薄暑――麦秋の廊下にて
薄暑――麦秋の廊下にて
昼休みの廊下は、ゆるく熱を持っていた。五月の終わり、窓を開け放した校舎に、乾いた風が長く吹き抜けていく。遠くの畑では麦の秋らしく、黄金色の穂が陽を返していた。
理科室の前に立っていた水野は、網戸越しの風に目を細めた。
「暑くなってきたな」
後ろから声がして、振り返る。夏服に替わったばかりの白いシャツがまぶしかった。佐伯は牛乳パックを片手に、眠そうな顔で笑った。
「まだ五月だぞ」
「でも薄暑って感じするじゃん」
「おまえ、たまに俳句みたいなこと言うよな」
「国語赤点だけどな」
二人で笑った。
廊下には、どこか湿った木の匂いと、昼食の焼きそばパンのソースの匂いが混じっていた。校庭の向こうでは体育の笛が鳴り、女子の笑い声が風にちぎれて流れてくる。
理科室の窓辺には、誰かが持ってきた牡丹が花瓶に活けてあった。少し盛りを過ぎた花弁が、重たそうに垂れている。
「夕牡丹って言葉、知ってる?」
水野が言うと、佐伯は首をひねった。
「知らん。なにそれ」
「夕方になると、ぼたんって急に疲れたみたいに見えるだろ。あれ」
「へえ」
佐伯は花を見た。
「なんか水野って、そういうの見つけるの得意だよな」
「別に」
「いや、ほんと」
その時、廊下の向こうから女子が駆けてきた。
「ねえ、桐の花落ちてた!」
新聞部の矢島だった。両手に薄紫の花を抱えている。
「裏庭のとこ! すごい綺麗!」
「また記事にするのか?」
「する!」
矢島は息を切らせながら笑った。
「季節欄つくるんだ。杜若とか金雀枝とか、今いっぱい咲いてるし」
「読まねえなあ新聞」
「読め!」
矢島は佐伯の肩を叩いた。
その瞬間、ぱたぱたと小さな羽音がした。
「あっ」
窓際に羽蟻が群れていた。光に吸い寄せられるように、硝子へぶつかっている。
「うわ、気持ち悪」
佐伯が顔をしかめる。
「雨近いのかな」
水野がそう言うと、理科室の奥で教師が「窓閉めろー!」と怒鳴った。
みんなで笑いながら窓を閉める。古い網戸がぎい、と鳴る。
その時だった。
どん、と遠くで低い音がした。
「雷?」
「いや、滝の音じゃね?」
「は?」
佐伯が笑う。
「こんな学校の近くに滝なんかあるかよ」
「でも聞こえる」
確かに、風の向こうに水の響きが混じっていた。ごう、と低く続く音。耳を澄ますと、涼しい気配まで流れてくる気がした。
矢島が目を輝かせた。
「行こうよ」
「どこへ」
「音のする方!」
「授業あるぞ」
「サボろう!」
「新聞部って自由だな……」
結局、三人は裏門から抜け出した。
校舎の裏手には古い神社があり、その奥へ細い道が続いている。葉柳が風に揺れ、湿った土の匂いが濃かった。椎落葉が踏まれるたび、ぱさりと乾いた音を立てる。
「ほんとに滝あるのか?」
「知らん」
「知らんで来たの!?」
笑いながら歩くうち、空気が変わった。
ひやりとして、水の匂いが濃くなる。
そして木々の隙間を抜けた瞬間、三人は同時に声を失った。
白い水が落ちていた。
高くはない。けれど陽を浴びた水しぶきが、硝子みたいに光っている。周囲だけ気温が違った。夏風が水を撫で、肌を冷やしていく。
「うわ……」
矢島が呟いた。
滝壺のそばでは、子どもたちが金魚掬いの真似をして遊んでいた。祭でもないのに、赤い小魚が浅瀬を泳いでいる。
「なんで金魚いるんだよ」
佐伯が笑う。
「誰か放したのかな」
水野はしゃがみこんだ。水に触れる。冷たい。
指先がじんとした。
「気持ちいい……」
「おじいちゃんみたいなこと言ってる」
「うるさい」
頭上で桐の花が揺れた。
風が吹くたび、水しぶきが細かく頬へ当たる。遠くで蝦蛄を売る魚屋の拡声器がかすかに聞こえた。町の音なのに、ここだけ切り離されたみたいだった。
矢島が急に静かになる。
「なあ」
「ん?」
「卒業したら、こういうの忘れるのかな」
水野は返事をしなかった。
佐伯が石を蹴る。
「忘れるやつは忘れるだろ」
「佐伯は?」
「俺?」
佐伯は滝を見た。
「……たぶん、急に思い出すと思う。梅を干す匂いとかさ、夏の教室の感じとか」
「わかる」
「意味なく胸苦しくなるやつ」
矢島が笑った。
「青春っぽ」
「言うなよ」
水野は滝の音を聞いていた。
絶え間なく落ちる水。
五月の終わりの風。
まだ子どもで、でも少しだけ終わりに近づいている感じ。
それが胸の奥に薄く刺さって、痛いような、嬉しいような気持ちになる。
不意に学校のチャイムが遠くで鳴った。
「あ」
「五時間目」
「終わった」
三人で顔を見合わせる。
それから同時に吹き出した。
「怒られるな」
「確実に」
「新聞に書く?」
「書かねえよ!」
笑い声が滝の音に混じった。
その時、水野は思った。
たぶん今日のことを、自分は忘れない。
麦の秋の色も。
夕牡丹みたいに傾いた花も。
羽蟻の飛ぶ廊下も。
薄暑の風も。
全部まとめて、十年後の自分を急に泣かせるのだろうと。




