六月二日の雨粒と、緋色の異邦人
六月二日の雨粒と、緋色の異邦人
昨日までの乾いた空気はどこへやら、空は朝からどんよりとした鼠色の雲に覆われていた。今日、六月二日は、この街の古い暦で「梅雨はじめ」と呼ばれる日だ。
私はクローゼットから、今日のために用意しておいた薄手の白いリネンワンピースを取り出して袖を通した。衣替えの季節。サラリとした生地が肌に心地よく、胸元に施された細かな刺繍が、ほんの少しだけ憂鬱な雨の日の気分を引きたててくれる。
「レン、早くしないと雨が本格的に降ってきちゃうよ」
私が鏡の前で髪を整えていると、使い魔である小さな羽のある白猫のルルが、窓辺でせわしなく尻尾を振った。
庭に出ると、すでに空気はたっぷりと水分を含んで重く、ツンとした土の匂いが立ち上っている。見渡す限りの青葉が、これから始まる長い雨の季節を歓迎するように、しっとりと濡れて深い緑色に輝いていた。
その瑞々しい葉の隙間から、紫色の気品あるアイリスの花と、燃えるような朱色のゼラニュームが、雨粒を弾きながら鮮やかに咲き誇っている。その対比が妙に美しくて、私はしばらく足を止めて見惚れてしまった。
「うわっ、びっくりした!」
足元で突然、ガサリと草むらが揺れた。見ると、大きなひきがへるが、のそのそと這い出てきて、私を大きな目で見上げている。
「もう、驚かせないでよ。あなたにとっては最高の季節が始まったのね」
苦笑いしながら歩みを進めると、遠くの畑からは、村人たちが急ピッチで田植えを進める賑やかな声が聞こえてきた。水が張られたばかりの水田は、まるで巨大な割れた鏡のように灰色の空を映し出している。
そんなのどかな風景の中、私の目的地である、村の外れの古い仕立て屋へと向かった。そこには、私の大好きな「海芋」――美しい白いカラーの花が、教会の尖塔のように真っ直ぐと佇んでいた。
---
### 第五話:ギヤマンの灯りと、謎の青年
仕立て屋の暖簾をくぐると、カランカランと真鍮の鈴が涼しげな音を立てた。
店内は、外のジメジメした空気とは打って変わって、どこか懐かしい薪の香りと、大きな鍋から立ち上る独特の甘い香りに満ちていた。
「おや、レンちゃん。いいところに来てくれたねえ」
店主のおばあさんが、湯気の向こうから顔を出した。大きな鉄鍋の中では、今まさに繭煮る作業の真っ最中だった。白く丸い繭が湯の中で踊り、そこから極細の絹糸が、まるで見えない魔法の糸のように美しく手繰り寄せられている。
「こんにちは。おばあさん、頼んでいた修復の魔法薬を持ってきたよ」
「助かるよ。さあ、そこに座っておくれ。ちょうどお昼ご飯にしようと思っていたんだ」
おばあさんが差し出してくれたのは、この地域で「男梅雨」と呼ばれる激しい豪雨の日に、体を温めるために食べるという伝統的な料理だった。
透き通ったガラスの器――美しいギヤマンの器に盛られていたのは、今が旬の鱧の皮を細かく刻んで、さっぱりとした酢の物にしたもの。そして、デザートには、摘みたての真っ赤な、大粒のいちごが添えられていた。
「わあ、美味しそう……! いただきます」
まずは鱧の皮を口に運ぶ。コリコリとした独特の小気味よい歯ごたえとともに、香ばしさと爽やかな酢の酸味が口いっぱいに広がり、ジメジメとした暑さが一気に吹き飛ぶようだった。
「うん、美味しい! この歯ごたえ、たまらないね、ルル」
ルルも、おすそ分けされた白身の魚を嬉しそうに小さな口でモグモグと食べている。
食後に甘いいちごを齧ると、果汁がじゅわっと溢れ、甘酸っぱい香りが鼻に抜けた。その時、店の奥の影から、不意に低い男の人の声が響いた。
「……それは、不思議な味がする食べ物だな」
驚いて振り返ると、そこには見慣れない衣服をまとった青年が座っていた。
彼は、この辺りでは見かけない、厚手のウールでできた、深い紺色の軍服のような上着を着ていた。肩には美しい銀色の刺繍が施されている。彼の持つ独特の空気感と、その冷ややかな青い瞳は、遠く北の国――雪と氷に閉ざされたロシアの地を思わせるものだった。
---
### 第六話:桐の花の下で、交わす約束
「彼はね、昨日の夜、裏の渓流で行き倒れていたんだよ」
おばあさんが心配そうに言った。
青年の名はアレクセイといい、どうやら次元の歪みに巻き込まれて、このファンタジーの世界へと迷い込んでしまったらしい。
「私は魔法使いだから、元の場所に帰る手伝いができるかもしれない」
私がそう言うと、アレクセイは驚いたように目を見張った。彼の冷たそうに見えた瞳の奥に、小さな希望の光が灯るのを見た瞬間、私の胸がトクンと小さく跳ねた。
私たちは、手がかりを探すために外へ出た。
雨はいつの間にか激しさを増し、まさに「男梅雨」の様相を呈していた。激しい雨粒が地面を叩き、川のせせらぎは轟音へと変わっている。その激しい水音に負けじと、川辺からは河鹿蛙が、まるでお互いを励まし合うように高く澄んだ声で鳴き交わしていた。
見上げると、激しい雨のカーテンの向こうを、岩燕の群れが、鋭い矢のように素早く、そして優雅に飛び交っている。彼らは雨など恐れる様子もなく、自由に空を舞っていた。
「すごいな。私の故郷では、こんなに激しい雨の中で鳥が飛ぶ姿は見られない」
アレクセイが、雨に濡れるのも構わずに空を見上げて呟いた。彼の長い睫毛に水滴がたまり、それが彼の端正な横顔をいっそう際立たせている。私は胸が締め付けられるような、切ない感情を覚えた。
私たちは、雨宿りのために大きな桐の木の下に駆け込んだ。
頭上には、淡い紫色の桐の花が、まるで小さな鐘のようにたくさん咲いている。その花から、高貴で、どこか甘く優しい香りが、雨の匂いに混ざって漂ってきた。
「アレクセイ、寒くない? これ、使って」
私は、おばあさんの店で分けてもらった、除虫菊の成分を含んだ乾燥ハーブの袋を彼に手渡した。これを身につけていると、魔除けにもなり、体がじんわりと温まるのだ。
「ありがとう、レン。君は本当に優しいな」
アレクセイはそう言って、私に微笑みかけた。その笑顔を見た瞬間、私の顔は、彼が着ている上着の紺色とは正反対の、真っ赤なゼラニュームのような色に染まってしまった。
「う、ううん! 魔法使いとして当然のことをしただけだから!」
慌ててそっぽを向く私を、ルルがニヤニヤと意地悪そうな目で見つめてくる。
「君の国に帰る方法、絶対に私が見つけてみせるから。だから、それまでは……私のそばにいて」
最後の言葉は、激しい雨の音にかき消されてしまったかもしれない。けれど、アレクセイは私の手をそっと握りしめ、「頼りにしているよ」と静かに言った。
彼の大きな、そして温かい手のひらの感触が、私の心に深く刻まれる。梅雨入りを迎えたばかりのこの世界で、異国から来た青年との、不思議で、少し切ない恋の物語が、今、静かに動き出そうとしていた。




