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夏物 ――桜の実の川

夏物 ――桜の実の川


「先生、また間違えた」


 縁側で草笛を吹いていた良一が、原稿用紙を握ったまま唇を尖らせた。五月の薫風が庭を渡り、若葉の匂いを運んでくる。障子の向こうでは青あらしに煽られた竹がざわざわ鳴っていた。


「どこをだ」


 私は白靴を脱ぎ、廊下に上がった。川漁から戻ったばかりで、まだ袖に水の冷たさが残っている。鯒を入れていた籠の生臭さまで指にこびりついていた。


「“慈悲心鳥”が読めない」


 良一は癖のある字を指差した。私は苦笑した。


「じひしんちょう。ほととぎすのことだ」


「なんで鳥にそんな難しい名前つけるんだよ」


「鳴き声がそう聞こえるからだ」


 庭の南天の花が白く揺れている。遠くで本物のほととぎすが鳴いた。夕方前の薄暑の空気に、あの声は妙に透き通る。


 良一は顔をしかめた。


「先生は何でも知ってるな」


「年を食っただけだ」


「でも先生、昔は字を書かなかったんだろ」


 私は返事をしなかった。縁側に腰を下ろすと、木がきしむ。川風が肌を撫でた。若葉冷というにはもう暖かいが、夕方になるとまだ少しだけ冷えが戻る。


 良一は私をじっと見ていた。


「なあ、先生。なんで急に俺に字を教えようと思ったんだ」


「お前が困っていたからだ」


「それだけ?」


「それだけで十分だろ」


 少年は納得しない顔をした。


 この村に来て三年になる。山あいの小さな土地で、滝の音が昼も夜も絶えない。私は都会を離れ、古びた一軒家を借りて暮らしていた。夏物の着物を干し、麦の秋を眺め、誰とも深く関わらずに生きていくつもりだった。


 だが去年の春、良一が川辺で泣いていた。


 学校で笑われたのだという。


 文字が読めず、教科書を逆さに持っていたと。


 私は何も言えなかった。


 昔の自分を見ているようだったからだ。


「先生」


 良一が急に声を落とした。


「今日は川、行ったのか」


「ああ」


「鯒、獲れた?」


「小さいのが二匹」


「今夜、食わせてくれよ」


「お前が草笛をちゃんと吹けたらな」


「ええー」


 良一は笑った。笑うと前歯が少し欠けて見える。


 私はその顔を見るのが好きだった。


 夕餉の支度を始めると、家の中に醤油の匂いが広がった。炊き立ての米の湯気、焼いた魚の脂の香り。胡蝶蘭だけが場違いに白く、床の間で静かに咲いている。昔、別れた女が置いていった花だった。


「先生、この花、高そう」


「触るなよ」


「枯れそうなのに?」


「枯れそうだから置いてる」


「変なの」


 良一は笑いながら団扇を扇いだ。


 外では青あらしが強くなってきた。戸が鳴り、裏山の木々が唸る。滝の水音まで荒々しく聞こえる。


「嵐になるかな」


「夜には抜ける」


「先生って浦島草みたいだよな」


「なんだそれは」


「山の奥で一人で生きてる変な草」


 思わず吹き出した。


「誰に聞いた」


「じいちゃん」


「余計なことを」


 夕飯を食べながら、良一は何度も同じ漢字を紙に書いた。指に力が入りすぎて、鉛筆の先がぽきぽき折れる。


「ゆっくり書け」


「でも忘れるんだ」


「忘れてもいい。また書けばいい」


「先生みたいにはならないよ」


 私は箸を置いた。


「私も読めなかった」


「うそだ」


「本当だ」


 良一が目を丸くする。


 囲炉裏の火が小さく揺れた。


「昔、船に乗っていた。港ごとに字が違って見えた。帳簿も読めず、よく殴られた」


「先生が?」


「ああ」


「でも今は書けるじゃん」


「書けるまで何十年もかかった」


 良一は黙った。


 外でほととぎすがまた鳴いた。


 慈悲心鳥。


 昔はあの声が嫌いだった。責められているようで。


 だが今は違う。


 風の音と混じるその声を聞いていると、生き残った者を許してくれているように思える。


「先生」


「ん?」


「俺、ちゃんと読めるようになるかな」


 その声だけ急に幼かった。


 私は少し考えた。


「なる」


「本当に?」


「ただし時間はかかる」


「どれくらい」


「十年かもしれん」


「長えなあ!」


 良一が大声で笑った。


 私もつられて笑った。


 笑いながら、不意に胸が熱くなった。


 この子はきっと知らない。


 文字を読めない苦しさも、誰かに馬鹿にされ続ける痛みも。


 いや、少しは知っているのかもしれない。


 だからこんな必死な顔をする。


 夜が更けると、嵐は静かに遠ざかっていった。庭には桜の実がいくつも落ちている。黒く熟れた実を一つ拾い、口に入れると、甘さの奥にかすかな渋みが残った。


「うまい?」


 良一が訊いた。


「微妙だな」


「じゃあ俺も」


「やめとけ」


「なんで」


「大人の味だ」


 良一は不満そうに頬を膨らませた。


 私はその横顔を見ながら思った。


 きっとこの子は、私よりずっと遠くへ行く。


 字を覚え、町へ出て、恋をして、いろんな季節を渡るのだろう。


 その時、この山や滝の音や、麦の秋の匂いを思い出すことがあるだろうか。


 忘れてもいい、と私は思った。


 ただ、生きていてくれればいい。


 ほととぎすが最後に一声鳴いた。


 夜風はもう夏の匂いだった。



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