5月16日 風薫る、白牡丹の迷宮
5月16日 風薫る、白牡丹の迷宮
五月十六日。世間は「聖五月」などと呼び、爽やかな初夏の訪れを祝福しているようだが、私――織部一香にとっては、ただの汗ばむ大安吉日、つまりは最悪の労働日の幕開けだった。
じりじりと照りつける太陽は、すでに「薄暑」と呼ぶには容赦がなさすぎる。私は愛用の麻のサマージャケットの襟元をパタパタとあおった。今年流行のピスタチオグリーンのリネンは通気性がいいはずだが、緊張のせいで肌に張り付く。足元は、あえて素足にクリスチャン・ルブタンの真っ赤な底のエスパドリーユ。そう、「はだし」に高級靴という、都会のジャングルを生き抜くための戦闘スタイルだ。
「一香、そっちの段取りはどうなってる? もうすぐ御家流のうるさ方たちが一斉に到着するわよ!」
インカムから、上司であるイベントプランナーの冴子さんの怒鳴り声が響いた。鼓膜が震えて、耳の奥がじんと痛む。
「大丈夫です、冴子さん。いま『泉殿』と呼ばれる庭園の特設ステージに向かっています。会場の導線チェックは完璧……のはずです」
「はず、じゃ困るのよ! 今日のメインは、あの気難しい白牡丹の家元が活ける、門外不出の『白牡丹』なんだから。もし失敗したら、私たちの会社ごと吹き飛ぶわよ!」
プチッと通信が切れた。私は小さくため息をつき、お気に入りの和柄の「団扇」で顔をあおいだ。竹の骨がパタパタと鳴り、わずかに涼しい風が頬を撫でる。
ここ、伝統ある日本庭園を擁する高級料亭「緑水庵」では、本日、初夏の芸術祭が開催されることになっていた。庭園の奥からは、ドウドウと涼やかな「滝」の音が響いてくる。五月の爽やかな「薫風」――いや、今日に限っては、テントをなぎ倒さんばかりの激しい「青嵐」が吹き荒れていた。
「わあ、すごい風……。お気に入りのシルクスカーフが飛んじゃう!」
受付のアルバイトの女の子が、エルメスのカレを必死に押さえている。新緑の「若葉」が、風に煽られてサラサラと激しい音を立て、まるで舞台の開演を急かす拍手のように聞こえた。
その時、庭の茂みから、聞き覚えのある鳥の鳴き声が聞こえた。
「テッペンカケタカ……」
「ホトトギス?」
いや、違う。よく耳を澄ますと、それは「郭公」の鳴き声だった。カッコー、カッコーと、のんびりした声が響く。だが、私の心の中は、のんびりどころか、嵐の海のように大荒れだった。
「大変です! 織部さん!」
息を切らせて走ってきたのは、新入社員の佐藤くんだった。今日の彼のファッションは、なぜか動きやすさを重視しすぎたのか、ネイビーのテック系セットアップにスニーカー。お洒落な料亭の雰囲気から完全に浮いている。
「どうしたの、佐藤くん。そんなに慌てて。ジャケットのポケットから『莢豌豆』がはみ出してるわよ?」
「えっ? あ、これ、さっき厨房の手伝いをした時に、お土産にもらった絹さやです!って、そうじゃなくて! 大変なんです、家元が……家元が怒って帰るって言い出しまして!」
「はあ!? 何があったのよ」
「それが、楽屋のケータリングに、家元の大嫌いな『穴子』の押し寿司が入っていたらしくて……。『私を泥魚で汚す気か!』って、ものすごい剣幕で」
「穴子ごときで帰らないでよ!」
私は天を仰いだ。お腹の中から、フツフツと怒りと焦りが湧き上がってくる。口の中に、緊張による苦い味が広がった。
「家元はどこにいるの?」
「池の対岸の『釣鐘草』が群生している小道のあたりで、お弟子さんたちと揉めてます!」
「案内して!」
私はエスパドリーユの踵を鳴らし、新緑のトンネルへと走り出した。
「風薫る」五月の爽やかさなんて、どこへやら。私の体はすでに汗だくだ。すれ違うスタッフたちが、私の形相に怯えて道を譲る。
池のほとりに辿り着くと、そこには、全身を最高級の純白の単衣の着物で包んだ、いかにもプライドの高そうな初老の女性――白牡丹の家元が、ふんぞり返っていた。その姿は、まさに大輪の「牡丹」、それも気高き「白牡丹」そのものだった。
「もう結構です! こんな無礼な料亭、そしてこんな企画会社とは仕事ができません。私はこれから、夜釣りにでも出かけます!」
「家元! お待ちください!」
私は、ゼエゼエと息を切らせながら家元の前に滑り込んだ。はだしにエスパドリーユの足元が、池の泥で少し汚れてしまったが、背に腹は代えられない。
「なんだね、君は。その、締まりのない靴の履き方は」
家元が、私の足元を軽蔑の眼差しで見下ろした。
「これは、今年パリのコレクションでも注目された、あえての『はだしルック』でございます、家元! それはさておき、穴子の件は、完全に私どもの手落ちでございます。しかし、どうか、本日集まった何百人ものお客様のために、その素晴らしい腕前を披露してはいただけないでしょうか」
「お断りします。私は一度へそを曲げると、絶対に直らないタチなの。今夜はのんびり『夜釣り』でアナゴでも釣った方が、よっぽど風流というものよ。さっきは嫌いだと言ったけれど、自分で釣ったものは別なの!」
なんて理不尽な言い訳だろう。私は頭が痛くなった。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「家元。もし、家元が今ここで帰られてしまったら、この庭園の若葉たちも、あの美しい滝も、すべてが泣いてしまいます。見てください、あの白牡丹の蕾を。家元の手によって美しく活けられるのを、今か今かと待っているのです」
私は、自分が持っていた団扇を家元にそっと差し出した。
「この風を、どうか怒りを静めるお力に……」
家元は、私が差し出した団扇をじっと見つめた。それは、私が特注で作らせた、京都の老舗の職人が仕立てた美しい団扇だった。
「……ほう。この団扇、なかなかの骨組みね。それに、あなたのそのピスタチオグリーンのジャケット。白牡丹の葉の色を意識して選んだのかしら?」
「え? あ、はい! もちろんでございます!(本当はただの流行色だったけれど)」
家元の目が、少しだけ和らいだ。
「ふん、ファッションのセンスだけは合格ね。おまけに、その泥だらけの足元で必死に私を止める姿……。少しだけ、私の若い頃の情熱を思い出したわ」
家元は、ふっと微笑んだ。その瞬間、周囲の空気が一変したような気がした。
「わかりました。今日のところは、あなたのその情熱と、この美しい『薫風』に免じて、舞台に上がりましょう。ただし、終わった後は、最高級の『穴子』の蒲焼きを用意しなさい。いいわね?」
「はい!喜んで!」
私は深々と頭を下げた。
それからの時間は、まさに怒濤のようだった。
泉殿の特設ステージ。激しい「青嵐」が吹き抜ける中、家元は見事な手捌きで、巨大な花器に「白牡丹」を活けていった。白く美しい大輪の花が、五月の緑の中で、圧倒的な存在感を放つ。観客からは、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
舞台の袖で、私と佐藤くんは、お互いにホッと胸を撫で下ろした。
「やりましたね、織部さん。一時はどうなることかと……」
「本当にね。でも、これで私のリネンジャケットもしわくちゃよ」
「でも、すごく格好いいです。今日の織部さん、まるで初夏の嵐みたいでした」
「それ、褒めてるの?」
私がクスッと笑うと、佐藤くんも照れくさそうに笑った。
気がつけば、空はすっかり「朝焼」のような、いや、美しい夕焼けの茜色に染まり始めていた。一日中走り回ったせいで、足の裏はクタクタだったけれど、心の中には、爽やかな五月の風が吹き抜けていた。
「さあ、佐藤くん。約束通り、家元のために最高のアナゴ料理を注文しに行くわよ!」
「はい!僕のポケットの莢豌豆も、付け合わせに使ってもらいましょう!」
私たちは、笑い合いながら、新緑の小道を歩き出した。郭公の声が、今度は私たちの成功を祝うように、遠くで優しく響いていた。
5月16日
聖五月
滝
杜 鵑
牡 丹
薫 風
薄 暑
青 嵐
風薫る
穴 子
夜 釣
郭 公 1
若葉(植物名入り)2
白牡丹 2*
莢豌豆
団扇撒
朝 焼
泉 殿
釣鐘草
はだし




