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5月17日 薫風の豆腐

薫風の豆腐


 窓から滑り込んできた風が、古い畳の匂いと一緒に、青葉のむせるような香りを運んできた。五月の風は薫風と呼ばれるにふさわしく、若葉の生命力をいっぱいに孕んで肌をなでていく。

「おっ、今日もいい風だねえ」

 七十二歳になる新谷正雄は、縁側に腰を下ろして小さく目を細めた。

 正雄の暮らす古い木造アパートの小さな庭には、今が盛りと白山吹の可憐な花が咲き、隣家の大きな新樹が青々と茂って心地よい木陰を作っている。耳をすませば、遠くの林から郭公や時鳥の、どこか物悲しくも透き通った鳴き声が聞こえてきた。世間ではこの爽快な季節を聖五月などと呼ぶらしいが、正雄にとっては、ただ「今年も無事に生きている」と感じられる、それだけで十分に特別な季節だった。

 財布の中身は、今日も心もとなかった。百円玉が数枚と、十円玉がいくつか。

「さてと、今日の御馳走を買いに行きますか」

 正雄は立ち上がり、すり減ったサンダルを履いた。

 お金がなくても、もやしと豆腐と納豆さえあれば生きていける。いや、それだけで十分に幸せだった。毎日のように同じものを食べていても、不思議と飽きることはない。むしろ、その素朴な味が体に染み渡るたび、何とも言えない満ち足りた気持ちになるのだ。

 近所の小さなスーパーへ向かう道すがら、畑の向こうに広がる黄金色の景色が目に飛び込んできた。麦の秋だ。初夏でありながら、実った麦が黄金の波のように揺れている。その美しさに、正雄は思わず足を止めて胸いっぱいに空気を吸い込んだ。土の匂いと、乾燥した麦の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 スーパーの店内に足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が火照った肌に心地よかった。正雄は迷わず目的の棚へと歩を進める。

「あら、新谷さん。こんにちは。今日も良いお天気ねえ」

 声をかけてきたのは、顔なじみのレジ打ちの女性だった。

「本当にねえ。歩いているだけで汗ばむくらいですよ。でも、風が気持ちいいから苦になりませんな」

「そうね。あ、今日の夕飯の材料? いつもの三点セットね」

「これさえあれば、私は天国にいる気分になれるんですよ。もやしのシャキシャキした歯ごたえ、豆腐の滑らかな喉越し、それに納豆のコク。これ以上の贅沢はありませんよ」

「ふふ、新谷さんは本当に安上がりで幸せ上手なんだから。見習いたいわ」

 正雄は嬉しそうに微笑みながら、十九円のもやし、三十八円の豆腐、そしてパックの納豆をカゴに入れた。

 ふと、鮮魚コーナーに目が留まる。そこには、皮剥や馬面剥といった、少し不恰好だが味の良さそうな魚が並んでいた。

「おっ、皮剥かい。煮付けにしたら美味いんだけどねえ。まあ、私にはこの白い豆腐が一番お似合いだ」

 正雄は未練なく魚から目を背け、いつもの三点セットを持ってレジへと向かった。

 帰り道、近所の古い屋敷の庭先を通りかかると、見事な牡丹と芍薬の花が咲き誇っていた。牡丹の妖艶な大輪と、芍薬のすらりとした端正な佇まい。その鮮やかな色彩が、正雄の老いた目を楽しませてくれる。

「お金を払わなくても、こんなに綺麗な花が見られるんだから、ありがたいことだ」

 近くの公園からは、子供たちが草の葉を唇に当てて鳴らす、草の笛の音が聞こえてきた。ピー、プーと、どこか気の抜けた、しかし楽しげな音が薫風に乗って響く。昔、自分もよくやったものだと、正雄の胸の奥に懐かしい記憶が鮮やかに蘇り、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 アパートに戻ると、正雄はさっそく夕食の支度に取りかかった。

 台所の水道をひねると、冷たい水が勢いよく飛び出す。その冷たさは、まるで山奥の滝の飛沫を浴びているかのように清々しく、あるいは大地の底から湧き出る噴井の水のように新鮮に感じられた。

 もやしをさっと茹でて冷水で締め、器に盛る。その上に、真っ白な豆腐を崩してのせ、よく練った納豆を天盛りにする。仕上げに、少しだけ残っていた醤油を回しかけた。

「よし、完成だ。今日も立派な御馳走だぞ」

 小さな座卓の前に座り、正雄は両手を合わせた。

「いただきます」

 まずは豆腐ともやしを一緒に口に運ぶ。

「ううむ、美味い」

 ひんやりとした豆腐が舌の上でとろけ、同時にもやしの瑞々しい食感が歯を弾く。大豆の優しい甘みと、もやしの清涼感が口の中で見事に調和していた。続いて、粘り気のある納豆を絡めて食べる。独特の強い旨味と香ばしさが加わり、味が一段と深くなった。

「これだよ、これ。この味が、私の一番の幸せだ」

 正雄は目を閉じ、噛みしめるごとに広がる大豆の風味を堪能した。

 窓の外からは、近所の神社で行われている祭のお囃子の音が、風に乗ってかすかに聞こえてくる。太鼓のドンドンという響きと、笛のピーヒャラという音。祭の賑やかさを遠くに聞きながら、正雄はこの静かな四畳半の部屋で、一人で飯を食っている時間が何よりも愛おしかった。

 世間の人々は、もっと高いものを食べ、もっと便利な生活を求めて血眼になっているのかもしれない。しかし、正雄にはそんなものは必要なかった。

「若葉の緑を見て、鳥の声を聴いて、冷たい水で豆腐を食べる。これ以上の何が必要だって言うんだい」

 正雄は独りごちて、ふっと笑った。

 お腹がいっぱいになると、心地よい眠気が襲ってきた。正雄は座布団を枕代わりにし、畳の上にゴロリと横になった。

 開け放した窓から、再び薫風が吹き込んできて、正雄の白い髪を優しく揺らす。新樹の葉が擦れ合うサラサラという音が、まるで極上の子守唄のように耳に優しかった。

「今日も、良い一日だったな」

 正雄は満足感に包まれながら、静かに目を閉じた。お金はなくても、心はいつでも、この五月の空のようにどこまでも広く、満ち足りていた。



5月17日 


聖五月



麦の秋


牡 丹


薫 風


芍 薬


草 笛


新 樹



若 葉


郭 公


時 鳥


聖五月


新 樹


皮剥・馬面剥


噴 井


草 笛


白山吹




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