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立夏のひかり

立夏のひかり


 カーテンの隙間から差し込む光が、数日前よりも明らかに白く、そして力強くなっている。

 清治はベッドの中でゆっくりと目を覚まし、手のひらを顔の前にかざしてみた。遮光カーテンを通り抜けてきたわずかな光さえ、白内障を患う彼の目には、チカチカとした刺激となって網膜を刺す。

「お父さん、起きてますか。もうすっかり朝ですよ」

 戸を叩く音とともに、娘の真由美が明るい声を響かせて入ってきた。

「ああ、起きているよ。なんだか、急に部屋の中が明るくなった気がするな」

「それもそのはずですよ。暦の上では、今日から**立夏**。つまり、今日から季節は春じゃなくて、夏になるんですって。外の空気も、なんだか昨日までとは全然違いますよ」

 真由美が勢いよくカーテンを開けると、部屋全体がまばゆい黄金色の光に満たされた。清治は思わず目を細め、手探りで枕元の老眼鏡を探したが、すぐにそれを諦めて、昨日から使い始めた度の強い遮光サングラスを顔にかけた。世界が一瞬で落ち着いた濃い灰色に染まり、じりじりと焼けるような光の痛みが和らいでいく。

「立夏か。もうそんな時期になるんだな。ついこの間まで、桜がどうのと言っていた気がするが」

「本当にね。でも、ほら、窓を開けると、外の匂いももう夏ですよ。青臭いというか、生命の匂いがするというか」

 真由美に促されて窓辺に近づくと、網戸越しに、むっとするような若い葉の香りが鼻腔をくすぐった。それは春の優しい花の香りとは違い、木々が水分をたっぷりと吸い上げて、一斉に葉を広げたとき独特の、力強く湿った匂いだった。

「本当だな。風が少し、肌にねっとりと絡みつくようだ。これが夏の始まりか」

「そうですよ。さあ、朝ごはんを食べたら、今日も少しお散歩に行きましょう。立夏の初日の光を浴びないと、損しちゃいますからね」


 居間へ移動すると、ちゃぶ台の上にはすでに朝食が並んでいた。炊きたてのご飯の甘い湯気と、出汁の香りが鼻をくすぐり、清治の張り詰めていた心がふっと緩んでいく。

「今日のお味噌汁はね、新わかめとお豆腐です。それから、近所の方からいただいた採れたての絹さやを炒めました」

「おや、それは贅沢だな。いただきます」

 箸を伸ばし、絹さやを口に運ぶ。シャキッ、という小気味よい音が頭蓋骨に響いた。噛みしめるたびに、口の中にみずみずしい緑のつゆが広がり、ほんのりとした自然の甘みが舌の上を転がる。

「うまい。この歯ごたえがたまらないな。春の名残りを感じるようで、それでいて夏の水分も含んでいる」

「ふふ、お父さん、食レポが上手になりましたね。でも、こうして美味しいものを美味しいと感じられるのが、一番の幸せです」

 真由美は自分の茶碗にご飯を盛りながら、嬉しそうに目を細めた。

 清治はふと、ちゃぶ台の端に置かれた小さなカレンダーに目をやった。もちろん、文字はほとんどぼやけて読めないが、真由美が太いマジックで大きく「立夏」と書いてくれた黒い塊だけは、辛うじて認識できた。

「真由美、お前がこうして毎日、季節の節目を教えてくれるから、私は目が見えづらくなっても、置いてけぼりにならずに済むよ。ありがうな」

「何言ってるんですか、水臭い。私はただ、お父さんと一緒に美味しいものを食べて、季節を楽しみたいだけですよ。さあ、しっかり食べて、外へ出かけましょう」


 玄関を出ると、頭上から降り注ぐ光の粒子が、皮膚をじりじりと刺激するのがわかった。まだ五月の初めだというのに、空気の底には確かな熱が溜まり始めている。

「お父さん、帽子もしっかり被ってくださいね。いくらサングラスをしていても、直射日光は目に良くないですから」

「わかっているよ。しかし、本当に眩しいな。まるで世界中の輪郭が、光で溶けてしまいそうだ」

 清治はキャップの庇を深く下げ、真由美の差し出す腕をそっと掴んだ。彼女の腕はいつも温かく、そして少しだけ汗ばんでいた。その皮膚の感触からも、新しい季節の訪れが伝わってくる。

 二人が歩く遊歩道の脇には、名もなき雑草が勢いよく背を伸ばしていた。踏みしめる土の感触も、冬のあの硬く凍てついた冷たさはどこにもなく、柔らかく、どこか熱を孕んでふかふかとしている。

「あ、お父さん、見て。あそこの生垣、つつじがもう満開を過ぎて、緑の新しい芽がどんどん出てきてる。まさに立夏の景色だわ」

「つつじか。あの燃えるような赤やピンクもいいが、それを押し退けるようにして出てくる新緑の緑っていうのは、本当に力強いものだな。目には見えなくても、頭の中に鮮やかな黄緑色が浮かぶようだよ」

「ええ、本当にきれい。光を浴びて、葉っぱがキラキラ光って、まるで若者たちがエネルギーを爆発させているみたい」

 真由美の声は弾んでいた。清治はその声のトーンから、目の前に広がるであろう、眩いばかりの緑のグラデーションを想像した。心の中に、じんわりと温かい灯がともる。体が不自由になっても、こうして娘の言葉を通じて、世界をより鮮明に、より美しく見ることができるのだ。


 しばらく歩くと、近くの川のせせらぎが聞こえてきた。サラサラ、チョロチョロと、水が岩にぶつかる涼しげな音が、耳から体の中へと染み込んでいき、体感温度をすっと下げてくれる。

「川の音が心地いいな。少し、ベンチで休もうか」

「そうしましょう。ちょうど木陰にいいベンチがありますよ」

 真由美に導かれて腰を下ろすと、頭上を覆う大きな欅の葉が、風に揺れてザワザワと音を立てた。木漏れ日がサングラスのレンズ越しに、不規則な模様となって揺らめいている。

 冷たい風が、清治の首筋を通り抜けた。

「あぁ、気持ちがいい。木陰に入ると、やっぱりまだ五月の爽やかさがあるな」

「ええ、これが立夏のいいところね。夏が始まるって言っても、本番のあの猛暑とは違って、風にはまだ涼しさが残ってる。一年の中で、一番過ごしやすい季節かもしれないわ」

「そうだな。移り変わる季節の中で、今が一番、命が伸びやかになる瞬間なのかもしれん」

 清治は深く息を吸い込み、胸いっぱいに立夏の空気を吸い込んだ。土の匂い、緑の匂い、そして水の匂い。それらが混ざり合った、瑞々しい匂いだ。

 隣に座る真由美が、ふぅ、と小さくため息をつくのが聞こえた。

「どうした、疲れたか?」

「ううん、疲れてないですよ。ただね、こうしてお父さんと一緒に、新しい夏を迎えられたのが、なんだか無性に嬉しくて」

「……そうか」

「去年、お父さんが目の手術をしたときは、もう一緒にお散歩なんてできないかもしれないって、私、本当はすごく不安だったんです。でも、こうしてサングラスをかけて、私の腕を掴んで、ちゃんと自分の足で歩いてる。それが、すごく愛おしいっていうか、ありがたいなって思って」

 真由美の声が、少しだけ震えているように聞こえた。

 清治は、サングラスの奥でそっと涙をにじませた。娘にそんな心配をかけていたのかという申し訳なさと、それ以上に、自分をここまで支えてくれた彼女への深い感謝が、胸の奥から溢れ出して止まらなくなった。

「真由美。私はな、目が見えなくなっていくのが怖かった。世界が真っ暗になって、誰とも繋がれなくなるんじゃないかって、毎日怯えていたんだ」

「お父さん……」

「でも、違ったな。お前が私の目になってくれた。お前が語る言葉、お前が教えてくれる匂いや音のおかげで、私の世界は以前よりもずっと、色鮮やかで、温かいものになった。今日という立夏の日を、こうして清々しい気持ちで迎えられたのは、全部お前のおかげだ。ありがとう」

 清治は、真由美の手をぎゅっと握りしめた。彼女の手は少し震えていたが、すぐに力強く握り返してきた。

「お父さん、何言ってるのよ、もう。泣かせないでくださいよ」

 真由美は鼻をすすりながら、照れ隠しのように笑った。その笑い声が、木漏れ日の溢れるベンチの周りに、優しく響き渡る。


「さあ、お父さん。そろそろお腹も空いてきたし、お家に帰りましょう。お昼はね、立夏のお祝いに、ちょっと贅沢なお素麺にしましょう。薬味をたくさん用意してありますから」

「おお、それはいい。冷たい素麺をツルツルとすする音、それこそが夏の始まりだな」

 清治は立ち上がり、再び真由美の腕をしっかりと掴んだ。

 サングラスの向こうの世界は相変わらず少し暗かったが、清治の心の中には、どんな太陽よりも眩しく、そして温かい、立夏のひかりがどこまでも広がっていた。二人は、心地よい風に吹かれながら、一歩一歩、確かな足取りで我が家へと歩き出した。



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