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6月5日 『氷室の鍵と五月闇』

『氷室の鍵と五月闇』


――胸の奥に、じっとりと冷たい汗がにじむような、底知れない恐怖に震えていた。

志乃は、初夏の陽気には少し薄手すぎる藍染めの木綿の単衣の袖を、きゅっと握りしめた。六月五日。外はどんよりとした雲が低く垂れ込め、昼間だというのにまるで夜のように暗い**五月闇**の空が広がっている。世間は**更衣**の季節だと華やいでいるが、志乃の心は、家の中に漂う**黴**の匂いとともに、暗く沈み込んでいた。

「ねえ、源さん。あのお寺の裏手にある**氷室**、何だか最近、誰かが夜中にコソコソと出入りしているような気がするの。気のせいかしら」

志乃は、台所で夕食の支度をする夫の源次郎の背中に向かって、不安に震える声を絞り出した。

「ただの気のせいさ。そんなに怯えるな、志乃。ほら、お前がそんな顔をしているから、庭の**未草**の花も、どこか寂しげに閉じて見えるぞ」

源次郎はそう言って笑ったが、その目が一瞬だけ泳いだのを、志乃は見逃さなかった。窓の外の小さな池では、水面を揺らすように**目高**が狂ったように泳ぎ回り、湿った土からは、雨を察知した大きな**蚯蚓**が這い出してきている。その光景のすべてが、志乃には不吉な前兆に思えてならなかった。


数日前から、村の蔵から古い地図が盗まれたという噂が立っていた。

「お前は少し考えすぎなんだ。ほら、気分転換に冷たいものでも食べよう」

源次郎はそう言うと、戸棚から**絵扇**を取り出して、志乃の顔にパタパタと涼しい風を送った。そして、格子模様の**蠅帳**を持ち上げ、中からガラスの器を取り出した。

「ほら、お前が好きな**心太**だ。黒蜜をたっぷりかけておいたぞ」

志乃は、つるりとした心太を口に運んだ。ひんやりとした冷たさと、濃厚な黒蜜の甘さが口いっぱいに広がる。しかし、その甘ささえも、今の志乃の喉を滑り落ちるときには、どこか冷たい不気味な感触に変わってしまうのだった。


夕刻になり、外からは**早乙女**たちが田植えを終えて引き上げる賑やかな声が聞こえてきたが、それもすぐに、遠くの森で鳴く**老鶯**のしわがれた声にかき消されていった。

「源さん、私、やっぱり気になるわ。今日、お寺の**野茨**の生垣のところで、こんなものを拾ったの」

志乃はポケットから、小さな、しかし古びた鉄の鍵を取り出した。

「これは……」

源次郎の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。その時、開け放った窓から、ぽつり、ぽつりと雨が降り出してきた。今日は旧暦の五月五日、薬草を摘む雨、すなわち**薬降る**日だ。

「志乃、それをどこで見つけた」

源次郎の声が、いつになく低く、鋭くなった。志乃は夫のその豹変ぶりに、息が詰まるほどの恐怖を感じた。


「お寺の裏、あの氷室のすぐそばよ。源さん、あなた、昨夜そこへ行ったのね? あなたの着物に、氷室の古い藁の匂いがついていたもの。それに、その手……」

志乃は、源次郎の右手の甲に、野茨の棘で引っ掻いたような赤い傷があるのを見つめた。

「……隠し通せる気はしていなかったが、まさかお前に見破られるとはな」

源次郎は深く大きな溜息をつくと、観念したように肩の力を抜いた。

「まさか、源さんが泥棒だなんて、私、信じたくないわ!」

志乃は涙を浮かべ、夫を激しく問い詰めた。


「違うんだ、志乃。俺は泥棒なんかじゃない。あの古い氷室の奥には、村の先祖が隠したという、古い美術品が眠っているという言い伝えがある。それを狙っている悪党が村に紛れ込んでいるのを知って、俺は先回りして、氷室の鍵を付け替えて守ろうとしたんだ」

源次郎の言葉に、志乃の胸を支配していた冷たい恐怖が、すうっと温かい安堵へと変わっていった。

「じゃあ、源さんは村を守ろうとしていたのね? 疑ってしまってごめんなさい、源さん……」

志乃は夫の胸に顔を埋め、その温もりに涙を拭った。

「いいんだ。お前が心配してくれるのは、それだけ俺を思ってくれている証拠だからな。さあ、冷めないうちに夕飯にしよう。今夜は、お前を元気づけるために、腕によりをかけたんだ」

源次郎は優しく志乃の肩を叩くと、食卓に豪華な料理を並べ始めた。


今夜の主役は、丸々と太った**鰹**の刺身と、新鮮な白身魚の**洗膾**だった。さらに、珍しい海の幸である**鱝**の煮付けまで並んでいる。

「わあ、美味しそう……!」

志乃の目は一瞬で輝いた。洗膾に添えられた**青梅**の甘酢漬けの香りが、部屋の空気を爽やかに変えていく。

「さあ、食べよう」

一口食べると、鰹の濃厚な旨味と、洗膾のシコシコとした小気味よい食感が口いっぱいに広がり、志乃の荒んでいた五感を心地よく満たしていった。

「美味しいわ、源さん。本当に美味しい」

「そうか、良かった。お前が笑ってくれるのが、俺にとって一番の薬さ」

源次郎も嬉しそうに目を細め、二人で箸を進めた。


夜が更ける頃には、雨はすっかり上がり、雲の隙間からかすかな星の光が覗いていた。

「ねえ、源さん。明日はいいお天気になりそうね」

「ああ、そうだな。明日は庭で、子供たちみたいに**草矢**でも作って飛ばして遊ぶか」

「ふふ、いいわね。昔を思い出して、どちらが遠くまで飛ばせるか勝負しましょう」

二人は顔を見合わせて、どっと笑い声を上げた。

五月闇の恐怖は消え去り、部屋の中には、二人の温かい笑顔と、美味しい料理の余韻だけが、優しく満ちあふれていた。



6月5日


更 衣


五月闇


心 太


早乙女



蚯 蚓


目 高


青 梅



老 鶯 


洗 膾


薬降る


未 草


蠅 帳



絵 扇


野 茨


氷 室


草 矢



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