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小満

小満


 朝の畑は、昨夜の雨をまだ抱えていた。土は黒く湿り、踏むたびにぬるりと草履の裏へまとわりつく。麦の穂は陽を受けて柔らかく揺れ、村の向こうの山からは、若葉の匂いを含んだ風がゆっくり流れてきた。


「おーい、遅いぞ春一!」


 畦道の先で、宗吉が鍬を肩に怒鳴った。


「寝坊か!」


「違うよ、鶏が逃げたんだ」


「またか。お前んとこの鶏、頭いいな」


 宗吉が笑う。春一は息を切らせながら畑へ降りた。


 今日は小満だった。草木も獣も満ちはじめる頃だと、死んだ祖父がよく言っていた。畑の苗は日に日に伸び、田には水が入り、空気の中まで青く膨らんでいる気がする。


「雨のあとって、匂い違うよな」


 春一が言うと、宗吉は鼻を鳴らした。


「土臭いだけだろ」


「違うよ。なんか、生き返る匂い」


「詩人か、お前」


 鍬を振る音が湿った畑へ鈍く響く。遠くでは滝の音がかすかに混じっていた。


 昼近くになると陽が強くなった。額を流れる汗が首筋を伝い、夏シャツが背中へ張りつく。


「腹減ったな」


 宗吉が腰を伸ばす。


「お前んち、今日は何だ」


「梅干と沢庵」


「寂しいなあ」


「宗吉んちは」


「帆立貝だってよ。昨日、叔父貴が港から持ってきた」


「いいな!」


「来るか?」


「行く!」


 宗吉は笑いながら水筒を放った。ぬるい麦茶が喉を通る。乾いた身体に染みこんで、春一は大きく息を吐いた。


 その時だった。


「春一くん!」


 甲高い声が畑道から飛んだ。


 振り向くと、藍色の日傘を差した娘が立っている。白い頬が日に透け、髪には桐の花が一つ挿してあった。


「千代」


 春一の声が少し裏返る。


 宗吉がにやりと笑った。


「お、来た来た」


「何しに来たの」


 春一が聞くと、千代はむっと口を尖らせた。


「来ちゃ駄目なの?」


「いや、そうじゃなくて」


「母さんが、お団子届けろって」


 竹の皮包みを差し出される。開けると、甘い醤油の香りがふわりと立った。


「うまそう!」


 宗吉が先に手を伸ばす。


「宗吉さんのじゃありません!」


「けち」


 千代は笑った。


 その笑い声を聞くたび、春一は胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


 子供の頃から知っているのに、去年の夏くらいから急に目を合わせづらくなった。


「……ありがとう」


 春一が言うと、千代は少しだけ目を細めた。


「今日、お祭り行く?」


「祭り?」


「小満祭り。知らないの?」


「忘れてた」


「村じゅう行くのに」


 宗吉が吹き出した。


「お前ほんと畑しか見てねえな」


 千代は春一の顔を覗きこんだ。


「行こうよ」


「俺と?」


「嫌なら別にいいけど」


「嫌じゃない!」


 思わず大きな声が出た。


 千代はきょとんとして、それから笑った。


「変なの」


 夕方、祭りの広場には赤い提灯が並び、人の熱気で空気まで温かかった。焼き魚の煙、甘酒の匂い、草履の擦れる音。子供たちが走り回り、金魚すくいの水が灯りを揺らしている。


 春一は落ち着かなかった。


 隣を歩く千代の肩が近い。


 髪から、ほんのり花みたいな匂いがする。


「ねえ」


 千代が袖を引く。


「あれ見て」


 射的屋の隣に、西洋帰りだという男がサングラスを並べていた。


「黒い眼鏡?」


「珍しいよねえ」


 千代が一つ掛ける。


「どう?」


「……変」


「またそれ!」


 頬を膨らませる姿がおかしくて、春一は吹き出した。


 すると千代も笑う。


 二人で笑っているうち、胸のつかえが少し溶けた。


 舞台では太鼓が鳴り始めた。腹へ響く重い音。夜風が汗を冷やす。


「踊ろうよ」


 千代が言った。


「え、俺無理」


「なんで?」


「下手だから」


「大丈夫だって」


 千代は春一の手を掴んだ。


 柔らかい手だった。


 春一の心臓が跳ねる。


 輪の中へ引っぱりこまれ、見よう見まねで踊る。笑い声、笛の音、土埃。村の女たちの着物が花みたいに揺れている。


「春一くん!」


「な、何!」


「顔真っ赤!」


「暑いから!」


「ほんとかなあ」


 千代が悪戯っぽく笑う。


 春一はまともに見返せなかった。


 祭りが終わるころ、空には細い月が浮かんでいた。帰り道、田の水面が銀色に光る。蛙が鳴き、どこかで夏鴨が羽を打った。


 二人はしばらく黙って歩いた。


 風が若葉を鳴らす。


「ねえ」


 千代が小さく言った。


「もうすぐ、兄さん帰ってくるの」


「町にいた?」


「うん。でも怪我して帰るんだって」


 春一は足を止めた。


「怪我」


「工場で」


 千代の声は暗かった。


「母さん、泣いてた」


 春一は何と言えばいいかわからなかった。


 夜の田んぼから湿った匂いが立つ。遠い滝の音が、静かに聞こえた。


「怖いの」


 千代がぽつりと言う。


「兄さん、変わっちゃってたらどうしようって」


 春一は少し考えて、それから言った。


「変わっても、兄さんだろ」


「……うん」


「帰ってくる場所があるなら、大丈夫だよ」


 千代は立ち止まった。


 暗い道で、じっと春一を見る。


「春一くんって、時々ずるい」


「え?」


「そういうこと、すぐ言う」


「何が?」


「優しいこと」


 胸が熱くなる。


 風が吹き、若葉がざわめいた。


 小満の夜だった。


 世界は静かに満ちはじめている。


 田も、草も、人の心も。


 春一は、隣を歩く千代の手にそっと触れた。


 千代は驚いた顔をして、それから少しだけ指を握り返した。


 その温かさを、春一は長い間離せなかった。



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