三社祭、もしよかったら一緒に行かない? 目が気になるかもしれないけど、サングラスをかけていれば誰も気づかないし、お祭りならいろんな人がいるから浮かないと思うんだ」
僕は思い切って、胸の中で温めていた誘いを口にした。心臓が激しく鐘を打つ。風の音にかき消されそうなほど小さな声になってしまったかもしれないと不安になったが、吉野は驚いたように動きを止めた。
「え……、私と? お祭りに?」
「うん。ほら、屋台の美味しいものもたくさんあるし、吉野さんと一緒に歩けたら楽しいなと思って」
吉野はしばらく沈黙した。サングラスのせいで、彼女が今どんな表情をしているのかが全く読み取れない。断られるかもしれないという恐怖が、冷たい汗となって僕の背中を伝った。沈黙を破ったのは、近くの池から聞こえてきた、低く重苦しい牛蛙の鳴き声だった。ブォー、ブォーという不器用な声が、僕の緊張をさらに煽る。
「……十一くん。私ね、本当のことを言うと、ものもらいなんかじゃないの」
吉野はぽつりと呟き、ゆっくりと両手をサングラスにかけた。
「え? どういうこと?」
「ううん、ものもらいっていうのは嘘ではないんだけど……。本当の理由は、十一くんに私の泣きはらした顔を見られたくなかったからなの」
彼女がサングラスを外すと、そこには確かに少し赤く腫れた、しかしそれ以上に、涙で潤んだ健気な瞳があった。
「泣いてたの? どうして? 何か辛いことでもあった?」
僕は思わずベランダの手すりに身を乗り出した。彼女の涙の理由を知りたい、その悲しみを取り除いてあげたいという衝動が、身体中を駆け巡る。
「ううん、悲しいことじゃないの。実はね、さっきまで恋愛小説を読んでたの。主人公の男の子が、不器用だけど一生懸命に女の子に気持ちを伝えるシーンがあって……。それを読んだら、なんだか胸がいっぱいになっちゃって、涙が止まらなくなっちゃったの」
「小説で……? そっか、よかった。大事件じゃなくて安心したよ」
僕はホッと胸をなでおろした。吉野の感受性の豊かさは知っていたけれど、まさか小説にそこまで感情移入して泣いてしまうなんて、やっぱり彼女は愛らしい人だと思う。
「それでね、その小説を読み終わったとき、真っ先に十一くんの顔が浮かんだの。もし十一くんが、あんな風に真っ直ぐ私に気持ちを伝えてくれたら、私はどうするんだろうって、そんなこと考えてたら、また涙が出てきちゃって……。だから、サングラスで隠してたの。恥ずかしくて、十一くんの顔をちゃんと見られそうになかったから」
吉野は顔を真っ赤に染め、視線を泳がせながら一気にまくしたてた。その言葉の意味を理解した瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。
「それって、つまり……」
「そうよ。だから、十一くんからお祭りに誘ってくれたとき、本当に心臓が止まるかと思ったんだから。私の気持ち、もう気づいてるんでしょう?」
吉野は潤んだ瞳で、真っ直ぐに僕を見つめてきた。サングラスという盾を失った彼女の瞳は、どんな言葉よりも雄弁に彼女の恋心を物語っていた。風がまた一段と強く吹き、二人の髪を激しく乱す。白牡丹の花びらが一枚、風に舞って僕たちの間の空間を横切っていった。
「吉野さん、僕は……。僕も、ずっと吉野さんのことが好きだったんだ。ただの隣人じゃなくて、大学の友達じゃなくて、一人の女性として、君のことが愛おしい。お祭りの誘いも、ただ遊びに行きたかっただけじゃない。君と特別な時間を過ごしたかったからなんだ」
僕は、自分の口から出た言葉の熱さに、自分自身で驚いていた。でも、もう止まらなかった。胸の奥に閉じ込めていた想いが、薫風に乗ってすべて彼女の元へと届いていくのがわかった。
吉野は目を見開き、それから、今日一番の、ひまわりが咲いたような弾ける笑顔を見せた。その目からは、また一粒の涙が零れ落ちたけれど、それは先ほどの悲しい涙ではなく、歓びに満ちた輝く雫だった。
「嬉しい……。十一くん、本当にありがとう。私、ものもらいなんて、もうどうでもよくなっちゃった。今週末のお祭り、絶対に一緒に行こうね」
「うん、行こう。サングラス、かけてきてもいいよ。僕だけの特別な吉野さんを、他の人に見せびらかさないで済むからね」
「もう、十一くんたら、急に大胆なことを言うんだから」
吉野は再びサングラスをかけ、いたずらっぽく微笑んだ。黒いレンズの向こう側で、彼女の瞳が幸せそうに細められているのが、僕にははっきりと見えた。
五月の青空の下、風薫るベランダで、僕たちの新しい季節が、今、確かに始まったのだ。
◇
5月19日
牛 蛙
サングラス
麦の秋
白牡丹
薫 風
天道虫だまし
五 月
風薫る
祭
竹落葉
十 一
青 嵐
郭 公
三社祭
矢車草
吉 野
青 嵐
靭 草
玉巻く葛




