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薫風のパレット

薫風のパレット


「ねえ、見て! 麦の穂がもう、あんなに黄金色」


電車の窓に額を押しつけるようにして、紗香さやかが声を弾ませた。

五月二十二日。初夏というにはまだ少し遠慮がちな、けれど確実に季節の歩みを進める**夏浅し**の午後。車窓の向こうには、季節外れの秋が訪れたかのような**麦秋むぎとき**の光景が広がっていた。波打つ**麦の秋**の黄金色は、遮るもののない強い日差しを浴びて、眩しいほどに輝いている。


「本当ね。風が吹くたびに、ざわざわって音がここまで聞こえてきそう」


母の和子が、目を細めて微笑んだ。

和子が今日身にまとっているのは、上質な**繭**から紡ぎ出された、生成り色のシルクのブラウスだ。独特のほんのりとした光沢が、彼女の穏やかな横顔を上品に引き立てている。


「あー、腹減った。なぁ、今日の晩飯、何?」


ロングシートの端で、いかにも退屈そうにスマートフォンをいじっていた大学生の弟、大樹だいきが、大きなあくびを噛み殺しながら言った。大樹は、洗濯のりですこし硬くなった、お気に入りのネイビーの開襟シャツを着ている。胸元からは、いかにも若者らしい健康的な、汗の匂いが微かに漂っていた。


「もう、大樹は食べることばっかり。今日はせっかくお父さんの還暦祝いの旅行なんだから、もっと風情を楽しみなさいよ」

「風情って言われてもなぁ。ただの草じゃん」

「草じゃないわよ、麦! ほら、お父さんも何か言ってやって」


紗香に振られ、窓際のリクライニングシートに腰掛けていた父の修一が、ゆっくりと振り返った。修一は、この日のために新調した、涼しげなサックスブルーのリネンシャツを着ている。麻のシャリッとした生地感が、初夏の**薄暑**を心地よく逃がしてくれるのだという。


「まあ、大樹の言うことも一理ある。花より団子、麦より飯だ。だがな、大樹。あの黄金色があるから、俺たちの食卓に美味いビールや麦茶が並ぶんだぞ」

「お、さすが親父。説得力が違うわ。じゃあ今夜は美味いビールが飲めるんだな?」

「ふふ、もちろんよ。旅館のご馳走、楽しみね」


和子が嬉しそうに目を細める。

ガタゴトと規則正しい音を立てて走るローカル線。車内には、乗客たちの静かな話し声と、時折吹き込んでくる**風薫る**五月の青い風が満ちていた。窓から入り込むその風は、若い緑の香りと、ほんのりと乾いた土の匂いを運んでくる。どこか懐かしく、胸の奥がキュンとするような、そんな**若葉**の匂いだ。


駅からタクシーに揺られること二十分。

山あいに佇む老舗旅館の門をくぐると、ひんやりとした、心地よい湿気が一行を包み込んだ。


「うわぁ……すごい。お母さん、見て!」


紗香が歓声をあげて駆け寄ったのは、中庭に面した立派な池だった。

池の端には、いまを盛りと咲き誇る**かきつばた**の群生がある。凛とした紫色の花弁が、水面にその鮮やかな影を落としていた。さらにその奥の庭園には、大輪の**大牡丹**が、まるで誇り高き貴婦人のように、重厚な花びらを幾重にも重ねて咲いている。


「見事な牡丹ねぇ。赤に、白に、ピンク……。触ったら、ベルベットみたいに柔らかそうだわ」


和子がそっと花びらに顔を近づける。甘く、どこか濃厚な香りが鼻腔をくすぐった。


「おっ、金魚がいるぞ。でけえな」


大樹が池を覗き込む。

透明な水の中を、真っ赤な**金魚**たちが、ひらひらと長い尾鰭を揺らしながら優雅に泳いでいた。水草の間を縫うように泳ぐその姿は、まるで水中に咲いた動く花のようだ。


「よし、部屋に荷物を置いたら、裏手の散策路に行ってみよう。この裏には、名物の滝があるらしいんだ」


修一が、少年のような笑みを浮かべて言った。家族のためにずっと働き続け、ようやく迎えた還暦の節目。その少し丸くなった背中を見ながら、紗香は「お父さん、嬉しそうだな」と、胸の奥が温かくなるのを感じた。


---


宿の裏手に一歩足を踏み入れると、それまでの静寂が嘘のように、轟々という力強い音が鼓膜を震わせた。


「すごい音……! あそこね!」


紗香が指差した先には、岩肌を激しく叩きつける**滝**があった。

白い飛沫を上げながら垂直に流れ落ちる水量は圧巻で、近づくだけで、ひんやりとした天然のミストが顔や腕に降り注ぐ。先ほどまでの移動の疲れや、じっとりとした**薄暑**の不快感が、その冷気によって一瞬で吹き飛んでいくようだった。


「すげえ……。マイナスイオンってやつ? 涼しいっていうより、肌がピリッとするくらい冷たいな」


大樹が手のひらを広げて、飛沫を受け止める。

滝壺の周辺では、地元の職人だろうか、数人の男性が水に入り、長い竿を使って藻刈もかりを行っていた。水底に生い茂った藻を丁寧に刈り取ることで、この清らかな水質が保たれているのだろう。刈り取られた藻からは、独特の青臭い、水の匂いが立ち上っていた。


「水が綺麗だからこそ、こういう景色が守られているのね。ありがたいわねぇ」


和子が夫の腕にそっと手を添える。修一は照れくさそうに「ああ」と頷いた。

ふと見ると、滝壺から続く清流の淀みに、数羽の鳥が身を潜めるようにして浮かんでいた。


「あれ、鴨かしら? 冬の鳥だと思ってたけど」

「あれは**夏の鴨**だよ、お母さん。渡りをしないで、この日本に居残る個体がいるんだって。換羽の時期だから、ちょっと冬より地味な色をしてるけど、可愛いよね」


生き物好きの紗香が教えると、和子は「へえ、物知りねぇ」と感心したように目を丸くした。夏の鴨たちは、冷たい水面に静かに浮かびながら、時折気持ちよさそうに羽を震わせている。その姿は、喧騒から離れて羽を休める自分たち家族の姿にも、どこか重なって見えた。


---


夕食の時間は、まさに五感を満たす至福のひとときだった。

個室の座敷に運ばれてきたのは、目にも鮮やかな初夏の懐石料理。


「お父さん、お誕生日、そして還暦、本当におめでとう!」


紗香の音頭で、冷えたビールグラスが触れ合い、チリンと高い音が部屋に響いた。


「ぷはぁー! 染みる! やっぱり麦の秋を見た後のビールは格別だな!」


大樹が美味そうに喉を鳴らす。

膳の中央に鎮座していたのは、見事なあわびのお造りだった。


「まぁ、立派な鮑。お父さん、さあ食べてみて」

「お、頂こう。……うむ! これは素晴らしいな」


修一が一切れ口に運ぶ。

コリコリとした力強い歯ごたえとともに、磯の豊かな香りと、噛むほどに溢れ出る濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。


「本当だ、すっごく弾力がある! 噛むたびに海の匂いがするね」


紗香も目を輝かせる。

料理には、丁寧に**梅を干す**情景が目に浮かぶような、自家製の見事な梅干しを添えた和え物や、じっくりと炊き上げられた旬の野菜が並んだ。

部屋の窓は少しだけ開けられており、外からは心地よい夜風が入り込んでくる。ふと、網戸の向こうで小さな光が明滅した。


「あ、**夏の虫**が鳴き始めたわね」


和子が静かに耳を澄ます。

ジジジ、と短く鳴く虫の声や、どこか遠くでパチパチと爆ぜるような音が聞こえる。


「ん? この音、何だ? 花火か?」


大樹が窓の外を覗き込む。


「あ、あそこ! 遠くの神社の方で、明かりが灯ってる。お祭りみたい!」


紗香の言葉通り、山の端の向こう側が、ほんのりと赤橙色の提灯の光で励まされていた。遠くから、風に乗って、トコトン、と気の早い和太鼓の音が響いてくる。


「そういえば、今日はこの地域の氏神さまの**祭**の日だって、さっき中居さんが言ってたわ」

「へえ、お祭りか。行ってみるか? 腹もいっぱいになったし、夜風に当たるのも悪くない」


修一の提案に、みんなが賛成した。


---


宿で借りた浴衣に着替え、四人は夜の散策へと繰り出した。

和子は落ち着いた藍色の浴衣、紗香は明るい向日葵柄の浴衣だ。歩くたびに、コロン、コロンと下駄の乾いた音がアスファルトに響く。

夜になっても、昼間の**薄暑**のなごりが地面からじんわりと立ち上っていたが、時折通り抜ける**夏の風**が、浴衣の袖をすり抜けて肌を優しく撫でていく。その風は、昼間の爽やかなものとは違い、どこか湿気を含んだ、艶っぽい大人の匂いがした。


坂道を登っていくと、提灯の光がだんだんと大きくなり、屋台の香ばしい匂いが鼻をくすぐり始めた。焼きそばのソースの焦げる匂い、あんず飴の甘い香り。


「うわぁ、懐かしいな。小さい頃、よくお父さんとお母さんに連れてってもらったよね」

「大樹、あんた迷子になって泣いたの覚えてる? わたあめ持ったまま」

「うるさいな、姉ちゃん。そんな昔のこと忘れたよ」

「ふふ、あの時は大変だったわねぇ。お父さんがおんぶして帰ったのよ」


和子がクスリと笑う。

修一は、少し照れくさそうに、浴衣のポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。


人混みを抜け、境内の少し小高くなった場所に腰を下ろす。

夜空には、満天の星。そして、眼下には小さなお祭りの灯りと、遠くに広がる街の夜景が見えた。


「なぁ、お父さん」


大樹が、いつもより少し低い、真面目な声で切り出した。


「ん? なんだ」

「あのさ……今まで、ありがとう。毎日遅くまで働いて、俺と姉ちゃんを大学まで行かせてくれて。言葉にするの照れくさいけど、還暦、本当におめでとう」


大樹は視線を落としたまま、手元にあった団扇をパタパタと動かしている。耳が少し赤い。


「大樹……」


修一は驚いたように目を見張った。

紗香も、和子の手をそっと握りしめる。和子の目には、いつの間にか小さな涙の粒が浮かび、提灯の光を反射してきらきらと輝いていた。


「……大樹、大きくなったな。そんなことを言えるようになるなんてな」


修一の声が、少しだけ震えていた。彼は大きく息を吸い込み、夜空を見上げた。


「俺の方こそ、ありがとう、だ。お前たちが元気に育ってくれたことが、俺の人生の何よりの勲章だよ。和子も、ずっと支えてくれてありがとうな」

「あなた……」


和子がハンカチでそっと目元を抑える。

そのとき、ひときわ強い**夏の風**が、ざぁっと山を駆け抜けていった。若葉の匂い、お祭りの熱気、そして家族の体温が、その風の中でひとつに混ざり合う。


「よし! しんみりするのはここまで! お父さん、明日は何して遊ぶ?」


紗香がわざと明るい声を出すと、修一はいつもの頼もしい父親の顔に戻って笑った。


「そうだな。明日は、あの麦畑の近くをドライブして、美味い蕎麦でも食べに行こうか」

「賛成!」「俺、大盛りね!」


四人の笑い声が、初夏の夜空に溶けていく。

五月二十二日。夏が始まる瑞々しい季節の中で、家族の絆は、あの黄金色の麦の穂のように、しっかりと、そして豊かに実を結んでいた。



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