滝の里と七変化の姫
滝の里と七変化の姫
リリアは、自分が本当にこの村にいていいのだろうかと、ときどき不安になることがあった。
誰もそんなことは言わない。
村人たちは優しいし、育ての祖母も深い愛情を注いでくれた。
それでも胸の奥には、小さな棘のような違和感が残っている。
自分だけが何かを知らない。
自分だけが何かを忘れている。
そんな感覚だった。
六月の朝。
山あいの村には、やませが冷たい風を運んできていた。
リリアは単衣の薄青いワンピースに袖を通し、木の窓を開けた。
湿り気を含んだ風が頬を撫でる。
庭では蜜柑の花が咲いていた。
白い花から漂う甘い香りが朝露と混じり合っている。
「おばあちゃん、おはよう」
台所へ下りると、祖母のエルナが朝食を並べていた。
焼きたての黒パン。
山羊のチーズ。
桑の実のジャム。
温かな薬草茶。
「おはよう、リリア」
「いい匂い」
「今朝は桑の実を煮たんだよ」
紫色のジャムは宝石みたいに艶やかだった。
リリアが一口食べると、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。
「おいしい!」
「そうかい」
祖母は目を細めた。
その笑顔を見ると安心する。
けれど同時に胸が痛んだ。
自分の本当の家族は誰なのだろう。
そんな疑問が消えないからだった。
食事を終えると、リリアは村外れの滝へ向かった。
毎日通うお気に入りの場所だった。
山道には青梅が実り始めている。
田植えを終えた棚田には水が満ち、空を映していた。
水面近くを生まれたばかりの蜻蛉が飛んでいる。
初夏の光が羽を透かしていた。
滝へ近づくにつれて水音が大きくなる。
やがて巨大な岩壁から流れ落ちる白い滝が姿を現した。
轟音を立てながら落ちる水。
飛沫が陽光を受けて虹を作っている。
リリアは岩に腰掛けた。
ここへ来ると心が落ち着く。
まるで誰かが呼んでいるような気がするのだ。
その時だった。
水面が揺れた。
不自然なほど静かに。
「え……?」
次の瞬間、滝壺の中央から人影が現れた。
銀色の長い髪。
透き通るような白い肌。
青い瞳。
美しい女性だった。
「ようやく見つけました」
声は鈴のように澄んでいた。
リリアは慌てて立ち上がる。
「だ、誰ですか?」
「私は水の民の巫女、セレナ」
女性は優雅に礼をした。
「あなたを迎えに来ました」
「私を?」
「はい。リリア様」
知らない呼び方だった。
胸がざわつく。
「人違いです」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「あなたは人間ではありません」
リリアは凍り付いた。
滝の音だけが響く。
「何を言って……」
「あなたは水竜王の娘です」
世界が止まった気がした。
思わず笑いそうになる。
馬鹿げている。
そんな話があるはずがない。
けれど。
なぜだろう。
否定しきれない。
昔から自分は水の中で息苦しくなったことがなかった。
川へ落ちても溺れなかった。
不思議なことが何度もあった。
「嘘……」
「真実です」
セレナは静かに言った。
「そして王が病に倒れました」
「王?」
「あなたのお父上です」
胸が強く痛んだ。
会ったこともないはずなのに。
なぜか涙が出そうになる。
「私は……」
言葉が続かなかった。
その時だった。
森の奥から悲鳴が聞こえた。
「助けてくれ!」
村人の声だった。
リリアとセレナは顔を見合わせる。
急いで駆け出した。
村の広場では大騒ぎになっていた。
牛小屋の壁に黒い黴のようなものが広がっている。
しかしそれは黴ではなかった。
生き物だった。
黒い粘液が蠢いている。
「魔瘴だ!」
村長が叫んだ。
「山の封印が破れたんだ!」
黒い塊はどんどん広がる。
草を枯らし。
木を腐らせ。
石さえ溶かしていく。
村人たちは逃げ惑った。
リリアの身体が震える。
怖かった。
だが逃げたくなかった。
この村は自分の居場所だからだ。
「みんなを守りたい……」
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
青い光が身体から溢れ出した。
村人たちが驚く。
リリア自身も驚いていた。
光は巨大な水の柱となって空へ伸びた。
まるで滝が逆流したようだった。
「リリア様!」
セレナが叫ぶ。
青い光が黒い魔瘴を包み込む。
激しい音。
水しぶき。
光。
そして静寂。
魔瘴は跡形もなく消えていた。
村人たちは呆然としている。
リリアは膝をついた。
息が苦しい。
「私……何を……」
セレナがそっと肩を支えた。
「覚醒なさいました」
「覚醒?」
「水竜王家の力です」
村人たちがざわめく。
誰もが驚いている。
だが祖母のエルナだけは静かだった。
ゆっくり前へ出る。
「やっぱりその日が来たかい」
リリアは目を見開いた。
「おばあちゃん……知ってたの?」
エルナは寂しそうに笑った。
「知っていたよ」
「どうして言わなかったの?」
「いつか自分で選ばなきゃならないと思っていたからさ」
夕凪が村を包み始めていた。
風が止まり。
空が茜色に染まる。
広場の集会所では村人たちが食事の支度を始めていた。
大鍋の冷汁。
焼いた鰹。
香草を添えた野菜料理。
不安な一日だったのに、不思議と温かな匂いが漂う。
リリアは祖母の隣に座った。
切子の杯に入った山葡萄の果汁が夕陽を受けて輝いている。
「怖いよ」
リリアは正直に言った。
「当たり前さ」
祖母は優しく頭を撫でた。
「でもね、人は怖いから進めないんじゃない。怖くても大事なもののために歩くんだよ」
涙が滲んだ。
「私は村を守りたい」
「なら守ればいい」
「でも王様も助けたい」
「それも大事な気持ちだね」
セレナが静かに微笑んだ。
「水の都への道は明日開きます」
リリアは夕焼け空を見上げた。
七変化の紫陽花が風に揺れている。
色を変えながら咲く花は、まるで今の自分みたいだった。
村娘なのか。
王女なのか。
まだ分からない。
けれど一つだけ確かなことがある。
自分には帰る場所があり、守りたい人たちがいる。
だから前へ進める。
滝の音が遠くから聞こえていた。
それはまるで、新しい運命の始まりを告げる鐘の音のようだった。




