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立夏のスープ

立夏のスープ


朝の風が変わっていた。


深谷の街アビスを吹き抜ける風は、もう春の冷たさではない。


柔らかく、青い匂いがする。


若葉。


湿った土。


陽射しに温められた石畳。


季節が、ひとつ先へ進んだのだと分かる風だった。


「んー……」


リーネは店の扉を開けながら、大きく伸びをした。


朝日が眩しい。


谷の上から降りてくる光は金色で、通りに並ぶ若葉をきらきら照らしている。


遠くでは鳥が鳴いていた。


川辺の水音も聞こえる。


「気持ちいい……」


思わず笑みがこぼれる。


その時。


「リーネ」


後ろから低い声がした。


振り返ると、アッシュが眠そうな顔で立っている。


髪はぼさぼさ。


黒い外套も少し乱れていた。


完全に寝起きである。


リーネはくすっと笑った。


「おはようございます」


「……腹が減った」


「挨拶より先なんですね」


「重要だ」


真顔だった。


リーネは肩を揺らして笑う。


「まだ朝ですよ?」


「だからだ」


「朝ご飯は作りますって」


「二人前」


「三人前くらい食べますよね?」


アッシュは少し考え込み、静かに頷いた。


「今日は五人前くらい食えそうだ」


「立夏って燃費悪くなるんですか?」


「知らん」


アッシュは当然のように席へ座った。


窓から入る風が、黒髪を揺らしている。


その横顔を見ながら、リーネは厨房へ入った。


今日は立夏。


暦の上では、もう夏の始まりだ。


だから料理も、少しだけ季節を変えたい。


リーネは籠を覗き込む。


新馬鈴薯。


若い玉ねぎ。


朝採れの胡瓜。


香草。


そして、昨日ガルド村長が届けてくれた鶏肉。


どれも初夏の匂いがした。


リーネは鍋へ手をかざす。


【火】。


小さな炎が灯る。


優しい火。


食材をびっくりさせない温度。


鍋へ油を落とすと、じゅわり、と柔らかな音が鳴った。


玉ねぎを炒める。


甘い香りが広がる。


新じゃがを切ると、みずみずしい断面が朝日に光った。


アッシュが鼻をひくつかせる。


「いい匂いだ」


「今日は立夏ですから」


「りっか」


「夏の始まりですよ」


アッシュは窓の外を見る。


若葉が風に揺れていた。


「……夏か」


「嫌いですか?」


「いや」


アッシュは少し目を細めた。


「お前が嬉しそうだから、悪くない」


リーネは思わず手を止める。


「急にそういうこと言うのずるいです」


「なぜだ」


「びっくりするので」


「変なやつだな」


「アッシュさんにだけは言われたくないです!」


その時、厨房へミーナが飛び込んできた。


「おはよー!」


元気いっぱいの声。


髪には若葉が一枚くっついている。


「もう、走ると危ないですよ」


「だっていい匂いした!」


ミーナは鍋を覗き込み、目を輝かせた。


「スープ!?」


「はい。初夏の薬膳スープです」


「やったー!」


ミーナはぴょんぴょん跳ねる。


昔、病で痩せていた少女とは思えない。


頬も赤く、目もきらきらしている。


それを見るたび、リーネは嬉しくなった。


鍋がことこと鳴る。


鶏の旨味。


野菜の甘み。


香草の青い香り。


立ち昇る湯気には、季節そのものが溶け込んでいるみたいだった。


リーネは静かに魔力を流した。


【水】。


口当たりを柔らかく整える。


【風】。


香りを優しく循環させる。


【光】。


栄養を活性化し、身体へ染み込ませる。


強い魔法じゃない。


けれど、温かな魔法だった。


アッシュがじっと鍋を見ている。


「まだか」


「まだです」


「待てない」


「待ってください」


「腹が減った」


「知ってます!」


ミーナが吹き出した。


「アッシュさん毎日それ言ってる!」


「事実だからな」


「すごい開き直りだ……」


やがて、スープが完成する。


白い器へ注ぐ。


黄金色のスープ。


新じゃががほろほろ崩れ、若い玉ねぎが透き通っていた。


湯気がふわりと立ち昇る。


初夏の香りだった。


アッシュは待ちきれないように匙を持つ。


一口。


その瞬間、ぴたりと動きが止まった。


「……うまい」


低い声が漏れる。


さらに一口。


「染みる」


「朝ですからね」


「身体が起きる感じがする」


ミーナも夢中で食べ始める。


「あったかい……!」


頬を緩めながら、幸せそうに笑った。


外では風が吹いている。


薫風。


若葉を揺らす、柔らかな初夏の風。


食堂の窓から、その風がそっと入り込んできた。


鍋の湯気が揺れる。


笑い声が混ざる。


温かな匂いが広がる。


リーネはその光景を見渡しながら、静かに思う。


ああ。


幸せだな、と。


昔は、自分の魔法が嫌いだった。


弱い火。


小さな風。


戦えない力。


けれど今は違う。


この魔法で、誰かを笑顔にできる。


温めることができる。


それが何より嬉しかった。


アッシュがスープを飲み干し、満足そうに息を吐く。


「リーネ」


「はい?」


「おかわり」


リーネは吹き出した。


「はいはい、いっぱいありますよ」


立夏の風が、食堂を優しく吹き抜けていった。



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