六月一日の水滴、恋の始まり
六月一日の水滴、恋の始まり
からりと晴れ渡った青空から降り注ぐ陽光が、じりじりと肌を焼き始めていた。今日から六月一日。街を行く人々の姿は一斉に衣替えを迎え、長袖から涼しげな半袖へと変わっている。
「ちょっと、歩くの早すぎだってば、朔太郎!」
私の幼馴染である香織が、後ろから白いスニーカーの音を響かせて追いかけてくる。彼女が着ているのは、今日下ろしたてだという眩しい白のブラウスに、淡いデニムのフレアスカート。風が吹くたびに、彼女の髪からお気に入りのシトラスのシャンプーの香りがふわりと漂い、私の鼻腔をくすぐった。
「お前が遅いんだよ。ほら、ぼさぼさしてると予備校の講義に遅れるぞ」
私は、着慣れない薄手の青いポロシャツの襟元を少し引っ張りながら振り返った。香織は額にうっすらと汗を浮かべ、頬を林檎のように赤く染めて膨れている。その姿が妙に可愛らしくて、私は慌てて視線を前方にそらした。
私たちの住む田舎町は、今まさに田植えの季節の真っ盛りだった。見渡す限りの水田には、等間隔に美しく植えられた若い苗が並び、張られた水が太陽の光を鏡のように反射してキラキラと輝いている。風が吹くと、水面が細かく波立ち、どこか冷ややかな水の匂いと、瑞々しい泥の匂いが混ざり合って届く。
「でもさ、本当に急に暑くなったよね。昨日の夜なんて、庭のほうからさっそく蟾蜍の鳴き声が聞こえてきて、もう夏なんだなって実感しちゃった」
「ヒキガエルな。風情があるっていうより、お前、昔はあれ見て泣いてただろ」
「もう! 昔の話は禁止! 今はもう大人だもん!」
香織はぷんぷんと怒りながら、私の隣に並んで歩調を合わせた。
ふと視線を横に向けると、黄金色に実った麦の畑が広がっていた。初夏でありながら、ここだけは秋のような実りの色を見せる、いわゆる麦秋の景色だ。
「ねえ、朔太郎、あれ」
香織が指差した先では、近所の子供たちが麦の茎を口に当てて、ピーピーと不器用な音を鳴らしていた。麦笛だ。
「懐かしいな。お前、全然音鳴らせなくてさ、泣きながら俺の服の裾引っ張ってたっけ」
「だから、昔の泣き虫エピソードは禁止って言ってるでしょ! あーあ、からかわれてお腹空いちゃった。お昼ご飯、何にする?」
「まだ十時すぎだぞ。気が早すぎる」
あきれつつも、私たちの足は自然と、お気に入りの和食定食屋へと向かっていた。
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### 第二話:小糠雨と、秘密の贅沢
予備校の午前中の講義が終わる頃、窓の外の景色は一変していた。さっきまでの快晴が嘘のように、どんよりとした灰色の雲が空を覆い尽くしている。
「あーあ、ついに梅雨入りかあ。天気予報で言ってた通りになっちゃったね」
香織が窓の外を眺めながら、小さくため息をついた。
外に出ると、傘をさすか迷うほどの細かな雨――小糠雨が、しっとりと街を濡らしていた。肌に触れる空気は、さっきまでの暑さが嘘のようにひんやりとしていて、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
「お昼、予定通りあそこに行く?」
「おう。雨だし、さっと入ろうぜ」
私たちは暖簾をくぐり、いつもの定食屋の座敷に腰を下ろした。
注文したのは、この時期にぴったりの夏大根を使ったおろし生姜焼き定食と、旬の鮎の塩焼きだ。
「うわあ、美味しそう!」
香織の目がパッと輝いた。運ばれてきた鮎は、炭火でじっくりと焼かれていて、香ばしい皮の匂いと塩の香りが食欲をそそる。箸で身をほぐすと、中からふっくらとした白い身が現れ、口に運ぶと独特の爽やかな苦味が広がった。
「んー! この鮎、すごく美味しい! 夏が来たって感じがする。それに、この夏大根のおろしも、ピリッと辛みがあって、お肉と最高に合うよ」
香織は本当に幸せそうに、ご飯を大きな口で頬張っている。口いっぱいに食べ物を詰め込んで、もぐもぐと動く彼女の頬を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「お前、本当に美味そうに食うよな」
「だって、美味しいものを朔太郎と一緒に食べるのが、一番元気出るんだもん」
何気なく放たれたその言葉に、私の心臓がドクンと大きな音を立てた。彼女は全く自覚がないようで、今度は付け合わせの野菜を熱心に食べている。
店を出ると、雨はすっかり上がっていた。どんよりとした空気の中で、通り沿いの花屋の店先に飾られた、鮮やかなピンクやオレンジのガーベラの花だけが、そこだけスポットライトを浴びたように鮮烈に輝いていた。
「綺麗……。ジメジメした気分が吹き飛んじゃうね」
香織はその花を愛おしそうに見つめていた。彼女の横顔に、雨上がりの柔らかな光が差し込み、濡れた睫毛がキラキラと光る。私はその美しさに、しばらく言葉を失ってしまった。
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### 第三話:黄雀風のいたずらと、揺れる心
午後になり、私たちは少し遠回りをして、近くの渓流沿いにある散歩道を歩くことにした。
このあたりは、涼しげな鳴き声で知られる河鹿蛙の生息地だ。サラサラと流れる澄んだ川の音に混ざって、鈴を転がすような美しい鳴き声が、周囲の静寂に響き渡っていた。
「いい音だね。心が洗われるみたい」
「そうだな。都会じゃ絶対に聞けない音だ」
川沿いには、歴史のある古いお寺の敷地が広がっている。今日は五月忌の法要があるらしく、境内からは微かに線香の、落ち着くけれどどこか切ない香りが漂ってきていた。
私たちは、お寺の古い土壁に目を向けた。そこには、びっしりと蔦青しと言いたくなるような、鮮やかな緑の蔦が這い上がっていた。雨を吸い込んだ葉の一枚一枚が、生き生きとした生命力を持って、深い緑の輝きを放っている。
「ねえ、朔太郎。私たち、予備校が終わって進路が決まったら、この街を出ていくのかな」
香織が、ふと足を止めて呟いた。その声には、いつもの元気がなく、どこか寂しげな響きが含まれていた。
「さあな。お前は東京の大学に行きたいんだろ?」
「うん。でも、こうやって朔太郎と歩く時間がなくなっちゃうのかなって思ったら、なんだか急に怖くなっちゃって」
彼女の大きな瞳が、不安そうに私を見上げる。その瞳の中に、しっかりと私の姿が映っていた。私は、彼女を安心させたくて、でも自分の素直な気持ちを伝えるのが恥ずかしくて、言葉に詰まってしまった。
その時、突然、生温かい強い風が私たちの間を吹き抜けた。この時期に吹く、黄雀風と呼ばれる南風だ。
「キャッ!」
強い風に煽られて、香織のブラウスの裾が大きく翻り、フレアスカートがふわリと広がった。彼女は慌てて両手でスカートを押さえたが、風のいたずらは止まらず、彼女の長い髪が視界を遮るように乱れる。
「大丈夫か?」
私は反射的に彼女の肩を支えるように抱き寄せた。
その瞬間、私たちの距離はゼロになった。香織の体温が、服越しにダイレクトに私の胸へと伝わってくる。ドクドクと、自分のものか彼女のものか分からない、激しい鼓動が鼓膜に響いた。
「あ、ごめん……」
風が止み、私は慌てて手を離した。香織の顔は、さっきの暑さのせいではなく、完全に真っ赤に染まっていた。彼女は俯いたまま、小さな声で「ううん、ありがとう」と呟いた。
気まずい沈黙が流れる中、私たちのすぐ脇の軒先に吊るされたガラスの風鈴が、チリンと涼しげな音を立てた。その下には、丸いガラス鉢の中で、真っ赤な金魚がひらひらと尾びれを揺らしながら、優雅に泳いでいた。
「……金魚、可愛いね」
香織が、照れ隠しのように鉢を指差した。
「ああ。真っ赤で、なんだか今のお前みたいだな」
「もう! すぐにそういう意地悪言うんだから!」
香織は顔を真っ赤にしたまま、ポカポカと私の腕を叩いた。しかし、その表情には先ほどの不安は消え、いつもの弾けるような笑顔が戻っていた。
私たちの関係は、まだ幼馴染のままかもしれない。けれど、この六月の風と、雨と、美しい情景の中で、確実に何かが変わり始めている。私は、彼女の手を握りたい衝動を必死に抑えながら、再び歩き出した彼女の少し後ろを、愛おしさを噛み締めながらついて行った。




