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スマホなき日常、東京30度の薫風に吹かれて

スマホなき日常、東京30度の薫風に吹かれて


五月十八日。東京の最高気温は、まだ体が季節に馴染みきっていないというのに、容赦なく三十度に達していた。アスファルトからは蜃気楼の出来損ないのような陽炎が立ち上り、街全体が巨大な温室と化している。

「ねえ、もう夏物を出さないと本当に干からびちゃうよ」

居間のソファでぐったりと横たわっている妻の緑が、消え入るような声で訴えてきた。

「まだ五月なのに、この薄暑は異常だね。まるで季節の時計がひっくり返ったみたいだ」

私は額ににじむ汗を拭いながら応じた。

窓から吹き込んでくる風は、ただ熱いだけでなく、どこか青臭い。近所の公園の木々が、ここ数日の強い陽射しを浴びて一気に葉を広げたのだろう。若葉冷えなんて言葉が嘘のように、生温かい薫風が部屋のカーテンを大きく揺らしている。風が通り抜けるたびに、窓の外からはごうごうと「青あらし」の音が響き、都会の喧騒を掻き消していた。


「あなた、おつかいに行ってきて。今夜はさっぱりしたものが食べたいわ」

緑は起き上がり、冷蔵庫を覗き込みながら言った。

「いいよ。何を買ってくればいい?」

「市場で新鮮な鯒が一匹手に入るといいんだけど。あれを薄造りにして、ポン酢で食べたら最高じゃない?」

「いいね、コチか。あの白身の歯ごたえが、この暑さを忘れさせてくれそうだ」

私は、白靴の踵をきゅっと鳴らして履き、麻の芭蕉布のシャツを羽織った。肌にさらりと触れる生地が心地よく、少しだけ涼しさを運んでくれる。


私はスマートフォンを持っていない。世間では誰もが小さな画面を凝視して歩いているが、私には文字の形が時折、万華鏡のように歪んで見えてしまう「識字障害」がある。だから、情報のインプットはすべて、耳で聴く音、目で見る景色、そして肌で感じる空気の質感だ。文字の洪水に溺れるよりも、自分の五感をフルに活用して生きるほうが、よほど愉快で性に合っている。

商店街への道を歩いていると、すれ違う人々のほとんどが片手にスマホを握りしめ、下を向いて歩いていた。彼らは、街路樹の枝にひっそりと実った、赤黒く熟した桜の実の艶やかさに気づきもしない。私はその一粒を指で摘み、そっと口に含んでみた。野性味のある甘酸っぱさと、ほんのりとした渋みが舌の上に広がり、口の中が一瞬で初夏の味に染まる。


「おや、先生。こんな暑い中をお散歩ですか」

声をかけてきたのは、老舗の生花店の店主だった。店先には、気品ある純白の胡蝶蘭が並び、その奥には、鮮やかな大輪の牡丹が、まるで自分の季節が終わるのを惜しむかのように誇らしげに咲き誇っている。

「ええ、ちょっと夕飯の買い出しにね。それにしても見事な牡丹だ」

「ありがとうございます。でもね、これからの季節はこっちですよ」

店主が指差した先には、小さな白い花を身にまとった南天の花の鉢植えがあった。その素朴な佇まいが、火照った身体に涼を運んでくれる。

さらに店の隅の暗がりに、奇妙な形をした浦島草が、まるで釣り竿を垂らすかのように長い髭を伸ばして佇んでいるのを見つけた。その不気味でユーモラスな姿に、思わず笑みがこぼれる。


「じゃあ、行ってくるよ。良いものを見せてもらった」

「お気をつけて。水分をよく摂ってくださいね」

店を離れ、さらに進むと、住宅街の小さな庭先から、懐かしい音が聞こえてきた。ピーピーと、少し調子の外れた、しかし素朴で温かみのある音色。見れば、小さな男の子が道端の草の葉を口に当て、必死に草笛を吹いている。男の子の頬は真っ赤に膨らみ、真剣そのものだ。

「上手だね」

私が声をかけると、男の子は照れくさそうに笑い、さらに勢いよく音を鳴らした。その瞬間、私の頭の中に、遠い記憶の風景が広がった。幼い頃、田舎の祖父母の家の近くで見た、黄金色に波打つ麦の秋の畑。あの一面に広がる麦穂の海を渡る風の音が、草笛の音色と重なって聴こえたような気がしたのだ。


市場へ向かう途中、小さな公園の池の人工滝の前に立ち止まった。激しく流れ落ちる水しぶきが、周囲の空気をひんやりと冷やしている。肌に触れる微細な水滴が、首筋の汗をすっと引かせていく。

すると、その滝の水音に混じって、どこからか鋭く、そして美しい鳥の鳴き声が響き渡った。

「テッペンカケタカ」

ほととぎすだ。都会の真ん中でその声を聴くのは珍しい。さらに、その声に答えるように、今度は「ジュウイチ、ジュウイチ」と、少し哀愁を帯びた慈悲心鳥の声までもが頭上から降ってきた。スマホの画面ばかり見ている人々は、この都会の空で行われている鳥たちの見事な掛け合いに、決して気づかないのだろう。私は自分の耳と、この不便な身体が少しだけ誇らしくなった。


市場の魚屋に着くと、威勢のいい大将が声を張り上げていた。

「いらっしゃい! 今日はいい鯒が入ってるよ!」

「まさにそれを探していたんだ。一匹、捌いてくれるかい」

「毎度! この暑さだからね、コチの薄造りは最高だよ。川狩りで獲れた鮎もおすすめだけど、今日はこいつが一番だ!」

大将の威勢のいい声と、まな板の上で跳ねる魚の新鮮な匂いが、私の食欲を猛烈に刺激する。


夕方、買い物を終えて家に戻ると、部屋の中は少しだけ涼しくなっていた。

「おかえりなさい。良いものは買えた?」

緑が出迎えてくれた。

「最高のコチが手に入ったよ。それに、途中でほととぎすと慈悲心鳥の鳴き合いを聴いたんだ。草笛を吹く少年にも会ったよ」

「あら、スマホも持たずに、ずいぶんと贅沢な旅をしてきたのね」

緑はクスリと笑い、私の芭蕉布のシャツの肩を優しく叩いた。

東京の三十度は確かに厳しいが、私の五感が捉えた初夏の欠片たちは、どれもみずみずしく、ユーモアに溢れていた。私たちは、涼しい部屋で鯒の薄造りを突きながら、暮れゆく五月の夜を大いに楽しむことにした。



5月18日 


桜の実



麦の秋


牡 丹


薫 風


若葉冷


草 笛


薄 暑


青あらし


浦島草


慈悲心鳥


ほととぎす



芭蕉布


白 靴


川 狩


胡蝶蘭


南天の花


夏 物



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