八月二日、風鈴の鳴る台所
八月二日、風鈴の鳴る台所
八月二日の朝、富子は薄い桃色の半袖シャツに、膝のあたりが少し白くなった紺色のズボンを合わせた。東京は朝から三伏の暑さで、ベランダに出した洗濯物は、干しているそばから湯気を立てそうだった。エアコンを十八度にしても、台所で冷奴の水を切っていると、鼻の下に汗が浮いてくる。窓際の風鈴は、風がないので黙ったままで、食卓には昨夜飲み残した麦茶と、縁の欠けた醤油差しが置かれていた。
「今日は何を着ても暑いねえ。裸で歩くわけにもいかないし」
富子が豆腐に刻みねぎと鰹節をのせていると、白いTシャツに灰色の短パンをはいた息子の和俊が冷蔵庫を開けた。冷気に顔を近づけたまま、牛乳のパックを取り出し、直接飲もうとして富子に背中をたたかれる。冷蔵庫の隅には、昨日買った葛饅頭が二つ、透明な容器の中で涼しそうに並んでいた。
「コップを使いなさい。もう四十七歳でしょう」
「四十七歳でも暑いものは暑いんだよ。それより、その葛饅頭、ひとつ食べていい?」
「お昼のあとの楽しみ。いま食べたら、午後に何を楽しみに生きるのよ」
朝食を終えると、二人は近所の川辺まで歩くことにした。富子は日傘を差し、香水を手首に一滴だけつけたが、玄関を出た途端、むっとするアスファルトの匂いに負けてしまった。道端では夏草が塀の隙間から伸び、橙色ののうぜんの花が、一軒家の二階から道路へこぼれそうに咲いている。緑陰に入るたび、富子は歩幅を小さくして、そこから出るのを惜しんだ。
「昔は竹夫人を抱いて寝たんだってね。竹でできた細長い枕みたいなもの」
「母さんが抱いたら、朝には蹴飛ばしているよ」
「失礼ね。あんたなんか、子どもの頃、布団を蹴って畳の上で寝ていたでしょう」
「それ、いま言う必要ある?」
「本筋と関係ない昔話ほど、親はよく覚えているのよ」
川へ近づくと、昨夜の雨で水かさが増し、茶色い水が速く流れていた。上流では出水に備えて係の人が見回っており、萱を刈ったばかりの土手から、青い草と湿った土の匂いが立ち上っている。富子は柵から離れて歩きながら、雪渓の残る山なら、同じ八月でも指先が冷たくなるのだろうと考えた。東京の団地から遠い景色だったが、涼しさを思い浮かべるだけで、日傘を握る手から少し力が抜けた。
「川には近づきすぎないでね。蛇が出るかもしれないし」
「母さんのほうが蛇より怖いよ」
「じゃあ、先に歩きなさい。蛇が出たら、息子が母を守るものよ」
「そういうときだけ息子を使うんだから」
和俊が笑って先へ進むと、欄干の近くに天牛が止まっていた。黒い背中に白い模様があり、長い触角をゆっくり動かしている。富子は足を止めたが、子どものように捕まえようとはせず、日傘の柄を両手で握った。虫の向こうでは、小さな船料理の屋形船が係留され、昼の客を迎えるため、白い制服の料理人が器を運んでいた。
「天牛って、カミキリムシのことなのね。立派な名前をもらったものだわ」
「みるくだって立派な名前だろ。昨日、ゲームで何を買ったんだっけ?」
「聞かないで。庭具を探して、競売とイベント会場を何度も往復したのよ」
「見つからなかった?」
「見つからなかった。でも、探している時間まで無駄だったとは思わないわ。途中で、知らない家の庭に、とてもきれいな琉金の水槽があったもの」
帰宅すると、閉め切っていた部屋には冷房の乾いた空気がたまっていた。富子は汗で背中に張りついたシャツを着替え、白地に小さな朝顔が散った部屋着になった。和俊は扇風機の前に座り、声を震わせながら「あああ」と言って遊んでいる。流しには朝の豆腐の空き容器が残り、洗濯機の上では、取り込んだタオルが畳まれるのを待っていた。
「子どもみたいなことをしないで、葛饅頭を出して」
「さっきまで午後の楽しみって言ってたのに、もう食べるの?」
「川まで歩いたから、午後は始まりました」
「まだ十一時半だよ」
「時計より、私のお腹のほうが正確なの」
富子は葛饅頭をガラスの小皿へ移し、冷たい麦茶を二つのコップに注いだ。半透明の葛の中にこし餡が透け、匙を入れると、ぷるりと形を変える。甘さが舌の上に広がったところで、ベランダから一筋の風が入り、黙っていた風鈴がようやく鳴った。澄んだ音に重なるように、窓辺の丸い水槽で赤い琉金が尾をひるがえした。
「ねえ、和俊。雪渓にも行けなかったし、船料理も食べなかったけど、今日はなかなかよかったね」
「天牛を見て、蛇におびえて、葛饅頭を予定より早く食べただけだよ」
「それだけあれば十分よ。八月二日は、今日しかないんだから」
和俊は返事の代わりに、もう一つ残っていないかと冷蔵庫をのぞいた。富子は空になった容器を見せ、最後の麦茶をゆっくり飲んだ。外では夏草が照り返しの中で揺れ、のうぜんの花びらが一枚、熱い道路へ落ちていく。風鈴がもう一度鳴ると、富子は食べ終えた小皿を流しへ運び、洗濯物の山から和俊のTシャツを一枚つまみ上げた。
「午後は、これを畳むのを手伝ってね」
「葛饅頭を先に食べた代金?」
「そう。世の中に、ただの葛饅頭はありません」
「高くついたなあ」
二人の声が冷房の音に混じり、水槽の琉金は何も知らない顔で、涼しげな尾をもう一度揺らした。
8月2日
竹夫人
雪 渓
緑 陰
夏 草
天 牛
のうぜん
香 水
蛇
風 鈴
琉 金
船料理
三 伏
萱刈る
冷 奴
葛饅頭
出 水




