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5月24日 「あいの風の家」

「あいの風の家」


 麦の秋だった。窓の外の畑は夕陽を吸い込んだように金色で、風が渡るたび、波のようにざわざわ揺れていた。


 佳乃は縁側に腰を下ろし、竹の盆に梅を並べていた。塩にまぶされた青梅の匂いが指先に残る。白い割烹着の袖を肘まで折り、汗ばんだ額を手の甲でぬぐうと、庭の夏柳がゆるく揺れた。


「母さん、干すの手伝おうか」


 声をかけてきたのは長男の湊だった。高校から帰ったばかりで、白い開襟シャツの胸元は汗で少し濃くなっている。肩にかけた学生鞄をどさりと廊下へ置くと、佳乃の隣にしゃがみ込んだ。


「手ぇ洗ったの」


「洗ったよ。そんな子どもじゃないって」


 むっとした顔が可笑しくて、佳乃は笑った。


 台所では、鯵刺の皿を冷やしている。今日は新茶も開けようと思っていた。薬の日だから、と朝、亡くなった義母の仏壇に手を合わせた時に決めたのだ。


 ふいに玄関の戸が開いた。


「ただいま」


 低い声に、佳乃の胸が小さく跳ねる。


 夫の遼介だった。


 仕事帰りの作業服姿。薄い藍色のシャツに土埃がついている。額には汗。ここ数年、彼は口数が減った。余震の続いたあの震災のあとからだ。


 遼介は庭先の梅を見て、「もうそんな時期か」と呟いた。


「今年は実がいいの。ほら、大きいでしょう」


 佳乃が見せると、遼介は少し目を細めた。


「昔、おふくろもやってたな」


「ええ。だから真似してる」


 その時、廊下の奥から娘の紗枝が顔を出した。


「お父さん、おかえり。今日ね、学校で燕子花描いたの」


 紗枝はまだ小学生で、黄色いワンピースの胸に絵の具をつけていた。画用紙を広げると、紫の花が勢いよく咲いている。


「上手じゃないか」


 遼介は珍しく素直に褒めた。


 紗枝が嬉しそうに笑う。佳乃はその顔を見て、胸が少し熱くなる。


 夕飯時、金魚鉢の水音が居間に静かに響いていた。赤い金魚玉が天井の灯りを反射して、壁に淡い影を揺らす。


 食卓には鯵刺、冷や奴、とうもろこし、それに炊きたての麦飯。湯気の向こうで、湊が箸を伸ばした。


「うまっ」


「ちゃんと味わいなさい」


「味わってるって」


 遼介は黙って新茶をすすっていた。湯呑みから立つ青い香りが、夏木蔭のように涼しい。


 その時だった。


「ねえ、お父さん」


 紗枝が不意に言った。


「祭、今年は一緒に行ける?」


 遼介の箸が止まった。


 去年、一昨年と、彼は仕事を理由に来なかった。町の祭囃子が聞こえるたび、紗枝は寂しそうな顔をしていた。


 佳乃は胸の奥がざらつくのを感じた。


 遼介はしばらく黙り込んだあと、小さく息を吐く。


「……行くか」


「ほんと?」


「ほんとだ」


 紗枝が歓声を上げる。


 湊まで「珍しい」と笑った。


 遼介は照れくさそうに麦飯をかき込み、「うるさい」と呟いたが、その声は少し柔らかかった。


 夜。


 朝凪のように静かな風が窓から入り込んでいた。


 佳乃は縁側に出て、干した梅を見回した。月明かりに白く浮かぶ実は、まるで小さな灯のようだった。


「冷えるぞ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、遼介が立っていた。


 風呂上がりらしく、白いTシャツに紺のステテコ姿で、濡れた髪を手拭いで拭いている。


「まだ起きてたの」


「お前こそ」


 遼介は佳乃の隣に腰を下ろした。蝙蝠がひとつ、夜空を横切る。


 しばらく二人で黙っていた。


 遠くで祭囃子の練習の音がする。


 あいの風が吹き抜け、梅の香りと土の匂いを運んできた。


「……悪かったな」


 遼介がぽつりと言った。


「何が?」


「ずっと、家のこと任せっぱなしで」


 佳乃は少し驚いた。


 彼はこういうことを口にしない人だった。


「急にどうしたの」


「最近、湊の背が伸びただろ。紗枝も大きくなって……なんか、置いてかれてる気がしてな」


 佳乃は笑った。


「家族なんだから、置いていかないわよ」


 遼介は黙ったまま、庭を見ていた。


 桐の花が夜風に揺れている。


「私ね」


 佳乃は静かに言った。


「あなたが帰ってくる音、毎日ちゃんと聞いてるの」


「……うん」


「疲れてる足音とか、怒ってる足音とか、今日は元気ないな、とか」


 遼介が苦笑した。


「そんなわかるか」


「わかるわよ。夫婦だもの」


 その瞬間、遼介がそっと佳乃の手を握った。


 大きくて、ごつごつした掌だった。土と機械油の匂いが少し残っている。


 けれど温かい。


「今度、牡丹園でも行くか」


 佳乃は目を丸くした。


「急に?」


「紗枝が好きだろ、花」


「……私も好きよ」


「じゃあ決まりだ」


 佳乃は小さく笑った。


 胸の奥で、長いあいだ凍っていたものが、ゆっくり溶けていく気がした。


 居間から金魚鉢の水音が聞こえる。


 湊の笑い声も、紗枝の寝言も。


 麦の匂いを含んだ夜風が、家の中を静かに通り抜けていった。



5月24日 


麦 秋


金魚玉 


燕子花


牡丹園


桐の花


新 茶


余 震


蝙 蝠



あいの風


夏 柳


都 草


梅を干す


朝 凪


鯵 刺


夏木蔭


金魚鉢


薬の日


麦の秋



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