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6月2日 桐の花が散る頃に

桐の花が散る頃に


 六月二日の朝だった。


 昨夜から降り続いていた雨は勢いを増し、瓦屋根を激しく叩いている。


 男梅雨という言葉がぴったりだった。


 細やかな雨ではない。


 空そのものが崩れ落ちてくるような力強い雨だ。


 藤崎栞は窓辺に立ち、雨に煙る庭を眺めていた。


 軒下のゼラニウムが赤い花を揺らしている。


 その向こうには除虫菊の白い花。


 濡れた青葉は雨粒をまとい、翡翠のような色をしていた。


「また雨かあ」


 栞は小さくため息をついた。


 二十五歳。


 地元の図書館で働いている。


 今日は休みだった。


 薄い藤色のブラウスに白いロングスカート。


 更衣を終えたばかりの初夏らしい装いだ。


 台所から甘い香りが漂ってくる。


 朝食のいちごだった。


 真っ赤に熟れたいちごを洗い、ヨーグルトに添える。


 焼きたてのトースト。


 スクランブルエッグ。


 熱い紅茶。


 窓の外ではひきがえるが低く鳴いていた。


 梅雨の朝の音だった。


 食事を終えた頃、スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 幼なじみの高瀬悠真からだった。


『今日暇?』


 栞は思わず笑った。


 昔から要件だけの男だった。


『休みだけど』


 返信するとすぐ返事が来る。


『海行かない?』


 思わず窓の外を見る。


 豪雨だった。


『正気?』


『午後には晴れる』


『本当に?』


『天気予報がそう言ってる』


 少し迷った。


 しかし悠真と出掛けるのは久しぶりだった。


『行く』


 送信すると、


『迎えに行く』


 と返ってきた。


 午後。


 本当に雨は上がった。


 雲の切れ間から青空が見え始める。


 雨上がりの空気は透明だった。


 栞は薄いアイリス色のカーディガンを羽織り、家を出た。


 待っていたのは銀色の軽自動車。


 運転席から悠真が手を振る。


「おう」


「本当に晴れた」


「だから言っただろ」


 悠真は笑った。


 二十七歳。


 地元の漁協で働いている。


 日に焼けた肌。


 白いシャツの袖をまくった腕。


 昔よりずっと大人になったのに、笑う顔だけは変わらない。


 車は海岸線を走った。


 窓を開ける。


 潮風が吹き込む。


 遠くで岩燕が飛んでいた。


 青空を切り裂くように舞っている。


「気持ちいい」


 栞が言う。


「だろ」


 悠真は得意そうだった。


 海辺の小さな食堂へ入る。


 木造の古い店だった。


 窓から海が見える。


「何食べる?」


「おすすめは?」


「鱧かな」


 運ばれてきたのは鱧の湯引きだった。


 白い身。


 梅肉。


 青じそ。


 口に入れた瞬間、ふわりと旨味が広がる。


「美味しい!」


「ここのは有名だからな」


 続いて海芋の煮付け。


 新鮮な魚介の天ぷら。


 炊き込みご飯。


 どれも絶品だった。


「幸せそうな顔してる」


 悠真が笑う。


「だって美味しいんだもん」


「単純だな」


「悪かったわね」


 二人で笑った。


 食後。


 海辺を歩く。


 波は穏やかだった。


 さっきまでの豪雨が嘘のようである。


 堤防に腰掛ける。


 潮の香り。


 波音。


 遠くで河鹿が鳴いている。


「なあ」


 悠真が言った。


「ん?」


「覚えてるか」


「何を?」


「小学校の時」


 栞は首を傾げた。


「桐の木」


「ああ」


 思い出した。


 通学路の途中に大きな桐の木があった。


 六月になると紫色の花を咲かせる。


「毎年見てたね」


「お前が綺麗だって騒ぐから」


「騒いでないもん」


「騒いでた」


 栞は笑った。


 懐かしかった。


 あの頃はただの幼なじみだった。


 ずっと一緒にいるのが当たり前だった。


「今年も咲いてるかな」


 栞が呟く。


「咲いてると思う」


「見に行く?」


 悠真が答えなかった。


 代わりに少し困ったような顔をした。


「どうしたの?」


「いや」


「何?」


 風が吹いた。


 潮の香りが漂う。


 悠真はしばらく黙っていた。


 そして不意に言った。


「お前さ」


「うん」


「彼氏いる?」


 栞は瞬きをした。


「いないけど」


「そっか」


「どうしたの急に」


 悠真は耳を赤くした。


 珍しかった。


 この男が照れるなんて。


「別に」


「絶対別にじゃない」


「うるさい」


 栞は吹き出した。


 その時だった。


 強い風が吹いた。


 堤防の向こうで何かが舞う。


 見ると桐の花だった。


 どこかから飛ばされてきたのだろう。


 淡い紫色の花びらが夕陽の中を舞っていた。


 美しかった。


「綺麗」


 栞が呟く。


 悠真は花ではなく栞を見ていた。


「そうだな」


 その声に、なぜか胸が少しだけ熱くなる。


 夕陽が海を染めていた。


 六月の風が吹いている。


 桐の花は静かに舞い続けていた。


 二人の距離が少しだけ変わり始めたことを、その花だけが知っているようだった。




6月2日


更 衣


田 植


梅雨はじめ


ひきがへる


いちご


青 葉


海 芋


岩 燕


除虫菊


男梅雨


アイリス


河 鹿


ゼラニューム


繭煮る


ギヤマン


梅雨入


鱧の皮


ロシア


桐の花



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