五月の闇を抜けて
五月の闇を抜けて
胸の奥がじりじりと焦げ付くような、やり場のない焦燥感に、おばあさんは朝からずっと支配されていた。五月晴れのまぶしい光が窓から差し込んでいるというのに、彼女の心にはどんよりとした暗い雲、まるで五月闇のような重苦しさが居座っている。
「もう六月六日だってのに、なんでこんなに心が晴れないのかしらねえ」
おばあさんは、新しく新調したばかりの、薄手で涼しげな麻のブラウスの袖を何度も引っ張った。今日から施設の衣替えだというのに、彼女の心はまだ冬の分厚いコートを脱ぎ捨てられずにいるようだった。
食堂へ向かう廊下を歩きながら、おばあさんはどこか投げやりな気持ちで、自分の足元ばかりを見つめていた。カサカサと乾いた上履きの音が、コンクリートの床に虚しく響く。
「あら、おばあさん。ずいぶんとお洒落な服に着替えたのね。とっても似合っているわよ」
車椅子に乗ったなじみの老婦人が、車輪を止めて声をかけてくれた。
「ありがとう。でもね、なんだか体だけが軽くなって、心が置いてけぼりになっているみたいで嫌になっちゃうわ」
「贅沢な悩みよ。私なんて、この膝の痛みのせいで、心までカサカサの油虫みたいに干からびそうだっていうのに」
老婦人は冗談めかして笑ったが、おばあさんはただ、力なく微笑み返すことしかできなかった。
食堂に入ると、むっとするような炊きたてのご飯の匂いと、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。今日の昼食は、昔懐かしい「早苗饗」をイメージした特別メニューなのだという。
「お待たせしました。今日は田植えの時期の節目ですからね、初夏の味覚を楽しんでください」
若い介護職員が、にこやかにお盆をテーブルに置いた。
「まあ、実梅の甘露煮がついているのね。それにこのお吸い物の青々とした香りは、あやめかしら」
おばあさんは、目の前に並んだ料理をじっと見つめた。お皿の上には、ふっくらと炊き上がった豆ご飯と、じっくり煮込まれた麦藁蛸の柔らか煮が盛られている。蛸の吸盤が並んだ姿を見て、おばあさんはふっと遠い故郷の海を思い出し、胸の奥がキュンと切なくなった。
「美味しい。でも、どうしてかしら。喉を通るときに、なんだか少しだけ苦いような気がするの」
「それはおばあさんの心が、ちょっとだけ五月病を引きずっているからですよ。ほら、しっかり食べないと体力が持ちませんよ」
介護職員は優しく肩を叩いてくれたが、おばあさんの心の霧は晴れなかった。
食後、おばあさんは手持ち無沙汰になり、中庭に面したテラスへ足を運んだ。外の空気を吸えば、この胸のつかえが取れるかもしれないと思ったのだ。
テラスの隅には、小さなビオトープが設置されていた。水面を覗き込むと、小さな目高たちが、きらきらと光を反射させながら元気に泳ぎ回っている。そのすばしっこい動きを見ていると、おばあさんは自分の衰えた体との落差を突きつけられたようで、また少しだけ寂しい気持ちになった。
「おや、おばあさんも目高の様子を見にきたのかい」
隣にやってきたのは、いつも庭の手入れを手伝っている偏屈な老爺だった。
「ええ。元気によく動くこと。私なんて、あそこの石の陰でじっとしているひきがえるみたいに、もう動くのも億劫だというのに」
「何を言っているんだ。ひきがえるだって、夜になれば必死に生きるために這い出してくるさ。ほら、あっちの草むらを見てごらん。青蛙が跳ねている。あいつらは、自分の衣替えなんて気にせず、いつでも青々と誇らしげに生きているじゃないか」
「そうね。でも、私にはあの青さが、眩しすぎて少し痛いのよ」
おばあさんは、自分の白いブラウスの裾をぎゅっと握りしめた。
庭の向こうからは、かすかに「ホーホケキョ」という鳴き声が聞こえてきた。しかし、その声は春先の張りのある声とは違い、どこかしわがれていて、物悲しい。
「老鶯ね。あの鳥も、自分の盛りが過ぎたことを知って、あんなに寂しそうに鳴いているのかしら」
「鳥の気持ちなんてわかりゃしないよ。だがね、あそこに咲いている罌粟の花を見てごらん。あの燃えるような赤さは、今が一番美しいと叫んでいるようじゃないか」
老爺が指さした先には、風に揺れる鮮やかな罌粟の花があった。その強烈な色彩は、おばあさんの曇った瞳に一瞬だけ強い刺激を与えた。
「綺麗ね。でも、なんだか散る前の最後の花火を見ているようで、やっぱり少し切なくなるわ」
「おばあさんは、今日はずいぶんとセンチメンタルだな。蠅取り紙に引っかかった蠅みたいに、ネガティブな思考から抜け出せなくなっているぞ」
「あら、失礼ね。私だって、好きでこんなにウジウジしているわけじゃないわよ」
おばあさんは少しだけ口を尖らせたが、そのおかげで心の澱が少しだけ外に流れ出たような気がした。
ふと見ると、中庭の生垣には、色とりどりの紫陽花が咲き始めていた。
「まあ、あそこの七変化、もうあんなに色が変わり始めているのね」
「ああ。最初は白っぽかったのが、今じゃすっかり綺麗な紫や青だ。人間の心も、あの花みたいにコロコロ変われば楽なんだけどな」
「本当にね。私の心も、あの花みたいに、明日には綺麗な色に変わってくれればいいのに」
おばあさんは、紫陽花のしっとりとした花びらを指先でそっと撫でた。ひんやりとした感触が、火照った指先から心へと伝わっていく。
生垣の向こうには、白い花を咲かせた花茨が、甘く濃厚な香りを漂わせていた。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、おばあさんの脳裏に、昔家族で出かけた初夏の山の風景が鮮やかによみがえった。
「あの頃は、あやめの花が咲く川辺を、みんなでよく歩いたものだわ」
「過去を懐かしむのはいいが、今の景色も見なきゃもったいないぞ。ほら、あそこの葉桜をごらん。花は散ってしまったが、あの瑞々しい緑の葉っぱは、これから夏が来るぞって、力強く生きているじゃないか」
老爺の言葉に、おばあさんはゆっくりと視線を上げた。太陽の光を透かして、黄緑色に輝く葉桜の葉が、さらさらと風に揺れている。その音は、まるでおばあさんの背中を優しく押してくれるかのように心地よかった。
「ねえ、おじいさん。私、自分の心の五月闇にばかり目を向けていたわ。でも、周りを見渡せば、こんなにたくさんの命が、それぞれの色で一生懸命に生きているのね」
「やっと気づいたかい。衣替えをしたんだから、心の中の古い上着も、さっさと脱ぎ捨てちまいなよ」
「そうね。なんだか、少しだけお腹が空いてきたわ。お部屋に戻って、冷たいお茶でも淹れましょうか」
おばあさんは、大きく深呼吸をした。胸の奥にたまっていた重苦しい空気は、花茨の香りと葉桜のざわめきの中に、いつの間にか溶けて消えていた。
新調した麻のブラウスが、初夏の風にふわりと揺れる。おばあさんは、今度こそ心からの笑みを浮かべ、確かな足取りで部屋への道を歩き始めた。




