小満の雫に濡れる
小満の雫に濡れる
じっとりとした湿気が、まとわりつくような重さで肌を包んでいた。五月の半ばを過ぎた空気は、どこか青臭い。青葉が雨を吸って急速に膨らむ、その青々とした匂いが鼻腔をくすぐる。
二十四節気でいう「小満」。あらゆる生命が満ち満ちていくとされる時期だが、今の真奈美の心は、それとは真逆の、底の抜けた器のように空っぽだった。
駅前の小さな喫茶店。窓の外では、さっきからポツポツと、アスファルトを黒く染める雨が降り始めている。
「真奈美、本当にそれでいいの?」
目の前に座る幼馴染の拓也が、心配そうに眉をひそめて覗き込んできた。彼の前にあるアイスコーヒーのグラスは、表面にびっしりと涙のような水滴を浮かべ、コースターに小さな水溜りを作っている。
「いいも悪いもないよ。もう決まったことだもん」
真奈美は冷え切った自分の指先を包むように、温かいアールグレイのカップを両手で握りしめた。湯気と共に立ち上るベルガモットの華やかな香りが、かえって胸を締め付ける。
「決まったことって……。あんな一方的な通告、納得できるわけないだろ。あいつ、真奈美のこれまでの努力を何だと思ってるんだ」
拓也の声が少し大きくなり、カランとグラスの中の氷が鋭い音を立てた。
「声が大きいよ、拓也」
真奈美は苦笑混じりに視線を落とした。
彼女が三年間にわたって企画を温め、ついに立ち上げるはずだった新しい香水のブランド。そのチーフデザイナーの座を、上司の身内という理由だけで、昨日やってきたばかりの若い男に横取りされたのだ。悔しさというより、あまりの理不尽さに頭の芯が痺れてしまい、涙さえ出なかった。
「だってさ、悔しくないのかよ。お前がどれだけあの香りの調合に苦労してたか、俺は見てきた。夜遅くまで部屋にこもって、試作の瓶に囲まれて……」
「悔しいよ。悔しくて、昨日は一歩も動けなかった」
真奈美はカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
紅茶の琥珀色の水面が、窓の外の鈍色の空を映して、暗く沈んでいる。
「だったら、会社に抗議するとかさ」
「そんなことして、何が変わるの? トップが決めたことだもん。私が騒いだら、余計に居場所がなくなるだけ。……それにね、もういいの。なんか、疲れちゃった」
その言葉は、口にすると同時に、真奈美自身の体から最後のエネルギーを奪っていくようだった。
「諦めるなよ、真奈美」
拓也の手が、テーブルを挟んで真奈美の右手に重なった。彼の掌はいつも温かい。少しがさついた皮膚の感触が、冷え切った真奈美の肌に、じんわりと熱を伝えてくる。
「諦めてないよ。ただ、別の道を考えるタイミングなのかなって、そう思うようにしてるだけ」
真奈美はそっと手を引き、窓の外へ視線を逃がした。
雨はいつの間にか本降りになっていた。ガラス窓を斜めに滑り落ちていく無数の水滴。その向こうで、街路樹のハナミズキの葉が、雨の重みに耐えかねるように、時折大きく揺れている。新緑の葉は、水分を含んで、驚くほど鮮やかな深い緑色に輝いていた。
「別の道って、具体的にどうするつもりなんだ?」
拓也が静かに尋ねる。怒りのトーンは消え、そこには純粋な思いやりだけが残っていた。
「まだ何も決めてない。でも、このままあの場所にいたら、自分の作った香りを嫌いになっちゃいそうで。それが一番怖いんだよね」
真奈美は小さく息を吐き出し、紅茶を一口すすった。渋みと、かすかな甘みが口の中に広がる。
「……そっか。真奈美がそう言うなら、俺は引き止めないけど」
拓也は少し寂しそうに笑い、自分の頭をくしゃりと掻いた。
「でも、溜め込むなよ。俺でよければ、いつでも愚痴くらい聞くからさ」
「ありがとう、拓也。そう言ってくれるだけで、救われる」
真奈美は微笑んだ。胸の奥の澱が、彼の優しい言葉によって、少しだけ融かされていくような気がした。
二人はそれから、他愛のない昔話をしながら、雨が小降りになるのを待った。高校生の頃、急な雷雨に降られて、二人でこの同じ喫茶店に駆け込んだこと。ずぶ濡れになりながら食べた、あのときのホットケーキの甘い匂い。過去の記憶の温もりが、現在の冷え切った現実を、少しずつ包み込んでいく。
一時間ほどして、窓の外の景色が明るくなってきた。雲の切れ間から、夕方の柔らかい光が差し込み、雨上がりの街を照らし始める。
「あ、雨、止んだみたいだね」
真奈美が窓を見上げると、濡れたアスファルトが夕日を反射して、まるで銀色の川のように輝いていた。
「よし、じゃあ出ようか。少し歩こう。雨上がりの空気、気持ちいいぞ」
拓也が席を立ち、伝票を手に取った。
店を出ると、洗われたばかりの空気が、驚くほど澄んで真奈美の肺を満たした。アスファルトの濡れた匂いと、土の匂い、そして雨を吸って一段と濃くなった青葉の香りが混ざり合っている。
「ほら、見てみろよ」
拓也が指差した先には、小さな公園の生垣があった。
そこには、雨の雫をたっぷりと乗せたクチナシの蕾が、今にも咲きそうに膨らんでいる。
「小満、か……」
真奈美はその瑞々しい緑と白のコントラストを見つめながら、呟いた。
万物が満ちていく季節。自然はこうして、誰に褒められるでなくとも、ただじっと雨を耐え、次の瞬間に向けて生命を膨らませている。
「何が小満だよ。難しい言葉使うなよ」
拓也が可笑しそうに笑う。
「今の時期のことだよ。全てのものが、少しずつ満ちていく季節。……私の心も、いつかまた、ちゃんと満ちるかな」
真奈美の言葉は、夕暮れの風に溶けていくように儚かった。
「満ちるに決まってるだろ」
拓也は立ち止まり、真っ直ぐに真奈美の目を見た。その瞳には、夕日のオレンジ色の光が、力強く宿っている。
「お前がこれまで注いできた努力は、消えたわけじゃない。ただ、次の器に移動するだけだ。俺が、その器を探すのを手伝うから」
その言葉が、真奈美の耳から胸へと、温かい雫となって染み渡っていった。
視界が急に潤んで、街の灯りがにじむ。それは悔し涙ではなく、自分の存在を肯定されたことへの、深い感謝の涙だった。
「……うん。ありがと」
真奈美は、溢れそうになる涙をこらえるように、大きく頷いた。
頬を撫でる風は、もう冷たくはなかった。
雨上がりの湿った土を踏みしめながら、真奈美は一歩、前に足を踏み出した。横を歩く拓也の、規則正しい足音が心地よく響く。
失ったものは大きい。けれど、この胸に新しく満ち始めようとしている温かい何かが、確かにそこにはあった。夕暮れの空に、うっすらと架かった虹の足元を目指すように、二人は静かに歩き続けた。




