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薫風のパレット

薫風のパレット


 五月の風は、生き物の匂いがする。初夏の光をいっぱいに吸い込んだ青葉が擦れ合う匂いだ。

 坂本家の庭先には、朝から色とりどりの命が並んでいた。

「お父さん、この苗、どこに植えるの。もう植える場所なんて残ってないじゃない」

 長女の葵が、麦わら帽子を気怠そうに揺らしながら言った。彼女の指先には、小さなビニールポットに入ったトマトの苗が握られている。湿った黒土の懐かしい香りが、初夏の生ぬるい空気に混ざって鼻腔をくすぐった。

「馬鹿を言うな。土がある限り、植える場所はある。ほら、そこ、日当たりがいいだろう」

 父親の哲也は、額の汗を実用的な無骨な手で拭いながら笑った。庭の一角には、すでに『苗売』から買い込んできたナスやキュウリの苗が、出番を待つようにしゃんと首を伸ばしている。

 五月二十一日の陽射しは、すでに優しさを脱ぎ捨て、肌をじりじりと焦がすような熱を孕み始めていた。まさに『夏めく』という言葉がぴったりの、季節の変わり目だ。庭の隅にある小さな池では、昨日お祭りの露店ですくってきたばかりの『金魚』が、真っ赤な尾ひれをひらひらと揺らして涼しげに泳いでいる。その規則的な水の揺らぎを見ているだけで、喉の奥が乾いてくるようだった。

「ねえ、お姉ちゃん、お父さん。これ、見て」

 居間の縁側から、のんびりとした声を出したのは母親の美智子だった。彼女の手には、大ぶりの『サングラス』が握られている。それをかけると、美智子の穏やかな顔立ちが急に都会的な、少しお調子者っぽい雰囲気に変わる。

「どう、似合うかしら。今年の紫外線は強いんですって」

「母さん、それじゃまるで昔の映画の悪役だよ」

 哲也が吹き出すと、美智子は不満そうに口を尖らせた。

「失礼ねえ。これでも『夏シャツ』の薄いブルーに合わせて選んだのよ。涼しげでいいじゃない」

 彼女が着ている麻のシャツは、風が吹くたびにふわりと揺れて、見る者にかすかな涼を運んでくる。美智子はサングラスをずらし、庭の向こうの山並みに目を細めた。

「でも、本当にいいお天気。あそこの『雪解富士』も、もうすっかり青い部分が多くなって。真っ白だった冬が嘘みたいね」

 遠くに見える富士山の山肌は、劇的に雪を減らし、夏の骨格を露わにしつつあった。

「そうだね。もうすぐ『麦刈』の季節だし、季節が巡るのは早いや」

 葵は庭の木陰に腰を下ろした。視線の先には、見事に大輪の花を咲かせている『牡丹』の株がある。薄紅色の花びらが幾重にも重なり、圧倒的な存在感を放っていた。そのすぐ隣には、深みのある濃紫色の『黒牡丹』が、まるで影を凝縮したかのような高貴な姿で佇んでいる。

「牡丹って、なんだか甘い匂いがする。ちょっと眠くなるような、重たい匂い」

 葵が呟き、花びらにそっと指を触れた。ベルベットのような滑らかな感触が、指先から脳裏へと染み渡っていく。

「花と言えば、裏の『桐の花』も綺麗に咲いているわよ。あの淡い紫色は、見ているだけで胸がすっとするわね」

 美智子が縁側から立ち上がり、台所へと引っ込んでいった。しばらくすると、トントンと小気味よい包丁の音が響き始める。お昼ごはんの支度だ。

 庭仕事の手を止めた哲也が、葵の隣に腰を下ろした。彼の首に巻かれたタオルからは、汗と土の匂いが立ち上っている。

「葵、お前、最近仕事はどうなんだ。元気にやっているのか」

「普通だよ。相変わらず忙しいけどね」

 葵は視線を地面に落とした。都会の喧騒の中で、文字と言葉の海に溺れそうになりながら働く日々。文字を読むことが少し苦手な彼女にとって、書類の山と格闘する毎日は、心に薄いガラスの破片が溜まっていくような痛みを伴うものだった。だからこそ、こうして実家に戻り、ただ五感で感じられる自然の中に身を置く時間が、何よりも愛おしかった。

「無理はするなよ。疲れたら、いつでも帰ってくればいい」

「わかってる。お父さんは心配性だなあ」

 葵は笑ってみせたが、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

「お昼ができたわよ。今日はさっぱりしたものにしたから、二人とも上がって」

 美智子の弾んだ声が家の中に響く。

 二人が足を洗って居間に上がると、食卓には夏を先取りしたような料理が並んでいた。

「わあ、美味しそう」

 葵の目が輝いた。大皿に盛られているのは、ぷりぷりとした『帆立貝』の刺身だ。貝殻の白さと、身の淡いピンク色が、目にも鮮やかだった。その横には、我が家で漬けた自家製の『梅干』が、真っ赤な顔をして鎮座している。

「この梅干、おばあちゃんの味がする」

 葵が一粒口に含むと、強烈な酸っぱさと塩気が口いっぱいに広がり、じわっと唾液が溢れ出た。それと同時に、体の中からシャキッとした元気が湧いてくるような気がする。

「そうでしょう。去年の梅だけど、ちょうどいい塩梅に仕上がったのよ。帆立の甘みと、梅の酸っぱさって、すごく合うの」

 美智子が嬉しそうに言いながら、冷たいお茶を注いでくれた。

 窓からは、ひんやりとした『風薫る』五月の風が吹き込んできて、風鈴をチリンと鳴らした。部屋の隅には、昨日哲也が山から折ってきた『若葉』の枝が花瓶に生けられており、瑞々しい青葉の香りが部屋を満たしている。

「そう言えばさっき、川のほうで『夏鴨』を見たわ。もうみんな北へ帰ったと思ったのに、居残り組がいるのね。一羽で寂しそうに泳いでいたわよ」

 美智子がしみじみと言う。

「鴨も、この土地が気に入ったんだろう。居心地がいい場所からは、誰だって離れたくないさ」

 哲也がそう言って、帆立の刺身を美味そうに頬張った。

 葵は窓の外に広がる、青々とした景色を眺めた。遠くの山からは、かすかに『滝』の落ちる轟音が、地鳴りのように響いてくるような気がした。目に見える緑、耳に届く水の音、肌を撫でる薫風、そして口の中に広がる酸味と甘み。そのすべてが、都会で強張っていた葵の心をゆっくりと解きほぐしていく。

「私、この家が好きだな」

 ぽつりと呟いた葵の言葉に、哲也と美智子は顔を見合わせ、優しく微笑んだ。

「いつでもここにいるからね。お前の席は、ずっとここにあるんだから」

 美智子が葵の手をそっと握りしめた。その手の温もりが、何よりも心強かった。

 五月の陽射しはさらに輝きを増し、坂本家の庭を、そして三人の未来を、眩いほどの光で満たしていた。



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