5月22日 風薫るころ
風薫るころ
朝の光はまだ白く、縁側の板を淡く照らしていた。庭の若葉が風に揺れ、そのたび青い匂いが家の中へ流れ込む。五月の終わりは、春とも夏ともつかぬ気配を抱えている。
「おーい、起きてるか」
土間から声がした。低く、少ししゃがれた男の声だ。
千代は味噌汁の鍋をかき回す手を止めた。
「開いてるよ」
戸が引かれ、外の光とともに庄吉が入ってくる。麦わら帽子を手にしていて、額にはすでに汗がにじんでいた。
「朝から暑いねえ」
「薄暑ってやつだな。昼にはもっとくるぞ」
庄吉は鼻を鳴らしながら座敷へ上がる。畳がぎしりと鳴った。彼の着物には川の水の匂いがついていた。青臭く湿った、初夏の匂いだ。
「滝のほう行ってきたの?」
「うん。藻刈り頼まれてな。水ぬるくなってた」
千代は椀によそった味噌汁を差し出した。湯気の向こうで庄吉の顔が少し柔らかく見える。
「うまそうだ」
「昨日の豆腐が残ってたから」
外では風が鳴っている。庭先のかきつばたが紫の花を開き、その奥では大牡丹が重たげに揺れていた。陽を浴びた花びらは絹みたいに見える。
「今年は牡丹が長いね」
「ああ。雨が少ねえからかな」
庄吉は汁をすすった。喉を鳴らす音が静かな家に響く。
「そういや、祭の話聞いたか」
「八幡様の?」
「来月だってさ。神輿、今年は出すらしい」
千代は少し笑った。
「去年は雨で中止だったものね」
「おまえ、祭好きだもんな」
「嫌いな人いる?」
「いるさ。酔っぱらい嫌いなやつとかな」
ふたりで笑った。
風薫る季節だった。窓を開ければ草の匂いが入り、遠くで川音が聞こえる。空は高く、雲は白い。
庄吉は汁を飲み干すと、ふっと息をついた。
「麦の秋だなあ」
「まだ青いじゃない」
「いや、あの色。黄金になる前のな。あれ見ると夏が来るって気がする」
千代も畑道の景色を思い出した。風に波打つ麦畑。陽の光を受けた穂がきらきら揺れて、まるで水面みたいになる。
「ねえ、庄吉」
「ん?」
「夏って、少し寂しくない?」
「なんだ急に」
「だって、始まる前が一番いいんだもの」
庄吉はしばらく黙った。
庭で金魚鉢の水が揺れる音がする。赤い尾がちらりと光った。
「終わるの知ってるからじゃねえか」
千代はその言葉に目を伏せた。
母が死んで三年になる。夏浅しのころだった。梅を干す匂いが庭に満ちていて、蝉もまだ鳴いていなかった。
あの日も、こんな風が吹いていた。
「……千代?」
「あ、ごめん」
庄吉は気づいたように視線をやわらげた。
「無理に笑わなくていいぞ」
「笑ってないよ」
「嘘つけ」
千代は小さく吹き出した。
「庄吉って変に優しい」
「変ってなんだ」
「もっと乱暴な顔してるのに」
「余計なお世話だ」
庄吉は照れ隠しみたいに立ち上がると、縁側へ出た。風が彼の袖をはためかせる。
「お、夏の鴨だ」
「え?」
千代も隣へ出る。空を低く横切る影があった。川のほうへ飛んでいく。
「ほんとだ」
「巣でも作ってんのかな」
陽射しはもう昼の色になり始めていた。畳の匂いが温まり、遠くで子どもの笑う声が聞こえる。
「そういや繭、今年は出来いいらしいぞ」
「蚕部屋、暑いでしょうねえ」
「夏の虫ってやつは元気だからな」
庄吉は縁側に腰を下ろした。千代も隣へ座る。
肩が触れそうで触れない。
「なあ」
「なに?」
「祭、一緒に行くか」
風が吹いた。
若葉がざわめき、青い光が庭に散る。
「……いいの?」
「なんでだよ」
「だって庄吉、去年は友達と」
「今年はおまえと行きたい」
その言葉は驚くほど真っ直ぐだった。
千代は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。薄暑のせいだけではない。
「焼き鮑の屋台、出るかな」
「食い気かよ」
「大事でしょう」
「まあな」
庄吉は笑った。
その笑い声を聞いていると、不思議と安心した。
川のほうから水音が届く。滝のしぶきの冷たさまで想像できる。藻の匂い、濡れた石の感触、陽を浴びた風のぬくもり。季節は確かに夏へ向かっていた。
「梅、そろそろ干す?」
「来週かな。晴れ続きそうだし」
「手伝うよ」
「庄吉が?」
「なんだよその顔」
「潰しそう」
「失礼だな」
また笑う。
笑いながら、千代は思った。
こういう時間が続けばいい。
祭の日も、麦の秋も、風薫る夕暮れも。
終わると知っているから、人は季節を愛おしく思うのかもしれない。
庭の金魚が尾を揺らした。光の粒が水面で砕ける。
空はどこまでも青かった。
5月22日
麦 秋
金 魚
かきつばた
大牡丹
滝
麦の秋
夏の鴨
繭
祭
藻 刈
夏浅し
鮑
梅を干す
夏の虫
夏の風
薄 暑
風薫る
若 葉




