季節の織り糸 八月四日
季節の織り糸 八月四日
八月四日の午後、富子は藍色の浴衣に白い帯を結び、団扇を胸元へ差し込んで夏座敷へ戻った。窓の外には葭簀が立てかけてあるが、隙間から入る風はぬるく、畳には峰雲を映した明るい日差しが伸びている。卓上には昼に切ったトマトの皿と麦茶の水滴が残り、扇風機の首が回るたびに醤油の匂いが薄く漂った。
「昔はトマトを蕃茄とか赤茄子とか呼んだそうだよ」
白いTシャツに紺色の短パンをはいた息子の和俊は、冷蔵庫を開けたまま振り返った。中にはトマトが三つ、豆腐が一丁、夕食に焼くアジの開きが入っている。富子が電気代を気にして扉を閉めると、和俊は取り出し損ねた麦茶をもう一度探した。
「難しい名前だね。赤茄子なら、まだ姿が想像できるけど」
「冷蔵庫を開けるたびに峰雲が一つ消えると思いなさい」
「母さんの小言も立派な夏の季語になりそうだな」
富子が洗濯物を畳んでいると、テレビから高校野球の歓声が響いた。白球が青空へ高く上がるたび、和俊は麦茶のコップを握ったまま身を乗り出し、氷がからりと鳴った。富子は野球の規則をよく知らなかったが、土で汚れた選手の膝を見ると、息子が小学生のころ、草野球から泥だらけで帰ってきた日のことを思い出した。
「洗っても洗っても、靴下から砂が出てきたものだよ」
「そんな昔の話をまだ覚えているの?」
「走馬燈みたいに、暑い日には昔の夏が回ってくるんだよ」
夕方になっても気温は下がらず、富子は夏ばてした体を起こして台所へ立った。包丁で水貝を切ると、冷たい身が指先に触れ、磯の匂いが鼻へ抜けた。和俊は夕食を待ちきれずにトマトを一切れつまみ、塩を振りすぎて慌てて麦茶を飲んだ。
「食欲がないと言っていたのに、つまみ食いはできるんだね」
「これは味見だよ。それに、水貝なんて久しぶりだな」
「食べ終わったら氷小豆もあるよ」
「それを先に言ってくれれば、もっと手伝ったのに」
食後、二人は縁側へ出て、百日草の向こうに残る夕焼を眺めた。近所の家では睡蓮を浮かべた鉢に水が注がれ、どこからか風鈴の音と、子どもたちが笑う声が聞こえてくる。富子は桐一葉という季語を思い出して庭を探したが、桐の木はなく、代わりに乾いた朝顔の葉が一枚落ちていた。
「一枚落ちただけで、昔の人は秋が来ると思ったんだって」
「この暑さで秋なんて、本当に来るのかな」
「来るよ。来なかった年は一度もないもの」
和俊が軒下の走馬燈に火を入れると、薄い紙に描かれた馬が静かに回り始めた。富子は子どものころ、薬を売り歩く定斎屋の話を祖母から聞いたことを思い出し、低く響く売り声まで教えてもらったのに、今ではうまく再現できないと笑った。部屋に戻れば洗いかけの皿も、畳み終えていない浴衣も残っているが、二人はもう少しだけ縁側に座ることにした。
「母さん、あの雲、くらげみたいだよ」
「本当だね。海に行かなくても、空にくらげが泳いでいる」
「明日も暑いかな」
「きっと暑いよ。だから今夜は氷小豆を食べて、明日の分まで元気になろう」
青かった峰雲は夕焼の中で桃色に染まり、やがて団地の屋根の向こうへ沈んだ。富子は浴衣の袖で額の汗を押さえ、和俊は空になった器の小豆を匙ですくい集めている。八月四日の季節は、特別な出来事ではなく、食卓の匂いと古い思い出と親子の無駄話を一本ずつつなぎ、今年も二人の暮らしの中へ長い糸を残していった。
8月4日
くらげ
走馬燈
桐一葉
峰 雲
浴 衣
夏座敷
夕 焼
トマト
蕃茄・赤茄子
葭 簀
定斎屋
水 貝
夏ばて
百日草
睡 蓮
氷小豆
野 球
季語で織りなす季節の織り糸。




