6月3日『初夏のめまぐるしい一日』
『初夏のめまぐるしい一日』
――また今日も、胸の奥がじりじりと焦げるような、妙な焦燥感に苛まれている。
志乃は、洗い立ての白い木綿のブラウスの袖をきっちりと二回折ると、庭へと続く縁側に腰を下ろした。六月三日。暦の上では完全に夏だ。世間では**更衣**の季節だと浮き足立っているが、志乃にとってはただ「洗濯物が増える面倒な季節」の幕開けに過ぎない。
ふう、と重い溜息をつくと、湿った初夏の風が彼女の短い前髪を揺らした。空気はすでにどこか生温かく、ねっとりと肌にまとわりつく。遠くの田んぼからは、ガタゴトと**田植**機の牧歌的な音が響いてくるが、それがかえって志乃のイライラを増幅させた。
「ああ、もう完全に**梅雨めく**気配じゃない。湿気で髪の毛が爆発するわ」
志乃はポケットから、お気に入りのリネン製の**ハンカチ**を取り出し、額ににじんだ汗を乱暴に拭った。
すると、背後の脱衣所から、まるで志乃の不機嫌に呼応するかのように、凄まじい轟音が響き渡った。
ガッタン、ゴットン、バキバキバキ!
「ひっ!? 何事!?」
志乃は飛び上がって脱衣所に駆け込んだ。そこでは、我が家の働き者であるはずの**洗濯機**が、まるで命を吹き込まれた猛獣のように激しくのたうち回っていた。
「ちょっと、静かにしなさいよ!」
志乃が操作パネルを叩こうとしたその時、洗濯機の排水ホースの隙間から、にょろりと赤黒い影が這い出てくるのが見えた。
「いやあああ! **みみず**! なんでそんな巨大なものが洗濯機から出てくるのよ!」
志乃は恐怖で鳥肌を立たせ、その場でのけぞった。
その時、居間の方から、のんきな足音が近づいてきた。夫の源次郎だ。彼は、今日釣ってきたばかりの**山女**を、まるで見せびらかすように両手にぶら下げている。
「おいおい、朝から何を騒いでいるんだ。ほら見ろ、丸々と太った見事な山女だぞ」
「山女なんてどうでもいいわよ! 洗濯機が爆発しそうなの! それに、床に変な生き物が!」
志乃は涙目で夫を睨みつけた。源次郎は、まるで**子鹿**のように怯える妻の様子を見て、ようやく事の重大さに気づいたらしく、慌てて洗濯機のコンセントを引き抜いた。
「……やれやれ、脱水でシーツが片寄っていただけじゃないか。大げさだなあ。ほら、お前がそんなにイライラしているから、庭の**木苺**でも食べて落ち着けよ。ほら、真っ赤に熟してるぞ」
源次郎は、ポケットから無造作に取り出した数粒の木苺を、志乃の口元に差し出した。
「ん、酸っぱい……。でも、ちょっと美味しいかも」
口いっぱいに広がった甘酸っぱい果汁の味が、志乃の荒んだ心をほんの少しだけ癒やしてくれた。
その時、庭の奥の竹林から、ケキョ、ケキョ、と、少し間の抜けた鳴き声が聞こえてきた。
「あら、**夏鶯**ね。もうそんな季節か」
源次郎が目を細める。
「風流なのはいいけれど、私の心はちっとも風流じゃないわ。見てよ、庭の**ベゴニア**の鉢植え。雨が降りそうだからって、昨日家の中に入れたのに、今度は虫がついてるじゃない」
志乃は、真っ赤な花を咲かせているベゴニアの葉を指差した。
すると、その葉の裏から、ぴょんと小さな影が飛び出してきた。
「うわっ、**河鹿**蛙か? いや、違うな。これは……**蠅虎**か」
源次郎が目を凝らす。小さな蜘蛛が、愛嬌のある動きでベゴニアの葉の上を徘徊していた。
「もう、虫も蛙も蜘蛛も、一斉に湧き出てくるんだから。初夏って本当に騒がしいわ」
志乃はうんざりしながらも、庭の隅で鮮やかに咲き誇る**柘榴の花**の、燃えるような赤色に目を奪われていた。その強烈な色彩は、どこか彼女の胸の中のモヤモヤを刺激する。
「よし、気分転換に冷たいお茶でも飲もう」
源次郎はそう言って、食器棚から涼しげな**カットグラス**を取り出した。ガラスに施された繊細な切子細工が、初夏の光を反射して、畳の上に美しい光の幾何学模様を描き出す。
お茶を注ごうとしたその時、窓辺を、ひょろひょろとした長い脚の虫が横切った。
「あ、**ががんぼ**だ。叩かないでね、源さん。ただ迷い込んだだけだから」
志乃は、その弱々しい虫の姿に、なぜか自分自身の頼りなさを重ね合わせてしまい、急に優しい声を落とした。
「わかってるよ。お前は本当に、怒ったりしんみりしたり、忙しい奴だな」
源次郎は苦笑しながら、お茶請けとして、近所の人にもらったという風変わりな葉っぱを皿に並べた。
「これ、**アカンサス**の葉に似ているけれど、なんの葉かしら?」
「さあな。だが、この上にこれを乗せると、実に美味そうに見えるぞ」
源次郎が冷蔵庫から取り出してきたのは、なんと贅沢な**鮎鮨**だった。
「わあ、鮎鮨! いつの間に買ってきたのよ!」
志乃の目は一瞬で輝いた。酢のさっぱりとした香りと、鮎の独特な苦味が混ざり合い、鼻腔をくすぐる。
「お前が最近、元気がないからな。たまには贅沢もしないと、この梅雨を乗り切れないだろう?」
源次郎の不器用な優しさに、志乃の胸の奥の焦げ付きが、すうっと消えていくのが分かった。
「ありがとう、源さん。いただきます」
一口食べると、濃厚な旨味と爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、五臓六腑にしみわたるようだった。
ふと見ると、庭の梅の木に、一羽の小さな鳥が止まっていた。目の周りが白い、愛らしい**目白**だ。
「ねえ、源さん。目白も鮎鮨が食べたいのかしらね」
「まさか。あいつらは甘い木の実の方が好きさ。お前みたいに食いしん坊じゃない」
「なによ、それ!」
二人は顔を見合わせて、どっと笑い声を上げた。
六月三日。衣替えの季節。
志乃の心は、梅雨の空模様のように目まぐるしく変わるけれど、夫の淹れてくれた冷たいお茶と、美味しい鮎鮨、そして目の前の穏やかな情景があれば、この鬱陶しい季節も、案外悪くないかもしれないと、彼女は静かに微笑むのだった。
6月3日
更 衣
田 植
梅雨めく
ハンカチ
洗濯機
みみず
山 女
子 鹿
木 苺
夏 鶯
ベゴニア
河 鹿
蠅 虎
柘榴の花
カットグラス
ががんぼ
アカンサス
鮎 鮨
目 白




