五月闇の約束
五月闇の約束
胸の奥が、どうしようもなくざわついていた。
何か悪いことが起きるわけではない。
誰かに叱られたわけでもない。
それなのに、美琴は朝から落ち着かなかった。
窓の外には曇り空が広がっている。
六月五日。
更衣の日だった。
制服も冬服から夏服へ変わり、生徒たちはどこか浮き立っている。
だが、美琴の心だけは晴れなかった。
「どうしたの?」
母が朝食の味噌汁を運びながら尋ねた。
「ううん、なんでもない」
そう答えたものの、自分でも理由は分からない。
食卓には焼きたての鰹のたたきが並んでいた。
玉ねぎと大葉がたっぷり添えられている。
湯気の立つご飯。
豆腐の味噌汁。
青梅の甘露煮。
どれも美味しそうなのに、今日は食欲が湧かなかった。
「学校で何かあるの?」
「別に」
「好きな人でもできた?」
「違うって!」
思わず声が大きくなる。
母は楽しそうに笑った。
美琴は耳まで赤くなった。
実は少しだけ心当たりがあった。
同じクラスの悠斗だ。
いつも優しい。
誰にでも分け隔てなく接する。
だからこそ特別にはなれない。
そんな相手だった。
学校へ向かう途中、田んぼでは早乙女たちが田植えをしていた。
色とりどりの帽子が風に揺れる。
水面には空が映り、目高の群れが泳いでいた。
「綺麗……」
思わず足を止める。
その時だった。
「おはよう」
聞き慣れた声がした。
振り返ると悠斗が立っていた。
白い夏服のシャツ。
肩に掛けたスクールバッグ。
少し寝癖の残る黒髪。
胸がどきりと鳴る。
「お、おはよう」
「どうした?」
「何が?」
「元気ない」
美琴は慌てて首を振った。
「そんなことない」
「そう?」
悠斗は首を傾げる。
その仕草が反則だった。
朝から心臓に悪い。
二人は並んで学校へ向かった。
校門をくぐると、校庭の隅に咲く野茨が白い花を咲かせていた。
甘い香りが風に乗る。
教室へ入る。
一時間目は国語。
しかし美琴は授業に集中できなかった。
窓の外では老鶯の声が聞こえる。
どこか枯れたような鳴き声。
長い年月を生きた鳥の声だった。
その声を聞いていると、胸の不安が少し和らぐ。
昼休み。
美琴は親友の真帆と食堂へ向かった。
「で?」
真帆がにやりと笑う。
「何が?」
「悠斗君」
「何もないって」
「顔に書いてある」
「書いてない」
二人は笑い合った。
今日の日替わりは洗膾風の冷製魚料理だった。
酢の香りが爽やかで美味しい。
デザートには心太まで付いている。
透明な心太を口に運ぶと、ひんやりとした感触が喉を滑った。
「幸せ……」
思わず呟く。
「単純」
真帆が笑う。
その時だった。
校内放送が流れた。
「本日の放課後、文化祭実行委員は視聴覚室へ集合してください」
美琴は箸を止めた。
実行委員。
悠斗も参加している。
胸がまたざわつく。
放課後。
視聴覚室には三十人ほどの生徒が集まっていた。
文化祭の出し物を決める会議だ。
だが議論はなかなかまとまらない。
「演劇がいい」
「いや、お化け屋敷だろ」
「喫茶店も捨てがたい」
意見が飛び交う。
空気は重くなっていく。
まるで黴が広がるように停滞していた。
そんな時だった。
「みんな、一回整理しよう」
悠斗が立ち上がった。
穏やかな声。
だが不思議と説得力がある。
皆が静かになる。
「まずやりたいことを書き出そう」
会議は少しずつ前に進み始めた。
美琴はその姿を見つめていた。
いつもそうだ。
悠斗は誰かを押しのけたりしない。
けれど気付けば人の中心にいる。
その優しさが好きだった。
会議が終わった頃には外は薄暗くなっていた。
五月闇という言葉がぴったりの夕暮れだった。
雲が空を覆い、世界が青黒く沈んでいる。
「送るよ」
帰り道。
悠斗が言った。
「え?」
「家、途中まで一緒だろ」
美琴は心臓が止まりそうになった。
「う、うん」
二人は静かな道を歩く。
田んぼからは蛙の声。
湿った土の匂い。
蚯蚓が顔を出したばかりの畦道。
どこか幻想的だった。
「文化祭、楽しみだな」
悠斗が言う。
「そうだね」
「美琴は何したい?」
「私は……」
少し考える。
本当は。
あなたと一緒なら何でもいい。
そう言いたかった。
けれど言えるはずがない。
「喫茶店かな」
「いいな、それ」
悠斗が笑う。
その時だった。
ぽつり。
頬に冷たい感触が落ちた。
雨だった。
「薬降るだな」
悠斗が空を見上げる。
昔の言葉で六月の雨をそう呼ぶと祖父から聞いたことがある。
恵みの雨。
草木を元気にする雨。
やがて雨脚が強くなった。
「走ろう!」
悠斗が手を伸ばす。
美琴は反射的にその手を掴んだ。
温かかった。
二人は笑いながら走った。
雨の中を。
夕闇の中を。
学校指定の鞄が揺れる。
制服が濡れる。
それでも楽しかった。
公民館の軒下へ飛び込んだ時には、二人とも息を切らしていた。
「ははっ、びしょ濡れだ」
悠斗が笑う。
美琴も笑った。
さっきまで胸を満たしていた不安はどこかへ消えていた。
代わりに温かな気持ちが広がっている。
「ねえ」
悠斗が言う。
「なに?」
「文化祭、一緒に頑張ろうな」
たったそれだけの言葉だった。
けれど美琴には宝物のように聞こえた。
「うん」
力強く頷く。
遠くでは雷が小さく鳴っていた。
雨はまだ続いている。
けれど今の美琴には、その雨さえ優しい音に聞こえた。
胸の奥を曇らせていた五月闇は、いつの間にか静かに晴れ始めていたのである。




