5月21日 花筏
花筏
風薫る五月の朝だった。村はずれの坂道を登ると、若葉の匂いがむっと鼻を満たし、湿った土が草履の裏に柔らかく貼りついた。遠くの山には雪解富士が白く浮かび、空の青に滲んでいた。
「おーい、清次!」
背後から声が飛んできて、清次は振り返った。苗売の荷を背負った弥助が、汗を拭きながら坂を上がってくる。
「お前、また滝のとこ行くのか」
「うん」
「飽きねえなあ。あそこ、昼でも冷えるだろ」
「冷たい方がいいんだ」
清次は笑った。弥助は肩をすくめる。
「変なやつだ。あ、そうだ。今日、縁日だぞ。金魚も来るって」
「金魚?」
「赤いやつ。尾の長いやつ。お前好きだろ」
そう言われて、清次の胸が少し動いた。だが結局、「あとで行く」とだけ返した。
滝へ続く山道には桐の花が落ちていた。淡い紫が湿った石に貼りつき、踏むと甘い匂いが立つ。滝壺のそばへ行くと、水煙が頬を冷やした。
そこに、女がいた。
黒い着物だった。黒牡丹の柄が水しぶきで濡れ、光を吸い込んでいる。
「また来たの」
女は滝を見たまま言った。
「うん」
「暇ね」
「そっちこそ」
女がふっと笑う。細い肩が少し揺れた。
名を、志乃という。春先から時々ここで会うようになった。村の者ではないらしい。どこから来たのか、清次は知らない。
「今日は暖かい」
志乃が言った。
「風が夏めくね」
「夏めく、か」
清次はその言葉を口の中で転がした。滝の音に混じり、夏鴨の鳴き声が遠くから聞こえる。
「変な顔」
「いや、そんな言葉、女の人しか使わないと思ってた」
「じゃあ覚えなさい」
志乃はそう言って、石に腰を下ろした。
「座れば?」
清次も隣に座る。濡れた岩は冷たかった。
「今日は町へ行くんだ」
志乃が言う。
「縁日?」
「うん。サングラス売ってるって聞いた」
「サングラス?」
「黒い眼鏡。西洋の」
清次は吹き出した。
「似合わないだろ」
「失礼ね」
志乃はむっとして顔を逸らした。だがその横顔を見ていると、清次は急に胸がざわついた。
滝の匂い。濡れた髪。白い首筋。
言葉が喉に詰まる。
「……なに」
「いや」
「変なの」
志乃は立ち上がった。
「町、行くなら一緒に来る?」
「いいのか」
「一人つまらないし」
縁日は川沿いに並んでいた。焼いた帆立貝の匂いが漂い、子供たちが金魚を追い回している。麦刈を終えた男たちが酒を飲み、女たちは夏シャツ姿の若者を笑って見ていた。
「うわあ」
志乃が目を輝かせる。
「すごい人」
「迷うなよ」
「子供扱いしないで」
そう言いながら、志乃は清次の袖を掴んだ。指先が細く、少し冷たい。
金魚屋の前で二人は足を止めた。
赤、白、黒。
水桶の中で尾が揺れる。
「綺麗」
志乃がしゃがみ込む。
「欲しい?」
「ううん。見てるだけでいい」
その時だった。
「お、清次!」
弥助が酒臭い顔で現れた。
「お前、女連れか!」
「うるさい」
「紹介しろよ!」
志乃は小さく会釈した。
「志乃です」
「へえ、綺麗な人だなあ!」
「声でかい」
清次が睨むと、弥助はげらげら笑った。
「まあいいや。ほら、梅干食うか?」
竹の皮に包まれた梅干を押しつけられる。志乃は一粒口に入れ、顔をしかめた。
「すっぱい!」
「ははは!」
弥助が腹を抱える。
その笑い声につられて、清次も笑った。
志乃も笑った。
その瞬間だった。
胸の奥で何かがほどけた。
夕方になると、空が薄桃色に変わった。川面に屋台の灯りが揺れる。
志乃はサングラスを買っていた。
「見て」
黒い眼鏡をかける。
「似合う?」
「変」
「ひどい!」
けれど二人とも笑っていた。
笑いながら、清次は急に怖くなった。
こんな時間が、ずっと続くわけではない気がした。
「ねえ」
志乃が静かに言った。
「私、もうすぐ村を出るの」
胸が冷えた。
「……どこへ」
「町」
「帰るのか」
「うん」
川風が吹いた。若葉の青臭い香りが混じる。
「いつ」
「明後日」
清次は何も言えなかった。
縁日の喧騒が遠くなる。
金魚の水音だけが耳に残った。
「怒った?」
「怒ってない」
「嘘」
「嘘じゃない」
志乃は少し黙り、それから言った。
「ねえ、滝で初めて会った時、あなた、泣いてた」
清次は息を止めた。
「見てたのか」
「うん」
「……恥ずかしいな」
「なんで泣いてたの」
清次はしばらく黙っていた。
滝の冷たさ。あの日の匂い。誰にも言えなかった寂しさ。
「母親が死んだんだ」
ようやく声が出た。
「だから毎日あそこ行ってた。滝の音聞いてると、何も考えなくて済むから」
志乃は何も言わなかった。
ただ静かに隣を歩いた。
やがて小さく口を開く。
「私もね、父親が死んでから、ずっと逃げてた」
「逃げる?」
「一人になるのが嫌で」
夕暮れの光が志乃の横顔を染める。
「でも、ここであなたに会えて、少し怖くなくなった」
清次は胸が熱くなった。
言葉がうまく出ない。
代わりに、そっと志乃の手を握った。
細い指が震えた。
「……また来る?」
清次が聞く。
志乃は少し笑った。
「わからない」
「そっか」
「でも」
彼女はサングラスを外した。
その目は、滝壺みたいに深く澄んでいた。
「忘れない」
川の向こうで花火が上がった。
白い光が夜空に咲き、遅れて腹に響く音が来る。
金魚の赤が揺れる。
風薫る夜だった。
5月21日
苗 売
金 魚
滝
黒牡丹
桐の花
夏 鴨
サングラス
牡 丹
夏シャツ
麦 刈
雪解富士
帆立貝
梅 干
風薫る
若 葉
夏めく
牡 丹
サングラス
花




