竹笋生(たけのこしょうず)
竹笋生
薫風のなかに生まれるもの
じっとりとした熱気が、容赦なく肌にまとわりついてくる。東京の五月半ばは、すでに夏の始まりというよりも、盛りを予感させるような濃密な空気に満たされていた。気温は三十二度。肌をなでる風は生ぬるく、七十パーセントを超える湿度が、呼吸をするたびに肺を重く満たしていく。まるで、見えない薄い真綿のカーテンに包まれているかのようだ。
「ねえ、聞いてる? もう『たけのこしょうず』の時期なんだって」
涼佳は、手にした小さな文庫本を広げたまま、隣を歩く大樹の顔を覗き込んだ。彼女の声は、この蒸し暑さを一時忘れさせてくれるような、鈴の音に似た透明感を持っている。
「たけのこ……何だって?」
大樹は額の汗を手の甲で拭いながら、少し目を細めた。
「竹に、筍に、生きる、って書いて、竹笋生。二十四節気の立夏の終わり、ちょうど五月の十五日から二十日くらいを指す言葉よ。新緑のなかで、タケノコがもこもこと元気に土から顔を出す頃、という意味なんですって」
「へえ、もこもこと、か。いい響きだな」
大樹は小さく笑った。文字を見るのが苦手な大樹にとって、涼佳がこうして言葉の意味や季節の移り変わりを声に出して教えてくれる時間は、何よりも愛おしいものだった。
スマートフォンの画面に並ぶ、無機質で複雑な文字の羅列。世間の人々が当たり前のように指先でスクロールし、瞬時に読み取っていく情報の世界に、大樹はついていくことができない。文字が躍り、歪み、意味を結ぶ前にすり抜けてしまうその感覚は、彼をずっと孤独にさせてきた。スマホを持たない生活は、現代において異端のようだったが、大樹にとっては自分を守るための静かな砦でもあった。
だからこそ、涼佳の語る言葉は、彼の乾いた心に心地よく染み渡る。
「なんだかさ、言葉を聞くだけで、緑の匂いがしてくるみたいだ」
「でしょ? ほら、このあたりもすっかり青葉の匂いが濃くなってる」
涼佳が指差した先には、古い民家の生垣から溢れんばかりに茂った若葉が、午後の強い光を浴びて輝いていた。ツンとした、生命力に満ちた青い香りが、湿った風に乗って大樹の鼻腔をくすぐる。
「本当に、もこもこと生えてきそうな勢いだ」
「ふふ、タケノコだけじゃなくて、この世界のあらゆる命が、一気に背伸びをしている季節なのよ。大樹、ちょっとあそこの木陰で休まない? さすがにこの暑さは応えるわ」
「そうだね。自販機で冷たいものでも買おう」
二人は大きな欅の木が作る、濃い影の中に逃げ込んだ。直射日光を遮られただけで、肌に触れる空気がわずかにひんやりと感じられる。大樹はポケットから小銭を取り出し、自販機のボタンを勘で押した。ガサリと落ちてきた缶を手にする。缶の表面にはびっしりと冷たい水滴がついていて、触れた手のひらから熱が引いていく。
「はい、涼佳」
「ありがとう。冷たーい! 生き返るわ」
涼佳は缶を頬に当てて、嬉しそうに目を細めた。カシャリと心地よい音を立ててプルタブを開け、喉を鳴らして飲み干す。その様子を見ているだけで、大樹の胸の奥にある、文字が読めないことへの日頃の劣等感や焦燥感が、すうっと溶けていくようだった。
「大樹は、タケノコって好き?」
「食べる方? それとも、見る方?」
「どっちも」
「食べるなら、出汁でじっくり煮たやつがいいな。噛むとシャキッとして、口の中に山の香りが広がるやつ。見る方なら……そうだな、一度、本当の竹林で、土を押し上げて出てくる瞬間を見てみたいよ」
「きっと、ものすごいエネルギーなんでしょうね。地面が盛り上がって、パカッと割れて、中から茶色い皮をかぶった尖った頭が見えるの。想像するだけで、なんだかワクワクしない?」
「うん。でも、文字で『竹笋生』って書かれても、俺にはただの線の集まりにしか見えないんだ。涼佳がこうして、言葉の背景にある景色を教えてくれないと、俺にはそのワクワクが届かない」
大樹は少し視線を落とし、缶の冷たさに集中するように指先を動かした。ほんの少しだけ、苦い感情が胸をよぎる。
涼佳は缶をベンチに置くと、大樹の隣にそっと腰掛けた。彼女から、お気に入りの石鹸の、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「大樹」
名前を呼ばれて顔を上げると、涼佳のまっすぐな瞳がそこにあった。
「文字が読めることと、世界を豊かに感じることは、同じじゃないわ。私は本を読んで知識を得るけれど、大樹は風の匂いや、鳥の声や、肌に触れる空気で、私よりもずっと鮮やかに季節を感じ取っているじゃない。さっきだって、私が言う前に『緑の匂いがする』って言った。それは大樹の心が、ちゃんと世界の言葉を受け取っている証拠よ」
「世界の言葉、か」
「そう。文字は、その一部でしかないわ。大樹の耳や目や肌は、もっとたくさんのことを知っている。だから、引け目を感じる必要なんて、どこにもないの。私が文字の係なら、大樹は五感の係。二人でいれば、完璧じゃない?」
涼佳は悪戯っぽく笑って、大樹の肩をぽんと叩いた。
大樹は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。湿った重い空気が、急に心地よい温もりに変わったかのような錯覚を覚える。
「ありがとう、涼佳。お前といると、自分が間違っていない気がしてくるよ」
「間違ってなんかいないわよ。さあ、せっかくの『竹笋生』だもの。もっと季節を感じに行こう」
「どこへ?」
「近くに、小さな竹林がある公園があるの。そこなら、本当にもこもこ顔を出しているタケノコに会えるかもしれないわ」
「よし、行こう」
二人は再び、強い光が降り注ぐアスファルトの上へと歩き出した。
歩くほどに、じっとりとした汗がシャツを濡らしていく。だが、先ほどまでの不快感は消え去っていた。蝉の声にはまだ早い、けれど生命の息吹で満ち満ちた街の雑音が、耳に心地よく響く。遠くで子供たちの歓声が聞こえ、どこかの家から風鈴の涼しげな音がチリンと一度だけ鳴った。
公園の入り口に近づくと、空気の質が変わった。木々の密度が増し、ひんやりとした湿気を含んだ、深い緑の匂いが押し寄せてくる。
「こっちよ、大樹」
涼佳に手を引かれ、大樹は木漏れ日の躍る小道を歩いた。やがて、視界が開けると、そこには見事な竹林が広がっていた。まっすぐに伸びた青竹たちが、微風に揺れてサラサラと笹の葉を擦れ合わせている。その音は、まるで波のさざめきのようで、聴くだけで耳の奥が涼しくなる。
「わあ、すごい……」
大樹は足を止め、深く息を吸い込んだ。竹林独特の、清々しくもどこか厳かな匂いが、体中を満たしていく。
「大樹、見て、あそこ!」
涼佳が興奮した声で、少しぬかるんだ地面を指差した。
大樹は視線を落とし、目を凝らした。古い落ち葉を押し除け、確かにそこから、黒ずんだ茶色の皮に包まれた頭が、力強く突き出していた。それは一つだけではなかった。あちらにも、こちらにも、大小さまざまな尖った先端が、地表を割って顔を出している。
「本当だ……。本当に、もこもこと生えてる」
「ね? 私の言った通りでしょう?」
大樹はしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。一番近くにあるタケノコの、まだ湿り気を帯びた皮に触れてみる。ザラザラとした力強い質感が、指先を通じて大樹の心に直接訴えかけてきた。
それは、文字という記号を通さずとも、ダイレクトに伝わってくる「命」そのものの手触りだった。
土の湿った匂い、笹の葉が擦れ合う涼やかな音、肌を包む濃厚な夏の気配。それらすべてが、大樹の中で「竹笋生」という季節の意味として結実していく。
「読めなくても、わかるよ」
大樹は呟いた。その声は、竹林の静寂に優しく吸い込まれていった。
「俺には、これが何て言っているか、ちゃんと伝わる。生きようとしてる。力いっぱい、上に向かって伸びようとしてるんだな」
涼佳は大樹の隣で同じようにしゃがみ込み、嬉しそうに頷いた。
「ええ。大樹の心には、ちゃんとその文字が刻まれているわ。誰よりも深く、ね」
見上げれば、青々とした竹の隙間から、五月の眩しい青空が覗いていた。湿度を孕んだ風が再び二人の頬を撫で、竹林を揺らしていく。大樹は立ち上がり、大きく胸を張った。
文字の世界では迷子になる自分でも、この豊かな世界の真ん中で、確かに生きている。タケノコたちが力強く土を押し上げるように、自分もまた、自分のやり方でこの季節を、この人生を歩んでいけばいい。
「涼佳、次はどの季節の言葉を教えてくれる?」
「そうねえ、次は『麦秋』かしら。麦の刈り入れの時期のことよ。また面白い景色を探しに行きましょう」
「楽しみにしているよ」
二人は微笑み合い、緑の匂いが満ちる竹林を後にした。大樹の足取りは、先ほどよりもずっと軽く、確かなものになっていた。夏の入り口の、眩しい光のなかへと、二人の影が並んで伸びていった。




