6月4日 『水底に沈む秘密』
『水底に沈む秘密』
――胸の奥が、冷たい泥で満たされていくような、言いようのない不気味さに囚われていた。
志乃は、肌触りの良い麻の**単衣**の袖をそっと引き絞りながら、目の前に広がる池の濁った水面をじっと見つめていた。六月四日。空気はねっとりと肌にまとわりつき、どこからか漂ってくる**黴**の匂いが、彼女の不安をさらに掻き立てる。水を張ったばかりの田んぼからは、遠くで行われている**田植**の作業音がかすかに響いていたが、志乃の耳には、それがまるで誰かの足音のように不吉に聞こえていた。
「ねえ、源さん。あの池の真ん中にあるの、鳥の**浮巣**かしら。何だか、不自然に波打っているように見えるのだけど」
志乃は隣に立つ夫の源次郎の腕を、少し強い力で掴んだ。彼女の指先は、恐怖でかすかに震えている。
「ただの水鳥の巣だろう。それより志乃、顔色が悪いぞ。東北の方から冷たい**やませ**の風が吹き込んでいるせいか、少し冷えるな。早く家に戻ろう」
源次郎は気遣わしげに彼女の肩を抱いた。その優しい手の温もりさえ、今の志乃には、何かを隠そうとする焦りのように感じられてならなかった。
数日前から、この静かな農村の空気が一変していた。村の有力者が行方不明になり、様々な噂が飛び交っている。
家に戻る道すがら、生垣の**七変化**の花が、どんよりとした曇り空の下で、どこか禍々しいほど鮮やかに色を変えて咲き誇っていた。足元を見れば、小さな**蜻蛉生る**瞬間に出くわしたが、その儚い命の誕生さえ、今の志乃には不吉な前兆に思えてしまう。
「ほら、お前がそんなに暗い顔をしているから、庭の**青梅**でも見て気分を変えなさい。今年もたくさん実をつけたな。あ、こっちには**桑の実**も熟しているぞ」
源次郎は、生垣の隅にある木から黒紫色の桑の実をいくつか摘み取ると、志乃の手のひらに乗せた。
「ありがとう。でも、何だか胸がざわついて、味がよく分からないわ……」
口に含むと、特有の甘酸っぱさと、わずかな渋みが広がった。しかし、志乃の心を占めている霧は一向に晴れない。庭の隅にひっそりと咲く**現の証拠**の小さな花が、まるで「ここに真実がある」と告発しているかのように見えて、彼女は思わず目を背けた。
「お腹が空いては、余計に悪いことばかり考えてしまう。昼飯にしよう」
源次郎はそう言って、志乃を台所へと促した。
今日の昼食は、宮崎の郷土料理である**冷汁**だった。香ばしく焼いた味噌と、すりつぶした胡麻、大葉やミョウガの爽やかな香りが、温い部屋の中に広がっていく。
「美味しそうね。源さん、贅沢に**鰹**のタタキも添えてくれたの?」
「ああ、初鰹のいいやつが手に入ったからな。これを食べれば、元気になる」
源次郎は、涼しげな**切子**の器に、細かく砕いた氷と一緒に**心太**を盛り付け、三杯酢を回しかけた。ガラスの繊細な模様が、部屋のわずかな光を反射してキラキラと輝いている。
「いただきます……」
志乃は、冷汁を麦飯にかけて一口すすった。冷たくて、出汁の旨味と薬味の清涼感が口いっぱいに広がる。いつもなら大喜びするはずの美味しさなのに、喉を通る感覚はどこか重苦しい。心太のつるりとした食感も、まるで喉元を通り過ぎる不穏な気配のようだった。
箸を進めていると、開け放った窓から、ひょろひょろとした長い脚の**ががんぼ**が迷い込んできた。羽を頼りなく震わせながら、天井の隅へと這い上がっていく。
「あ、ががんぼ……。あんなに弱々しいのに、必死に生きているのね」
志乃はポツリと呟いた。
「志乃、さっきから何をそんなに怯えているんだ。あの池で、何か見たのか?」
源次郎が、じっと彼女の目を見つめてきた。その瞳の奥にある感情が、怒りなのか、それとも恐怖なのか、志乃には判別がつかない。
「……源さん、私、知ってしまったの。あの池の浮巣の近くに、誰かの衣服が引っかかっていたわ。あれは、行方不明になっているあの人のものじゃないかしら」
志乃の告白に、部屋の中が一瞬で凍りついたような静寂に包まれた。
窓の外からは、微かに**蜜柑の花**の甘い香りが風に乗って漂ってくる。この初**夏**の美しい季節に、なぜこんな恐ろしい秘密が隠されていなければならないのか。
「志乃。見間違いだよ。あそこには何も沈んでなんかいない」
源次郎の声は、低く、そして酷く落ち着いていた。
「いいえ、見間違いじゃないわ! だって、あなた、あの日の夜、泥だらけの服で戻ってきたでしょう? あの池の近くにある、激しい**滝**の音がする場所へ行っていたのね? 私、夜中にあなたの足音を聞いたのよ!」
志乃は立ち上がり、胸の鼓動が早くなるのを感じながら夫を問い詰めた。
外はいつの間にか、風がピタリと止む**夕凪**の時間帯に入っていた。不気味なほど静まり返った世界の中で、二人の視線が激しく交錯する。
「……そこまで気づいていたのか」
源次郎は深く溜息をつくと、観念したように肩の力を抜いた。
「でも、誤解しないでくれ、志乃。俺があそこへ行ったのは、彼を助けようとしたからだ。彼は足を滑らせて、滝の上の激流から池へと落ちてしまった。俺が駆けつけたときには、もう……。俺は、自分が疑われるのが怖くて、言い出せなかったんだ」
夫の告白を聞いた瞬間、志乃の胸を支配していた冷たい恐怖は、大きな安堵と、切ない悲しみへと変わっていった。
「源さん、どうしてすぐに言ってくれなかったの……。一人でそんな重い秘密を抱えていたなんて」
志乃は夫の元へ歩み寄り、その大きな手をそっと両手で包み込んだ。
「すまない、志乃。お前を巻き込みたくなかったんだ」
夕凪の静寂の中、二人は静かに寄り添い合った。窓の外では、ががんぼが静かに闇の中に消え、蜜柑の香りが、傷ついた二人の心を優しく包み込むように漂い続けていた。
6月4日
浮 巣
田 植
心 太
蜻蛉生る
黴
蜜柑の花
やませ
青 梅
桑の実
鰹
単 衣
七変化
現の証拠
夕 凪
切 子
ががんぼ
夏
冷 汁
滝




