六月のハンカチ
六月のハンカチ
六月に入ったばかりだというのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
朝、制服の白いブラウスに袖を通しながら、結衣は鏡の前でため息をつく。
窓の外では、昨夜降った雨の名残が庭の木々を濡らしていた。紫陽花の葉先から雫が落ちるたびに、空気の中へ土の匂いが広がる。
もうすぐ梅雨だ。
そう思うだけで、なんだか心まで湿ってしまう気がした。
「結衣、朝ごはんできてるわよ」
母の声が一階から聞こえる。
「はーい」
階段を下りると、食卓には焼き鮭と味噌汁、それに卵焼きが並んでいた。
炊きたてのご飯から立ちのぼる湯気が温かい。
結衣は椅子に腰掛けた。
「今日から更衣だね」
母が笑う。
「うん。やっと夏服」
「その長袖、見てるだけで暑そうだったものね」
結衣は苦笑した。
実際、六月の制服替えを毎年楽しみにしている。
薄い生地のブラウスは風を通すし、見た目も軽やかだ。
朝食を終えると、母が新しいハンカチを差し出した。
白地に小さな目白の刺繍が入った可愛らしいものだった。
「落とさないでね」
「子供じゃないんだから」
そう言いながら受け取る。
けれど、そのハンカチが今日一日の出来事を変えることになるとは思ってもいなかった。
学校へ向かう通学路。
田植えを終えたばかりの水田が朝日に輝いていた。
水鏡の中に空が映り込んでいる。
遠くから夏鶯の声が聞こえた。
ホーホケキョ。
澄んだ声が風に乗る。
用水路の脇にはみみずを狙う小鳥たちが集まっている。
緑の匂いが濃い。
季節が春から夏へ移り変わろうとしていた。
校門をくぐると、親友の美咲が手を振った。
「結衣ー!」
「おはよう」
「見て見て、新しいリボン!」
美咲は胸元を指差す。
「可愛い」
「でしょ?」
教室にはすでにクラスメイトたちが集まっていた。
窓辺にはベゴニアの鉢植え。
赤い花が朝日に透けている。
担任が入ってきて朝のホームルームが始まった。
一時間目は生物。
校外観察だった。
学校裏の小さな雑木林へ向かう。
「今日は初夏の生き物を観察します」
教師の声が響く。
木陰へ入ると空気がひんやりした。
小さな蜘蛛が葉の上を走っている。
「蠅虎だ」
生物好きの男子が嬉しそうに言う。
「かわいいな」
「蜘蛛なのに?」
「目が大きいから」
確かに不思議と愛嬌があった。
さらに奥へ進む。
小川のそばでは河鹿の鳴き声が聞こえてくる。
澄んだ水の中を山女魚が泳いでいた。
結衣は思わず見とれた。
その時だった。
「あっ」
足元の石でバランスを崩す。
身体が前へ倒れそうになる。
しかし誰かが腕をつかんだ。
「危ない」
低い声だった。
振り返る。
クラスメイトの高橋悠真だった。
運動部のエース。
女子から人気がある。
「ご、ごめん」
「怪我してない?」
「大丈夫」
胸がどきどきした。
川面から吹く風が頬を冷やしても、その熱は消えなかった。
昼休み。
結衣は屋上近くのベンチで弁当を広げた。
母が作った唐揚げと卵焼き。
甘いだしの香りがする。
美咲が言った。
「ねえ」
「なに?」
「さっき助けてもらってたじゃん」
「見てたの?」
「見てた」
にやにやしている。
「別に何もないから」
「ほんとかなあ」
結衣は顔が熱くなる。
誤魔化すように唐揚げを口へ運んだ。
午後。
突然空が暗くなった。
梅雨めいた雲が広がる。
やがて雨。
教室の窓を叩く音が大きくなった。
帰りのホームルームが終わっても降り続いている。
「洗濯物大丈夫かな」
誰かが呟く。
そんな中。
結衣はあることに気付いた。
ハンカチがない。
母にもらったばかりのハンカチだった。
「あれ……」
机の中。
鞄の中。
どこにもない。
焦りが胸を締め付ける。
廊下を探す。
校庭を探す。
見つからない。
雨脚はさらに強くなる。
半ば諦めて昇降口へ向かった時だった。
「探し物?」
声がした。
悠真だった。
手には白いハンカチ。
目白の刺繍が見える。
「あっ!」
「落としてた」
結衣はほっと息を吐いた。
胸の奥に温かいものが広がる。
「ありがとう」
「大事なものだった?」
「うん。今朝、お母さんにもらったの」
悠真は少し笑った。
「じゃあ見つかってよかった」
昇降口の外では雨が降り続いている。
ガラス越しに見る景色は少し霞んでいた。
校庭の端には柘榴の花が赤く咲いている。
その鮮やかな色だけが妙にはっきり見えた。
「傘ある?」
悠真が聞いた。
「あるよ」
「じゃあ途中まで一緒に帰る?」
結衣は一瞬言葉を失った。
心臓が跳ねる。
けれど。
「うん」
自然と笑顔がこぼれた。
二人は昇降口を出る。
雨の匂い。
濡れた土の匂い。
遠くでががんぼが飛び回っている。
商店街のショーウインドーにはカットグラスが並び、雨粒を受けてきらきら光っていた。
鮎鮨の店からは香ばしい匂いが漂う。
六月の町は少し湿っていて、少し眩しい。
並んで歩く帰り道。
肩が触れそうな距離。
結衣は胸の奥に芽生えた感情をまだ恋とは呼べなかった。
けれど確かに思った。
この雨の日を、きっと忘れない。
そして明日もまた、学校へ行くのが楽しみだと。




