5月23日 『夕牡丹のひかり』
『夕牡丹のひかり』
窓外に広がる相模湾は、五月の強い光を浴びて、まるで砕いたガラスをぶちまけたようにきらめいていた。
逗子の小高い丘に佇む高級有料老人ホーム『群青の杜』。
その最上階にある特別室のテラスで、元大学教授の里見和雄(さとみ かずお・八十二歳)は、麻混のサックスブルーのシャツに、仕立ての良いベージュのリネンパンツという出立ちで車椅子に身を委ねていた。麻の生地が、肌にわずかにちくちくと心地よい刺激をくれる。カフスボタンは外され、まくられた袖口から覗く腕は年老いて細い。けれど、その眼光だけは、かつて教壇から学生たちを睥睨していた頃の鋭さを失っていなかった。
「和雄さん、少しお風が強くなってきましたけれど、お部屋に入られますか?」
背後から声をかけたのは、妻の由紀子(ゆきこ・七十八歳)だ。彼女は、贅沢なシルク混の、若草色のサマーニットに白いフレアスカートをなびかせている。胸元には、大粒の真珠のペンダントが、彼女の変わらない気品を象徴するように鈍い光を放っていた。その手には、冷たい麦茶の入ったクリスタルグラスが握られている。
「いや、いい。この**夏風**が心地いいんだ。肌を撫でる空気が、もうすっかり初夏の匂いを孕んでいる」
和雄はグラスを受け取り、一口含んだ。香ばしい大麦の香りが鼻腔を抜け、冷たさが喉を鳴らして落ちていく。
「五月二十三日か……。もう**薄暑**の季節だな。あちこちの庭先では**梅を干す**光景が見られる頃だ。我が家でも、お前がよく縁側に大きなざるを広げていただろう」
「ええ、そうでしたね。あの酸っぱい、けれど瑞々しい香りが家中に満ちると、ああ、今年も夏が来るのだわって、胸が弾んだものです。でも、ここではそんな手仕事も必要ありませんのね」
由紀子の日記のような呟きには、ほんの少しの寂寥が混じっていた。
至れり尽くせりのこの施設では、季節の移ろいは「お仕着せの行事」として向こうからやってくる。自分たちの手で季節を迎える準備をする必要は、もうないのだ。
「必要がない、ということは、退屈ということさ。なあ、由紀子。あの角の植え込みを見てみろ」
和雄が痩せた指で指し示した先には、庭園の池のほとりに群生する、鮮やかな紫色の花があった。
「あら、**杜若**(かきつばた)ね。凛として、本当に美しい」
「美しいが、どこか哀しい。水辺にしか生きられん。……僕たちと同じだ。この、安全で、甘やかされた、温室のような場所でしか、もう生き長らえられない」
「まあ、和雄さん。そんな偏屈な言い方をなさらないで。ここにいるからこそ、私たちはこうして穏やかに、花の美しさを愛でていられるのですもの」
由紀子は、和雄の車椅子の背もたれにそっと手を置いた。その手は温かく、わずかに震えていた。和雄はその温もりに、自分の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。強がりを言っても、彼女が隣にいてくれなければ、自分は一歩も前に進めない。その事実に対する、愛おしさと、男としてのほんの少しの悔しさが、彼の心に複雑な影を落とす。
「失礼いたします。お茶の時間でございます」
部屋の**網戸**が静かに引かれ、介護スタッフの若い女性、麻美がワゴンを押して入ってきた。網戸が擦れる「シャーー」という軽い音が、どこか遠い夏の日の記憶を呼び覚ます。
麻美は、丁寧に仕立てられた施設の制服に身を包み、弾けるような笑顔を浮かべている。
「里見先生、奥様。今日は特別な一皿をご用意いたしました。厨房のシェフが、初夏を意識して腕を振るったんですよ」
テーブルに置かれたのは、ガラスの器に盛られた美しい料理だった。
「おや、これは**蝦蛄**(しゃこ)かね。それに、この黄色い花は……」
和雄が目を細めると、由紀子が声を弾ませた。
「まあ! **金雀枝**(えにしだ)の花が添えられていますわ。なんて鮮やかな黄色。見ているだけで、元気が湧いてくるようです」
「はい。蝦蛄は今が一番身が締まっていて美味しい時期ですから。特製の三杯酢でお召し上がりください。それと、お食後のデザートには、ラウンジで面白い趣向をご用意しているんです」
「面白い趣向?」
和雄が眉を上げると、麻美は悪戯っぽく微笑んだ。
「はい。中庭の特設コーナーで、**金魚掬い**をやっておりますの。入居者の皆様に、昔懐かしいお祭りの雰囲気を味わっていただこうと思いまして」
「ふん、子供騙しを。我々のような老人に金魚掬いとは」
和雄は口を尖らせたが、由紀子は嬉しそうに和雄の腕をつついた。
「いいじゃないですか、あなた。行きましょうよ。私、最後に金魚掬いをしたのがいつだか、もう思い出せもしませんわ。あのポイが水に溶けていく時の、あのハラハラした気持ち、もう一度味わってみたいわ」
妻のその少女のような瞳に見つめられると、和雄はいつも visibility を失う。
「……お前がそこまで言うなら、付き合わないこともない」
和雄はそう言って、蝦蛄を口に運んだ。独特のコリコリとした歯ごたえと、上品な磯の旨味が口いっぱいに広がり、鼻から抜ける三杯酢の酸味が、初夏の気配をさらに色濃く感じさせた。
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午後、二人は一階の中庭へと降りた。
中庭は、大きな**椎の木**に囲まれており、足元には**椎落葉**(しいおちば)が絨毯のように敷き詰められている。カサカサと乾いた音を立てて車椅子のタイヤが落葉を踏みしめる。その独特の、香ばしくも枯れた匂いが、五月の瑞々しい空気と混ざり合っていた。
頭上を見上げれば、見事な**桐の花**が、淡い紫色の鐘形の房を誇らしげに垂らしている。
「桐の花か。高貴な色だな。昔、私の田舎の裏山にもあってね。あの花が咲くと、いよいよ田植えが始まると、親父が言っていたものだ」
「まあ、そうでしたの。私の実家の近くでは、この季節になると**葉柳**が風に揺れて、川面を青く染めていましたわ。目に染みるような緑でした」
二人がそれぞれの記憶の糸を紡いでいると、中庭の中央に作られた特設プールから、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「あら、里見先生、奥様! こちらへどうぞ!」
車椅子を押す由紀子と和雄に、他の入居者たちが手を振る。
プラスチックの簡易プールの中を、色鮮やかな和金や出目金が、尾ひれを揺らして、ひらひらと泳いでいた。その姿は、まるで水中に咲いた小さな花園のようだ。
「さあ、和雄さん。これを」
由紀子から手渡されたのは、薄い紙の張られたポイだった。
「よせ、私にできるわけがないだろう。手が震えるんだ」
「何を仰るんです。昔、縁日で私に大きな出目金をとってくださったのは、どこのどなたですか?」
「それは……もう何十年も前の話だ」
和雄は文句を言いながらも、ポイを親指と人差し指で挟んだ。指先が微かに震える。じっと水面を見つめると、一匹の真っ赤な和金が、ポイの影に隠れるように泳いできた。
(ここだ……!)
和雄は息を止め、そっとポイを水に入れた。水が紙を濡らし、一瞬にして透過率が変わる。和金の滑らかな鱗がポイに触れた瞬間、和雄は手首を返した。
「ああっ!」
由紀子が小さく悲鳴をあげる。ポイの紙は無惨に破れ、和金は尾ひれを激しく振って、水の中へと逃げていった。
「ははは! 駄目だ、やはり。感覚が鈍っている」
和雄は声を上げて笑った。その笑顔は、ここ数ヶ月の間で最も明るく、生気に満ちていた。失敗したというのに、胸の奥から湧き上がるのは、心地よい高揚感だった。
「でも、惜しかったですわ。あの瞬間、私の心臓も跳ね上がりましたもの」
由紀子も楽しそうに笑い、自分のポイを水に浸した。彼女の挑戦もまた、あっけなく水泡に帰したが、二人の間には、若い頃のような瑞々しい空気が流れていた。
ふと、和雄の視線が、プールの向こうにある人工の小さな池へと向いた。そこには、岩肌を伝って清らかな水が流れ落ちる、小さな**滝**がしつらえてあった。
「サラサラ……、トントン……」
心地よい水音が耳を打つ。その冷ややかな音を聞いているだけで、体感温度がすっと下がるような錯覚を覚える。
「あの滝の水音を聞いていると、昔、二人で行った奥多摩の滝を思い出すな」
「ええ、あの時は急に雨が降ってきて、大変でしたわね。あなたのジャケットを二人で頭から被って、走って雨宿りを探して。あのジャケット、ずぶ濡れになって台無しにしてしまいましたけれど」
「ああ、お気に入りのツイードだった。だが、お前の髪が濡れて、張り付いていた顔が、なんだかとても愛おしかったのを覚えている」
「まあ、皆様の前で何を仰いますの」
由紀子は、サマーニットの襟元を少し直しながら、頬を赤らめた。その仕草は、出会った頃の彼女と何も変わっていないように見えた。
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夕暮れが近づき、二人は再び最上階の部屋へと戻った。
西の空が、燃えるような茜色から、次第に深い群青色へと移り変わっていく。
部屋の窓を開け放つと、遠くの畑から、乾いた、甘やかな香りが風に乗って運ばれてきた。
「ん……? この匂いは……」
和雄は鼻をひくつかせた。
「ああ、**麦の秋**(むぎのとき)ですね。あるいは**麦秋**(ばくしゅう)と言うべきかしら。三浦半島のあちこちで、麦が黄金色に実っているのでしょう。刈り入れの匂いですわ」
「そうだ。収穫の匂いだ。金色に波打つ麦畑……。植物はこうして、一年のサイクルを全うして、次の命へ繋いでいく」
和雄は、自分の痩せた手を見つめた。
「私は、何かを遺せただろうか。論文を何本書き、学生を何人育てたところで、この自然の営みの前には、すべてが砂の城のように儚い気がしてならんのだよ、由紀子」
夕闇が迫る部屋の中で、和雄のトーンが沈んでいく。老いを受け入れるということは、自分の生きてきた足跡の意味を、何度も問い直す作業の連続だった。
由紀子は、そっと和雄の前に歩み寄り、その膝の前に身をかがめた。若草色のニットが、夕暮れの光の中でしっとりとした色に変色している。
「和雄さん。あなたは多くのものを遺されましたわ。私という人間の心の中に、消えない光を遺してくださいました。それに、学問の世界のことは私には難しくて分かりませんけれど、あなたに教わった学生たちが、今も社会のあちこちで、誰かを支える麦の粒になっているはずです。何も無駄なことなんてありませんわ」
由紀子の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。それは、和雄を励まそうとする彼女の、心からの叫びでもあった。
「由紀子……」
和雄は手を伸ばし、彼女の細い肩を抱き寄せた。シルク混のニット越しに、彼女の温もりと、小さな鼓動が伝わってくる。
「すまない。また老人の愚痴を言った。お前がいてくれれば、それだけで私の人生は完璧だったというのにな」
「お上手ね。でも、嬉しいわ」
由紀子は涙を拭い、微笑んだ。
その時、薄暗くなった部屋の網戸に、コツンと何かがぶつかる音がした。
「おや、何かしら」
由紀子が近づいて見ると、網戸の向こうに、小さな羽を持った虫たちが群がっていた。
「**羽蟻**ね。薄暗くなると、光を求めて集まってくるのね。本当に、夏がすぐそこまで来ているのね」
「光を求めるのは、生き物の本能だからな。私たちも同じだ。どんなに夜が近づこうとも、小さな光を探し続ける」
和雄は車椅子を窓辺へと寄せた。
中庭の片隅には、昼間は気づかなかった花が、ひっそりと白い花弁を開き始めていた。
「和雄さん、ご覧になって。あそこに……」
「……**牡丹**(ぼたん)か。いや、あれは**夕牡丹**(ゆうぼたん)だな。昼間の華やかな**ぼたん**とは違う、夜にだけ妖艶に咲く花だ」
暗闇が全てを包み込んでいく中で、その白い花だけが、自ら発光しているかのように、浮かび上がっていた。それは、どこか気高く、そしてどこか妖しい美しさを放っている。
「美しいな。闇の中でしか見せない美しさというのも、あるものだ」
和雄は、由紀子の手を強く握りしめた。彼女の手も、同じ強さで握り返してきた。
外からは、まだ微かに**滝**の水音が聞こえている。サラサラと、絶え間なく流れるその音は、時間の経過そのもののようでもあり、同時に、永遠に枯れない命の泉のようでもあった。
「和雄さん、お夕食の準備をいたしましょう。今夜は、冷たい白ワインでも開けましょうか」
「ああ、それがいい。この五月二十三日の夜に乾杯しよう。私たちの、これからの、たくさんの眩しい夏に向かって」
二人は、暗くなりゆく部屋の中で、互いの存在を五感のすべてで確かめ合いながら、静かに、けれど確かに、新しい季節の扉を開けようとしていた。窓外の夏風が、網戸を優しく揺らし、麦秋の香りを、再び部屋の奥深くへと運び込んでいった。
5月23日
麦 秋
金魚掬い
杜 若
夕牡丹
桐の花
滝
滝
椎落葉
羽 蟻
網 戸
葉 柳
蝦 蛄
梅を干す
金雀枝
夏 風
麦の秋
ぼたん
牡 丹
薄 暑
夕闇が完全に部屋を支配する直前、窓外の水平線は紫から深い濃紺へと、そのグラデーションを滑らかに変えていた。
「和雄さん、電気をつけますね」
由紀子が立ち上がり、壁のスイッチに手を伸ばそうとしたとき、和雄はそれを手で制した。
「待ちなさい。もう少し、このままでいよう」
部屋の隅にあるフロアライトの調光ダイヤルを、和雄は自ら回した。
ほの白い、琥珀色の光が、床に敷かれたペルシャ絨毯の複雑な幾何学模様を浮かび上がらせる。
由紀子の若草色のサマーニットが、その光を受けて、まるで初夏の森の奥深くにある苔のような、神秘的な色合いを見せた。胸元の真珠は、月の光を閉じ込めたように静かに息づいている。
「本当に、あなたは暗いところが落着くのね。昔から、書斎にこもる時はいつもそうでしたわ」
「光が強すぎると、見えなくなるものがある。この年齢になるとね、世界の輪郭が少しぼやけているくらいが、ちょうどいいのさ」
和雄はリネンパンツの膝に置いた自分の手を、じっと見つめた。
皮膚の表面に浮き出たシミや、浮き出た青い血管。それは彼が過ごしてきた八十二年という歳月の、生々しい記録だった。若い頃の自分なら、こんな老醜を晒すことに耐えられなかったかもしれない。しかし今、この薄暗がりのなかでは、そのすべてが愛おしい歴史の一部として受け入れられるような気がしていた。
チリン、と遠くの部屋から、微かに風鈴のような音が聞こえた気がした。いや、それは気のせいだろう。この施設は完全な気密性を誇っており、外の雑音は遮断されているはずなのだ。
だが、耳を澄ませば澄ますほど、中庭の**滝**の音が、鼓膜の奥へと染み込んでくる。
「ザーー……」という持続的な低音。それは、かつて二人で旅した山々の、冷涼な空気と、湿った土の匂いを、今この現代的な空間にまで運んでくるようだった。
「和雄さん、お腹は空きませんか?」
由紀子が、和雄の車椅子の横に小さなスツールを持ってきて腰掛けた。
彼女から漂う、長年愛用しているゲランの香水の香りが、かすかに鼻腔をくすぐる。シプレー系の、どこか湿り気を含んだ大人の香りが、この**薄暑**の夜にひどく馴染んでいた。
「いや、まださっきの蝦蛄が効いているな。あのコリコリとした食感が、まだ舌の奥に残っているようだ。美味しいものを少しだけ、大切な人と味わう。贅沢なことだな」
「ええ、本当に。……私、さっきの**金魚掬い**のとき、あなたのあんなに楽しそうな、子供みたいな顔、何年ぶりに見たかしらって、胸が熱くなってしまいましたのよ」
由紀子は、和雄の麻のシャツの袖口にそっと触れた。
「子供みたいだったか? 私はいつでも冷静沈着な男のつもりだがね」
「まあ、嘘ばっかり。あの時、ポイが破れた瞬間、『ああっ』って声を上げて、まるで宝物を盗られたようなお顔をなさって。昔、神社の境内で、私に出目金を取ってくれた時も、全く同じお顔をしていらっしゃいましたわ。あの時も、浴衣の袖をまくり上げて、必死になって……」
由紀子の記憶のなかで、五月二十三日の今日という日と、何十年も前のあの夏祭りの夜が、見事に重なり合っていた。
人間の記憶とは不思議なものだ。昨日食べたものは忘れてしまっても、半世紀前の、水槽に反射する裸電球の光や、水に濡れた紙の匂い、そして隣にいた人の体温は、驚くほど鮮明に蘇る。
「あの時の出目金は、一週間しか生きなかったな」
「そうでしたわね。でも、二人でアパートのベランダに小さなバケツを置いて、毎日毎日、覗き込んで。あの狭い部屋が、私たちの世界のすべてでした」
「ああ。あの頃は金もなかったが、時間と、未来だけは無限にあるように思えた」
和雄は、由紀子の手を自分の大きな手のひらで包み込んだ。
彼女の手は、驚くほど軽くなっていた。皮膚は薄く、まるで上質な和紙のようだ。けれど、その指先から伝わってくる温もりは、あの狭いアパートで寄り添い合っていた頃と、何も変わっていない。
網戸に、再び「コツン」と小さな衝撃音が響いた。
**羽蟻**たちが、部屋から漏れる琥珀色の光に引き寄せられ、ガラスと網戸の隙間で、せわしなく羽を震わせているのだろう。その羽音が、かすかに室内にまで響いてくる気がする。
彼らは、ただ光に向かって飛ぶ。そこに何があるかも知らず、ただ本能のままに。
「生きるということは、光を探すこと、か……」
和雄は、昼間に麻美が言っていた「**夕牡丹**」の言葉を思い出していた。
中庭の闇のなかで、白く浮かび上がっていたあの花。
誰も見ていないかもしれない夜に、ただ己の美しさを完成させるために開く花。
「由紀子。私たちは、もう人生の夕暮れを過ぎて、夜を迎えようとしている」
「ええ……」
「だが、夜には夜の、咲き方がある。この『群青の杜』という場所が、私たちの夜の庭なら、ここでしか見せられない美しさを、二人で紡いでいこうじゃないか。誰に見せるためでもない、私たちのための花を」
和雄の言葉は、かつて論文を読み上げていた時の硬質な響きとは違い、驚くほど柔らかく、深い響きを持っていた。それは、すべての虚飾を剥ぎ取ったあとに残った、一人の男の、妻への純粋な愛の告白だった。
由紀子は、和雄の胸にそっと頭を預けた。
麻のシャツ越しに、和雄の規則正しい、けれど少しゆっくりとした鼓動が、彼女の耳に伝わる。
その鼓動の音は、中庭の**滝**の水音と、完全にシンクロしているように思えた。
「和雄さん。私、あなたと一緒なら、どんなに深い夜が来ても、怖くありませんわ」
窓の外では、**夏風**が相模湾の潮の香りを孕んで、丘を駆け上がってきている。
遠くの畑からは、豊穣の証である**麦秋**の、乾いた香ばしい匂いが、網戸を通り抜けて、部屋の隅々にまで満ちていく。
五月二十三日。
初夏の気配がすべてを包み込むこの夜、二人の老いた恋人たちは、静かに、けれど世界で一番豊かな時間を、確かに共有していた。




