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5月15日 聖五月の風に揺れる絹、あるいは恋の行方

聖五月の風に揺れる絹、あるいは恋の行方


 新緑の香りが鼻腔をくすぐり、目に映るすべての葉が瑞々しく光り輝く聖五月。東京の喧騒から少し離れたこの街には、古くからの邸宅が並び、その庭先からは牡丹の重厚な香りが漂ってくる。

 二十四歳の紬は、母から譲り受けたという淡い萌黄色の絹のブラウスに、生成りのリネンパンツを合わせていた。足元は、五月の陽気に誘われるように、サンダルを脱ぎ捨てて跣になりたいような開放感に満ちている。

「紬、そんなにぼんやりしてどうしたの。せっかくの新緑が泣くわよ」

 隣で声をかけてきたのは、友人の香織だ。彼女は今日、透け感のあるオーガンジーのトップスに、草藤のような鮮やかなパープルのスカートをなびかせている。

「ごめん。あまりに青嵐が気持ちよくて。ほら、あの新樹の揺れ方を見てよ。まるでダンスをしているみたいじゃない?」

「相変わらず詩的なこと。でも、今日はそんな悠長なこと言ってられないわよ。薪能のチケット、無事に手に入ったんだから」

 二人は、葵祭の余韻が残る神社の境内を歩いていた。時折、遠くで時鳥の鋭い声が響き、夏の気配を運んでくる。

「薪能……。夜振の火に照らされる舞台なんて、想像しただけで鳥肌が立ちそう」

「でしょ? だからこそ、今日はとびきりのお洒落をしてきたんだから。紬のそのブラウスも素敵よ。新緑に溶け込みそうな色ね」

 紬は自分の袖に触れた。絹の滑らかな質感が指先に心地よい。

「ありがとう。これ、母が若い頃に着ていたものなの。母の日の贈り物に悩んでいたら、母の方が先に『これを着て出かけてきなさい』って貸してくれて」

「素敵な贈り物じゃない。お母様、センスがいいわ」

 二人は、参道脇にある小さな甘味処に立ち寄ることにした。

「いらっしゃいませ。今日はいいお天気ですね」

 店主の柔らかな声に迎えられ、二人は中庭の見える席に座った。庭の隅には、小さな池があり、そこでは山椒魚がひっそりと岩陰に隠れているのが見える。

「見て、かたばみが咲いてる。可愛いわね」

「本当だ。あんなに小さいのに、力強く根を張っているわ。……ねえ、紬。実は私、今日ここに来たのは別の理由もあるの」

 香織の表情が、少しだけ真剣なものに変わった。

「どうしたの? 改まって」

「あのね、私、パリに行こうと思ってるの。ファッションの勉強を本格的に始めたくて。この青嵐に背中を押されたような気がするのよ」

 紬は、手に持っていた湯呑みを置いた。お茶の温かさが手のひらに伝わってくる。

「パリ……。急な話ね。でも、香織らしいわ」

「応援してくれる?」

「もちろんだよ。でも、寂しくなるな」

 運ばれてきたのは、透明感のある金玉糖だった。光を透かして宝石のように輝くその菓子を、紬は一つ口に運んだ。上品な甘さが、寂しさを少しだけ和らげてくれる。

「これ、美味しい。金玉糖を食べるたびに、今日のこの新緑と、香織の決意を思い出しそう」

「そんなに大袈裟なことじゃないわよ。でも、五月の空って、何か新しいことを始めたくなる魔法があると思わない?」

「そうね。私も、何かを見つけなきゃいけない気がする」

 店を出ると、風はさらに勢いを増していた。まさに青嵐だ。街路樹の若葉が激しくこすれ合い、滝のような音を立てている。

「ねえ、紬。薪能の前に、あそこのカフェで絹莢のパフェを食べない? 期間限定なんですって」

「絹莢のパフェ? 面白いわね。行ってみましょう」

 二人は笑い合いながら、風の中を歩き出した。

「あ、見て。あそこの家の庭、牡丹が満開よ」

「本当。あんなに鮮やかな赤、見たことがないわ。まるで命を燃やしているみたい」

 紬は、自分の内側にも、その牡丹のような熱い何かが宿っているのを感じた。

「私、決めたわ」

「何を?」

「私、母の日のプレゼント、決めた。母を一緒にパリに連れて行ってあげる。香織の門出を祝いに、三人で行きましょうよ」

 香織の目が大きく見開かれた。

「えっ、本当に? お母様、喜んでくれるかしら」

「きっと喜ぶわ。母も昔、ファッションの仕事を夢見ていたことがあったって言っていたから」

 二人の笑い声が、五月の高い空に吸い込まれていく。

「決まりね。じゃあ、まずは今夜の薪能を楽しみましょう。夜振の火に、私たちの未来を照らしてもらうのよ」

 夕闇が迫り、神社の境内には篝火が焚かれ始めた。揺れる火の粉が、紬の絹のブラウスをオレンジ色に染める。

「紬、見て。ほととぎすが鳴いてる」

「本当だ。まるで、私たちの出発を祝ってくれているみたい」

 二人は、互いの手を強く握りしめた。

「さあ、行きましょう。新しい季節が、私たちを待っているわ」

 舞台の上では、幽玄な世界が広がろうとしていた。新緑の香りと、薪の爆ぜる音、そして時折通り抜ける涼やかな風。

 聖五月の夜は、まだ始まったばかりだった。

「ねえ、香織。私、裸足になって踊り出したい気分よ」

「ふふ、紬なら本当にやりそうね。でも、今はその絹のブラウスを汚さないように、静かに見守りましょう」

 二人は、暗闇の中に浮かび上がる舞台を見つめた。そこには、過去と未来が交差するような、不思議な光景が広がっていた。

 五月の風は、どこまでも優しく、そして力強く、二人の背中を押し続けていた。

「ありがとう、五月。ありがとう、この風」

 紬は心の中で呟き、深く息を吸い込んだ。新緑の香りが、全身の細胞を呼び覚ましていく。

 明日からは、また新しい毎日が始まる。でも、今日のこの輝きは、一生忘れることはないだろう。

 金玉糖のように甘く、絹莢のように瑞々しく、そして牡丹のように力強い、五月の記憶。

 二人の物語は、この聖五月の光の中で、鮮やかに色づき始めていた。

 薪能の笛の音が、静寂を切り裂くように響き渡り、夜は更けていった。


5月15日 季語


聖五月



時 鳥


牡 丹


青 嵐


新 樹


ほととぎす


若 葉



夜 振


金玉糖


かたばみ


薪 能


絹 莢


母の日


山椒魚


新 緑


草 藤


跣・裸足



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