表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/54

5月22日 風薫るころ

風薫るころ


 朝の光はまだ白く、縁側の板を淡く照らしていた。庭の若葉が風に揺れ、そのたび青い匂いが家の中へ流れ込む。五月の終わりは、春とも夏ともつかぬ気配を抱えている。


「おーい、起きてるか」


 土間から声がした。低く、少ししゃがれた男の声だ。


 千代は味噌汁の鍋をかき回す手を止めた。


「開いてるよ」


 戸が引かれ、外の光とともに庄吉が入ってくる。麦わら帽子を手にしていて、額にはすでに汗がにじんでいた。


「朝から暑いねえ」


「薄暑ってやつだな。昼にはもっとくるぞ」


 庄吉は鼻を鳴らしながら座敷へ上がる。畳がぎしりと鳴った。彼の着物には川の水の匂いがついていた。青臭く湿った、初夏の匂いだ。


「滝のほう行ってきたの?」


「うん。藻刈り頼まれてな。水ぬるくなってた」


 千代は椀によそった味噌汁を差し出した。湯気の向こうで庄吉の顔が少し柔らかく見える。


「うまそうだ」


「昨日の豆腐が残ってたから」


 外では風が鳴っている。庭先のかきつばたが紫の花を開き、その奥では大牡丹が重たげに揺れていた。陽を浴びた花びらは絹みたいに見える。


「今年は牡丹が長いね」


「ああ。雨が少ねえからかな」


 庄吉は汁をすすった。喉を鳴らす音が静かな家に響く。


「そういや、祭の話聞いたか」


「八幡様の?」


「来月だってさ。神輿、今年は出すらしい」


 千代は少し笑った。


「去年は雨で中止だったものね」


「おまえ、祭好きだもんな」


「嫌いな人いる?」


「いるさ。酔っぱらい嫌いなやつとかな」


 ふたりで笑った。


 風薫る季節だった。窓を開ければ草の匂いが入り、遠くで川音が聞こえる。空は高く、雲は白い。


 庄吉は汁を飲み干すと、ふっと息をついた。


「麦の秋だなあ」


「まだ青いじゃない」


「いや、あの色。黄金になる前のな。あれ見ると夏が来るって気がする」


 千代も畑道の景色を思い出した。風に波打つ麦畑。陽の光を受けた穂がきらきら揺れて、まるで水面みたいになる。


「ねえ、庄吉」


「ん?」


「夏って、少し寂しくない?」


「なんだ急に」


「だって、始まる前が一番いいんだもの」


 庄吉はしばらく黙った。


 庭で金魚鉢の水が揺れる音がする。赤い尾がちらりと光った。


「終わるの知ってるからじゃねえか」


 千代はその言葉に目を伏せた。


 母が死んで三年になる。夏浅しのころだった。梅を干す匂いが庭に満ちていて、蝉もまだ鳴いていなかった。


 あの日も、こんな風が吹いていた。


「……千代?」


「あ、ごめん」


 庄吉は気づいたように視線をやわらげた。


「無理に笑わなくていいぞ」


「笑ってないよ」


「嘘つけ」


 千代は小さく吹き出した。


「庄吉って変に優しい」


「変ってなんだ」


「もっと乱暴な顔してるのに」


「余計なお世話だ」


 庄吉は照れ隠しみたいに立ち上がると、縁側へ出た。風が彼の袖をはためかせる。


「お、夏の鴨だ」


「え?」


 千代も隣へ出る。空を低く横切る影があった。川のほうへ飛んでいく。


「ほんとだ」


「巣でも作ってんのかな」


 陽射しはもう昼の色になり始めていた。畳の匂いが温まり、遠くで子どもの笑う声が聞こえる。


「そういや繭、今年は出来いいらしいぞ」


「蚕部屋、暑いでしょうねえ」


「夏の虫ってやつは元気だからな」


 庄吉は縁側に腰を下ろした。千代も隣へ座る。


 肩が触れそうで触れない。


「なあ」


「なに?」


「祭、一緒に行くか」


 風が吹いた。


 若葉がざわめき、青い光が庭に散る。


「……いいの?」


「なんでだよ」


「だって庄吉、去年は友達と」


「今年はおまえと行きたい」


 その言葉は驚くほど真っ直ぐだった。


 千代は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。薄暑のせいだけではない。


「焼き鮑の屋台、出るかな」


「食い気かよ」


「大事でしょう」


「まあな」


 庄吉は笑った。


 その笑い声を聞いていると、不思議と安心した。


 川のほうから水音が届く。滝のしぶきの冷たさまで想像できる。藻の匂い、濡れた石の感触、陽を浴びた風のぬくもり。季節は確かに夏へ向かっていた。


「梅、そろそろ干す?」


「来週かな。晴れ続きそうだし」


「手伝うよ」


「庄吉が?」


「なんだよその顔」


「潰しそう」


「失礼だな」


 また笑う。


 笑いながら、千代は思った。


 こういう時間が続けばいい。


 祭の日も、麦の秋も、風薫る夕暮れも。


 終わると知っているから、人は季節を愛おしく思うのかもしれない。


 庭の金魚が尾を揺らした。光の粒が水面で砕ける。


 空はどこまでも青かった。




5月22日 


麦 秋


金 魚


かきつばた


大牡丹



麦の秋


夏の鴨




藻 刈


夏浅し



梅を干す


夏の虫


夏の風


薄 暑


風薫る


若 葉



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ