夏帯と鰻と九つの雷 7月28日
夏帯と鰻と九つの雷
七月二十八日の夏の朝、富子は薄い水色のブラウスに白い木綿のズボンをはき、鏡の前で紺地の夏帯を腹に巻いていた。着物を着る予定はないのだが、昨夜押し入れから見つけた帯を「腰痛に効くかもしれない」と考え、コルセットの代わりにしたのである。台所では冷めた味噌汁の表面に油揚げが浮き、流し台の横には洗い忘れた箸が二膳残っていた。窓の外には雲の峰が大きく育ち、梔子の花の甘い匂いが団地の植え込みから上がってきていたが、富子の腹は帯に締め上げられ、朝食のトーストすら入る隙間がなかった。
「お母さん、それ、着物の帯じゃないの」
息子の和俊は、黄色いTシャツと膝の出た灰色の短パン姿で冷蔵庫を開け、麦茶の容器が空なのを見て口をへの字にした。富子は帯の端を引っ張りながら、昔の女性はこれを巻いて一日中働いたのだから、自分にも耐えられるはずだと考えた。しかし、息を吸うたびに帯の下で腹の肉が上下へ逃げ、鏡に映る姿は粋な女将というより、ひもをかけられた贈答用のハムに近かった。
「夏帯は見た目も涼しそうでしょう」
「見た目より、お母さんの顔が暑そうだよ」
「今日は土用の丑の日だから、鰻を買いに行くの。腰を守る装備よ」
「鰻を買うのに、防具は要らないと思う」
午前十時を過ぎると、日の盛りにはまだ早いはずなのに、商店街のアスファルトはもう白く光っていた。富子は麦わら帽子をかぶり、首に水で濡らした手拭いを巻き、日除のある側だけを選んで歩いた。和俊は黒い日傘を差し、肩から下げた保冷バッグの中に凍らせた保冷剤と清水を入れた水筒を詰めている。途中の家では、梅が土用干にされ、竹ざるの上から酸っぱい匂いを立てていたが、富子は子どもの頃に梅干しの種をいつまでも口に入れて母に叱られたことを思い出した。
「昔は梅干し一個で、ご飯を二杯食べられたのよ」
「今も食べられるでしょう」
「今は鰻で二杯食べたいの」
「結局、二杯なんだね」
二人が鰻屋の前へ着くと、赤い日覆の下に十人ほどの客が並び、焼けたたれの匂いが通りいっぱいに広がっていた。富子の腹は夏帯に押さえられているのに、鼻だけは遠慮なく匂いを吸い込み、喉の奥に甘辛い味まで浮かんできた。店頭には「国産鰻、一串三千八百円」と書かれた札があり、その数字を見た富子は財布を開き、千円札を三枚と小銭を何度も数え直した。財布の奥からは去年の歯科医院の診察券と、もう使えないスーパーの割引券が出てきた。
「一串買ったら、今月の食費が鰻に食べられちゃうわね」
「鰻が鰻を食べるみたいに言わないでよ」
「半分ずつにしましょう。私は頭のほうでいいわ」
「関東の蒲焼きに頭はついてないよ」
そのとき、空の奥で雷が一つ鳴り、店の列に並んでいた人たちがいっせいに雲を見上げた。二つ、三つと続き、九つ目の雷が腹に響いたところで、大粒の雨が日盛りの道を黒い水玉模様に変えた。富子は日射病を心配して水筒を持ってきたのに、今度はずぶ濡れになる心配をしなければならず、人間は夏になるだけで忙しいものだと思った。鰻屋の主人が店先の日覆を伸ばし、並んでいた客たちを軒下へ招き入れた。
「雷が九回鳴ったわ。九は苦労の九ね」
「数えていたの?」
「暇だったから」
「鰻の値段を見ている間も数えられたんだ」
「私は二つのことを同時にできる女なのよ」
「夏帯をコルセットにする女でもあるけどね」
雨は十分ほどで通り過ぎたが、蒸し暑さだけを置き土産にしていった。鰻を一串買った二人は、帰り道に氷旗の揺れる甘味処を見つけ、吸い寄せられるように店へ入った。富子は苺のかき氷、和俊は宇治金時を注文し、冷房の風が当たる席で濡れた手拭いと帽子を椅子の背に掛けた。店の隅には朝顔の鉢があり、壁の時計の下では小さな扇風機が首を振りながら、誰もいない方向へ律儀に風を送っていた。
「冷たいものはお腹によくないって、いつも僕に言うでしょう」
「これは暑気払いよ」
「昨日は冷麺を食べていたよね」
「あれは晩夏を無事に迎えるための予行練習」
「まだ七月だよ」
「夏は油断すると、すぐ終わるのよ」
家へ戻るころには雨雲が去り、濡れた道路からむっとする土と埃の匂いが立ち上っていた。富子は玄関で靴を脱いだ途端、夏帯の結び目が固くなっていることに気づき、両手を背中へ回して何度も引っ張った。和俊も手伝ったが、汗を吸った帯はびくともせず、二人は鰻の入った袋を下駄箱の上へ置いたまま、十分近く格闘した。下駄箱には未開封のマスクと町内会の回覧板が積まれ、その上で鰻のたれが入った小袋がゆっくり傾いていた。
「切るしかないんじゃない」
「駄目よ。おばあちゃんの帯なの」
「じゃあ、そのまま寝る?」
「鰻を食べたら、体が細くなって抜けるかもしれない」
「鰻にそんな即効性はないよ」
「では、先にお昼にしましょう」
二人は縁側代わりの窓辺に座って端居をし、扇風機を強にして鰻を半分ずつご飯にのせた。富子は薄紫の部屋着に着替えられないまま、水色のブラウスと夏帯という妙な格好で箸を持ち、山椒を振りすぎて盛大なくしゃみをした。和俊の茶碗には大きいほうの鰻がのっていたが、富子は何も言わず、冷蔵庫に残っていた胡瓜の浅漬けを二切れ多く自分の皿へ移した。窓から入る風には雨に洗われた梔子の花の匂いが混じり、遠くでは先ほどとは別の雷が小さく鳴っていた。
「お母さん、大きいほうを食べていいよ」
「いいの。若い人は力をつけなさい」
「胡瓜は二切れ多く取ったけどね」
「これは帯を外すための報酬です」
「食べ終わったら、もう一度やってみようか」
「お願い。その前に、ご飯を半膳だけおかわり」
「帯、ますます抜けなくなるよ」
富子は箸を止めて腹を見下ろし、それから鰻の残った茶碗を見た。暑き日の午後に、鰻を前にして帯の都合を優先するのは間違っていると、彼女はすぐに結論を出した。帯は明日でも外せるが、焼きたての鰻は今日しか食べられない。富子が炊飯器へ手を伸ばすと、和俊は笑いながら茶碗を取り上げ、自分の分と一緒に半膳ずつよそった。
「これを食べたら、二人で引っ張ろう」
「掛け声はどうする?」
「せーの、でいいでしょう」
「それでは普通すぎるわ。鰻だけに、ぬるりと抜けろ、でいきましょう」
「絶対に力が入らないよ」
7月28日
夏 帯
夏の朝
雲の峰
鰻
土用干
日除・日覆
日の盛
清 水
雷 9
氷 旗
晩 夏
日 盛
日射病
冷 麺
暑 き
端 居
鰻
梔子の花




