六月六日の五月闇
六月六日の五月闇
胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
朝、障子を開けた瞬間に流れ込んできた風が涼しかったからかもしれないし、昨夜まで降っていた雨が上がり、久しぶりに青空が見えたからかもしれない。
六月六日。
暦の上では更衣の日だった。
七十二歳の節子は箪笥の前に座り、冬物の上着を丁寧に畳んでいた。
「やっとしまえるねえ」
誰に言うでもなく呟く。
薄い藤色のブラウスに、紺色の綿のスカート。
若い頃から好んでいる組み合わせだった。
窓の外では五月晴の空が広がっている。
庭の実梅が朝日に照らされ、青い実を重たそうにつけていた。
台所からは炊き立てのご飯の匂いが漂う。
今日は早苗饗の日でもある。
田植えの無事を願い、田の神に感謝する日。
昔は村中が賑わったものだ。
節子は焼き鮭と味噌汁を並べながら、亡くなった夫のことを思い出していた。
「おとうさん、田植えの日になると張り切ってたものね」
返事はない。
けれど懐かしい笑顔だけは鮮明だった。
朝食を終えた頃、縁側の下でごそりと音がした。
「なんだろう」
覗き込むと、大きなひきがえるがじっと座っている。
「まあ、あんたまだいたの」
去年も見かけた気がする。
節子が笑うと、ひきがえるは何も答えず、ただのっそりと草むらへ消えた。
その先では小さな青蛙が葉の上にちょこんと乗っている。
梅雨前の湿った空気が好きなのだろう。
「みんな生きてるんだねえ」
節子は少し嬉しくなった。
昼前になると近所の美代子がやって来た。
「節ちゃん、散歩しない?」
「いいわよ」
二人は麦わら帽子を被り、川沿いの道を歩いた。
道端には花茨が咲いている。
淡い桃色の花びらが風に揺れるたび、甘い香りが漂ってきた。
「あら、きれい」
「毎年見ても飽きないねえ」
美代子が言う。
さらに進むと、あやめが群れて咲いていた。
紫の花が陽光を浴びて輝いている。
「若い頃は花なんて見向きもしなかったのにね」
「忙しかったもの」
「そうそう。子育てに仕事に介護に」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いには、長い人生を生きてきた者だけが持つ苦みと優しさが混じっていた。
川の水面では目高が群れをなして泳いでいる。
「小さい魚を見ると安心するのよね」
節子が言う。
「どうして?」
「なんだろう。世界がちゃんと続いてる気がするの」
美代子はしばらく考えてから頷いた。
「わかる気がする」
その時だった。
どこからか老鶯の声が聞こえてきた。
深い森の奥から響くような美しい声。
二人は足を止めた。
「上手になったねえ」
「若い鶯の声じゃないね」
しばらく黙って聞き入る。
風の音。
鳥の声。
草の匂い。
そのどれもが懐かしく感じられた。
帰り道、畑では田植えが始まっていた。
若い夫婦が泥だらけになりながら苗を植えている。
「大変そうねえ」
「でも楽しそう」
節子はそう言ったあと、自分でも驚いた。
昔なら大変さしか見えなかった。
けれど今は違う。
苦労の向こう側にある喜びも見えるようになった。
夕方になると空が曇り始めた。
五月闇が近づいてくる。
まだ六月なのに昔の人はこの時期の夜をそう呼んだ。
夕食は筍ご飯の残りと煮魚。
食後に梅の砂糖漬けを少しだけ口にした。
甘酸っぱい香りが広がる。
「今年も梅仕事をしなきゃね」
誰もいない居間で呟く。
すると窓辺に七変化が咲いているのが見えた。
紫陽花だ。
青だった花が紫に変わり、さらに桃色へ移ろうとしている。
「人間みたい」
節子は思わず笑った。
若い頃の自分。
子育てに追われた自分。
夫を見送った自分。
今の自分。
どれも同じ人間なのに少しずつ違う。
紫陽花の色のように。
夜になった。
五月闇が庭を包む。
遠くで蛙が鳴いている。
灯りに誘われた油虫が窓の外を這い、蠅取草の葉が静かに揺れていた。
仏壇に手を合わせる。
「おとうさん」
小さく呼びかける。
「今日はいい日だったわ」
不思議と涙は出なかった。
寂しさが消えたわけではない。
けれど、その寂しさも人生の一部として抱きしめられるようになっていた。
窓の外には葉桜が闇に溶けている。
春は終わった。
けれど終わったからこそ、実梅は実り、田には早苗が植わり、あやめは咲く。
節子は静かに微笑んだ。
「年を取るのも悪くないねえ」
老鶯の声が、どこか遠くでまた一つ響いた。
その声はまるで、これからも生きていきなさいと語りかけているようだった。
節子は明かりを消し、六月の夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
暗い五月闇の向こうには、まだ見ぬ明日が静かに待っていた。
6月6日
更 衣
五月晴
油 虫
早苗饗
田 植
ひきがえる
青 蛙
実 梅
あやめ
老 鶯
罌粟の花
目 高
麦藁蛸
蠅 取
七変化
五月闇
花 茨
あやめ
葉 桜




